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<東京怪談ノベル(シングル)>


運命の改変者


 3年かかった。
 この3年間、憎しみだけで生きてきた。
 憎しみではなく、愛だったのかも知れない。憎悪も愛情も、似たようなものだ。
「お前が……お前が、悪いんだぞ……お前がぁ……」
 男は、息を切らせていた。
 両手が、硬直している。
 五指が、包丁を掴んだまま固まっている。血に染まった刺身包丁。魚の血ではない。
 目の前で倒れているのは、かつて妻であった女だ。
 否。今でも夫婦であると、男は思っている。
 あんなに愛し合って結婚したのに、妻は逃げた。
 まさか、こんな地方のアパートに隠れ住んでいるとは思わなかった。突き止めるのに、3年もかかったのだ。
「お前が、悪いんだぞ……俺は悪くない……」
 物言わぬ妻に向かって、男は言葉を繰り返した。
「俺は悪くない……お前の、せいなんだぞ……俺は悪くない……」
「皆さん、そうおっしゃるんですよねえ」
 声をかけられた。若い女の声。
 息を飲み、おかしな悲鳴を漏らしながら、男は振り向いた。
 玄関に立っていたのは、生保か何かのセールスレディのようでもある1人の女。
 まず、どうしても胸に目が行ってしまう。たわわな膨らみが、ブラウスとジャケットに閉じ込められて窮屈そうだ。
 綺麗にくびれた胴のラインと、尻まわりの豊麗な丸みは、こうしてタイトスカートなど穿いていると特に際立つ。
 すらりと綺麗に伸びた両足は、ストッキングの類を穿いていない。矯正の必要など全く感じさせない、見事な脚線である。
「自分は悪くない、死んで当然の相手だから殺した……こういう事をする人たちって大抵、そこに逃げ込んじゃうんです。まあ確かにね、殺すか死ぬかしないと二進も三進も行かない事情を抱えた人、いないわけじゃないですけど」
 そんな言葉に合わせて男を見据える左右の瞳は、紫色をしている。
 カラーコンタクトではない。炯々と輝く生の眼光を剥き出しにした、紫の瞳。
 外国人ではない。彫りの浅い美貌は、日本人女性のそれだ。さらりと艶やかな、黒髪も。
「貴方たちの場合……それは、どうも奥さんの方ですねえ。いつも旦那さんに殴られて、ひどい事言われて、逃げ出しても追いかけられて、こんなふうに殺されて」
 殺すしかない。男は、そう思った。
 見られた、だけではない。この女、何も知らずに勝手な事を言っている。
 自分が、どれほど妻を愛していたか。愛する妻のいない3年間、どのような思いでいたのか。知りもしないくせに。
 叫びながら、男は駆け出した。固まった手で刺身包丁を握ったまま、紫の瞳の女に向かって突進した。
 逃げず、怯えもせずに、女は言う。
「愛してる……って理由だけで結婚なんかしちゃうから、こういう事になるんです」
 紫の瞳が、輝いた。
「だから情報改変……貴方たちは最初から、出会いませんでした」


 20代後半と思われる、若い夫婦である。
 夫は、そろそろ自分で歩けるかどうか、という年齢の子供を抱き上げている。妻は、ベビーカーを押している。
 4人家族が、幸せそうに微笑み合いながら、公園を歩いていた。
「上手くいった……っていう事で、いいんじゃないですか」
 ベンチに座ったまま、松本太一は呟いた。
 傍目には、生保のセールスレディが公園で仕事をさぼっている、ように見えなくもないだろう。
 そんな太一の独り言に、応えた者がいる。
『貴女……吹っ切れた、と言うか開き直ったのではなくて?』
 太一にしか聞こえない、女の声。
『基本的には、貴女の好きな人助け……なんでしょうけど、随分と思いきった事をしたものね』
「そうですか……自分じゃ、よくわかんないですけど」
 惚けたような口調になってしまう。仕事の疲れが残っているのだ、と太一は思った。
 5億円分、働かなければならなかったのだ。
 どういう仕事であったのかは、よく覚えていない。思い出す事を、脳が、心が、身体が、拒絶しているのだろう。
 そんな事を思いながら太一は、ベンチ近くを通り過ぎて行く4人家族の背中を見送った。
 ベビーカーを押しているのは先程、あのアパート内で殺されていた女性である。
 否、そんな事件は起こっていない。
 彼女は、暴力を振るい暴言を吐き、あげく殺しに来るような男とは、最初から出会わなかったのだ。
『結果、いくらかマシな男を見つける事は出来たようね』
 太一の頭の中で、女が言う。
 姿なき女悪魔。太一は、そう定義している。便宜上の事だ。本当は、悪魔などと簡単に分類出来るほど、単純な存在ではないのかも知れない。
『だけど、あの男はどうするの? 今頃どこかで、別の女を殴ったり蹴ったり……殺したり、しているかも知れないのよ。また情報を改変して、その女とも出会わなかった事にする? 私は別に構わないけれど、きりがないわよ。あの手の男は基本、何度やり直しても同じ事しかしないんだから』
「仏の顔も3度まで、って言いますよね。もちろん私は仏様じゃありませんから、1度しか我慢しません」
 太一は答えた。
「また同じ事をするようなら、やり直しは無しです……情報改変を、あの男自身に」
『……最初から、この世に生まれなかった事にするわけね』
 直接殺すよりも、たちが悪い。それは太一とて、自覚はしているつもりだ。
『いいわ。貴女、いよいよ魔女らしくなってきたじゃないの』
「私……自分が男なのか女なのか、わかんないとこありますけど」
 今の太一は、少なくとも肉体的には女である。若い娘である。
「男としても女としても、ああいう男は許せません」
『貴女、元々けっこう人の好き嫌いハッキリしてる方だものね』
 女悪魔が、楽しそうにしている。
『許せないから消す。だけど、その前に1度だけチャンスをあげる……いいじゃないの。まるで魔界の帝王様みたいよ』
「そうですか?」
『思考が、だんだん魔界の住人に近付いて来てるわね貴女』
「まだまだですよ。私なんて、まだ全然です……魔界にいるのが、どういう方たちなのか、ようくわかったような気がします」
 心が、身体が、思い出す事を拒否している。そんな記憶が、断片的に蘇って来る。
「リヴァイアサンに呑み込まれて、何でか異次元みたいな所に流されたり……海水浴場で羽目外し過ぎて、お持ち帰りされたり。私も大概ですけど、私なんか問題にならないくらい化け物じみた人たちがいっぱいいて、まあ上には上がいる、と言いますか」
 上手い言葉が見つからない。
 この女悪魔の言う通り「吹っ切れた」あるいは「開き直った」というのが、やはり最も近いのであろうか。
 いろいろと大変な目に遭って、自分は何かを「吹っ切って」しまったのだ。
 だから、他者の人生を改変するなどという所業も平気でやってのける。
 あの男を、最初から生まれなかった事にする。それを仮に実行したとしても、自分は全く後悔しないだろうと太一は思う。
 女悪魔の言う通り、魔界の帝王のような事を平気で行うように、これから自分はなってゆくのだろうか。
 太一は空を見上げ、呟いた。
「また……宝くじでも、買ってみますか」
 5億円ほど、当ててみる。
 誰かを最初から生まれなかった事にしてしまうよりは、ずっとましな行いであるはずだった。