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<東京怪談・PCゲームノベル>


時間軸の向う側 ― 彼女の選択


きらきらと辺りが輝き、何もかもが凍りついた。
その中心に立つのは、青みがかった髪の少女――にも見えた。纏った外套が風もないのに揺れてその威厳を示す。全ての凍てついた物の中心に、まるでそれが当然のことのように、彼女は居た。
地面に描かれたのは召喚陣。その中央に、外套を纏う女が足をつけば、硬い床を冷たい氷の蔦が這う。召喚陣を覆い尽くしたそれはやがて、陣を作成したのであろう人物へ到達し、その人物――女だ――が何かを口にするより先にその全身を氷漬けの彫像と化す。
圧倒的な冬の、雪の顕現であった。その顕現、人の形をした女王然とした女性は彫像となった召喚主を無言のまま睥睨し、それから、気が付いたように丸い瞳をおっとりと瞬かせた。二度、三度。瞬きの間を置いてから、氷に覆われた床をするりと滑り、彫像の頬に触れしげしげとその姿を眺める。
「響名ちゃん」
確かめるようにその人物の名前を口に乗せ、頷く。ここのところ家出したとか言う噂だけを残して姿を見なくなっていたが、すらりと手足が伸び、顔立ちも幾らか大人びているものの、アリアの知る人物に相違なかった。
頬を撫で、頭を撫でて、アリアはゆるりと、口に笑みを乗せる。呪文も動作も必要なく、ただ彼女が想うだけで、氷漬けになっていた彫像の姿は一息に解かれて、柔らかな体温を持つ生きた人間のそれへと早変わりした。驚いた表情で凍っていた響名はそのまま、眼前に近付いていたアリアに更に驚いたように丸い目をますます丸くして、それから、
「アリアちゃん!? 何で!」
「呼ばれて飛び出たよ」
「嘘ぉ…いやいや、だってあたし、時間干渉が出来るものって条件付けで召喚した筈なのに…失敗?」
響名は頭を抱えてぐしゃぐしゃと茶色い髪を乱しつつ、ぶつぶつと口の中で小難しげな単語を並べ始める。夢中になるとそうやって思考を言葉に出しながらぐるぐる歩き回ったりしていたな、と、いつかの響名を思い起こしてアリアはまた、微笑んだ。部屋をまるごと冬に叩き込んだ、雪と氷の女王のようなその姿は、しかし微笑めば、5年前の面影を宿す。
失敗はしてないと思うけど、という思案の方は言葉には出さなかった。アリアとて5年前と丸きり同じではないのだ。響名がきっと、そうであるように。
「響名ちゃん」
「なぁに、アリアちゃん。来て貰って悪いけど、すぐ帰還の用意をするから…」
「アイス、食べる?」
商品だからお代は貰うけれど。告げればぽかんと口を開けられた。それから、響名は深めに息をついて、
「…そうね、頂くわ」
「あと、何をして欲しいか教えて」
響名はその言葉には、眉根を寄せたようだった。しばし躊躇に言葉を詰まらせてから、やがて、
「話くらいは聞いて貰っても、いいわよね。折角来て貰ったんだし」
お茶でも淹れるわ、と、寒さに身を震わせた響名は早々に部屋を出ていく。その後を追うアリアの足跡に、霜が降りた。


凍てつく冬と雪と氷を従え現れるアリアには、時という概念すらも、凍結させることが可能だ。時間干渉が出来る存在、という条件付けでもって響名が召喚陣を敷いたのであれば、縁故のあるアリアが現れるのは道理であったかもしれない。だが、アリアは何となく、そのことを口にしないまま、響名の淹れたジンジャーティを吹き冷ましていた。
響名の、セーフハウスのひとつだという、小さなアパートメントの中だった。狭いキッチンにリビングと、それから部屋がひとつだけ。そのひとつきりの部屋をアリアがすっかり凍結させてしまったので、二人が居るのは小さなリビングだ。テーブルの真ん中には、アリアがしっかり持ち込んだ商品、アイスキャンディが並んでいる。一本幾らのそれらの代金を払って響名は葡萄味のそれを手に取った。
「それで」
アイスの包みを剥がす響名に改めて、アリアは問いを投げる。羽織っていた外套はソファの背にかけたものの、纏う威厳に些かの陰りもなかったのは、その身に流れる血の成せる技か。対面に座る響名が気圧されたようにこくりと、小さく唾を呑む。
「何か、してほしいことがあるの、響名ちゃん?」
アリアとしては召喚された立場として当たり前のことを問うただけの積りである。加えて言えば、かつてにおいて、アリアは響名に対して恩義を感じる所があった。対して問われた響名はアイスキャンディを皿に置いて、一度視線を落とした。その願いを口にすべきか、せざるべきかを、迷っているようにも見える。指先をしばらく暖めるように擦っていた彼女は、しかしキャンディが溶けるより前には顔を上げ、真っ直ぐにアリアを見遣った。
「…欲しい物があるの」
彼女の背後にぽつねんと放置された、「人形」があることに、ここに至ってアリアも気が付いた。ヒト、のようにも見えるが命の気配はない。およそ彼女の作ったゴーレム等の魔道具と同じようなものであろう。
その「人形」には、片目が無かった。ちらとそのヒトガタに視線を向けてから、響名は再度、アリアへと視線を戻す。
「あの魔道具を――ルンペルシュテルツキンを、完成させたい」
そう、と頷いて、アリアは一口、ジンジャーティを口に含んだ。アリアの冷たい吐息を受けてすっかり冷えたそれは、しかし生姜の少し刺激的な香りを伴って、そう、確かに凍えた指先を温めるには適した飲み物なのであろう。
「何をすればいいの?」
あっさりとした答えに却って響名は驚いた様子だった。何をすれば、とその言葉を反芻してから、頬をかく。
「あの通り、眼球が片方しかないのよ、あれ」
「そうみたいね」
「もう片方を入れれば完成するの」
それは、とアリアもまた、彼女が「ルンペルシュテルツキン」と呼んだヒトガタに目を遣った。
「もう片方はどこにあるの?」
「あたしの旦那様。師匠の片目よ。それを分捕って、嵌めれば完成」
「……完成したら、どうなるの?」
その問いには。
響名はまた、答えを躊躇したようだった。一口、ジンジャーティを呑んで唇を湿らせ、
「過去を、変えられる。あたしは願いを叶えて――代わりに、『今』は失われるわ」
アリアちゃんみたいな存在にどんな影響があるかは分からないけどね、と、彼女は小さく補足をして、カップをテーブルへ戻した。ジンジャーティはすっかり冷めていたようだった。
「それでも、あたしを手伝ってくれる?」
うーん、とアリアは思案する。今が失われる――それがどんな影響をもたらすものか、想像はなかなかに難しい。だが、アリアはシンプルに、こう考えることにした。
響名ちゃんにはお世話になったのだから。
恩返しに彼女の願いを叶えるのは、当然の道理である、と。
「いいよ」
さらりと軽く応じれば、また、響名は驚いたように目を瞬かせ、それから少しだけ泣きそうに目元を歪めた。
「アリアちゃんも、変えたい過去がある?」
「ううん」
「無いのに、手伝ってくれるの?」
アリアは肩を竦めるだけで、その言葉に応じた。恩義について言葉にして触れるのはいかにも無粋だし、言わずとも分かるだろうとも思ったからだった。



****


アリアという強力な存在の後ろ盾を得た響名の行動は、素早かった。彼女の師匠にして現在は旦那様であるところの藤代鈴生は、襲撃を予想しているだろうに住居を移動するでもなく、逃げるでもなく、常の住所に当たり前のように暮らしているからだ。
「って言っても、一応魔術師のアトリエだからね。魔術的にも、物理的にも、相当なセキュリティが敷いてあるけど」
「…どうやって、その人の所に行くの?」
時刻は深夜。まだ冬と呼ぶには少し浅い時期だが、アリアが居る為なのだろうか、真冬並の寒さが街を覆い尽くしていた。寂れた商店街に位置する鈴生の住居――雑居ビルだ――の周りも、常ならぬ寒さ故にか、通行人さえ姿を見せない。
真冬用のダッフルコートを着込んだ響名が、腰に手を当てて、ビルを見上げた。
「突破するわ」
コートの下から、響名が取り出したのは一冊の、ぼろぼろのノートのようなものだ。アリアはそれを見て、少しだけ首を傾げる。響名の後ろに静かに控えている「ルンペルシュテルツキン」からは欠片も意思を感じないが、このぼろぼろの紙片からは意思のようなものを感じたのだ。これが、彼女の「魔導書」とやらであろうか。
ひとつのページで彼女は指を止める。紙の上をなぞったようにしか見えなかったが、次の瞬間には彼女の手の中に、小さな緑色の豆粒が出現していた。地面に投げれば、途端に、巨大な蔓がビルの壁面を這う。
存外に、響名は身が軽いらしい。その蔓を掴むと、彼女はひょいひょいと壁を登り始めた。
アリアは少し後ろを追いかけることにする。こちらは空中に、氷の階段を生み出しての登攀だ。
「……。アリアちゃん」
「なぁに、響名ちゃん」
「そういうこと出来るんなら先に教えてくれると有難いわ」
そんな会話の合間に、恐らくこのビルそのものに仕掛けられている罠なのだろう。壁を這う蔦が途中で燃え落ち、響名がバランスを崩す。が、彼女は即座に、またノートを繰った。ページから現れたのは皮の袋、そこから水が溢れて炎を鎮火していく。次いで彼女が取り出したのは、金色の縄のようなもの、だった。それを振り回してビルのテラス目がけて投げると、縄が手すりに絡みつく。一度強く引いて強度を確認すると、彼女は一息に縄を伝ってテラスへと飛び上がった。
「せーんせ! 嫁が帰ったわよ!」
「帰るなら玄関から帰れよ馬鹿弟子。鍵は空いてるぞ」
室内からそんな声がする。はぁい、と応じて響名が引き戸に手を掛けた。


開いた室内は、薄暗く静まり返っていた。声の主の姿すら見えない。響名が一歩を踏み出そうとするのを、アリアは手で留め、自らが先に立った。踏み出す。途端。
天井から壁に至るまでびっしりと、張り巡らされた鎖のようなものが浮かび上がり、歩く物を捕縛せんと襲い掛かってくる。
「アリアちゃ――」
焦燥を感じさせる響名の叫びを余所に、アリアはひとつターンをした。見目に重たげな毛皮の外套は、しかし風もなくふわりと浮かび、アリアの動作に合わせて踊る。それだけの所作で、キン、と硬く高い音を立てて、次々に鎖は砕けて落ちた。それを確認してから、アリアは背後で呆然と見守る響名を手招く。おっかなびっくり響名が後に続いた。
その後もトラップが続いたが、およそ全て、部屋を丸ごと凍らせるような冷気を従えているアリアの敵ではなかった。この建物は確かに、この場をアトリエとする「彼」の支配下なのであろうが、氷と冬と雪と、おおよそ冷たく凍てつく全てが、アリアの縄張りであり支配下なのだから。
廊下を抜け、階段を上る。
やがて、二人が到着したのは屋上だった。小さな雑居ビルの屋上、空の上には月がある。そこで眼帯姿の男が独り、煙草を咥えて空を見上げていた。二人の到着を見遣って、肩を落とす。
「…援軍かよ、ずるいぞ愛弟子」
「手段を選んでられなかったのよ。ごめんなさいね、せんせー」
口だけの謝罪の間、二人の視線は絡んでいた。彼を見据える響名の眼の中にはある種の決意と覚悟がある。相手の眼球を奪おうと言うのだ、相応の覚悟は決めているのに違いなかったが、果たして理解に苦しむのは、それを受け止める眼帯の男――鈴生の側も、ひどく静かな態度を崩していない事であった。
「…俺の眼、奪う腹が決まったか」
挙句彼は淡々とそんな風に問う。
響名は少しだけ俯いて。唇を噛んでから、顔を上げた。
「アリアちゃん」
「…うん。いいのね、響名ちゃん」
「いいのよ――決めた事だから」
じゃあ、とアリアも視線を上げて、男を見遣った。その視線に気づいたか、彼の方もアリアを見遣る。ひゅう、と口笛を吹いた。
「イイ女捕まえて来たなぁ、愛弟子」
褒められれば悪い気がするものではない。
「ありがとう。でも、あなたの眼、貰うね」
アリアが告げると、彼は面白そうに笑った。それから、両手を広げる。まるでそれは、久方ぶりに逢うと言う自身の妻を抱擁するかのような所作で、しかし告げる言葉は、
「遠慮なく来いよ。…俺も遠慮なく抵抗するからよ」
戦いの、合図であった。

アリアが辺りを凍てつかせていく。青年――藤代鈴生は舌打ちをひとつしてから、纏う白衣のポケットを漁った。そこから放り投げられた幾つかの小さなガラス瓶が空中で砕け、中身を飛び散らせる。すると、彼の周りに結界でも張られたか、氷結の蔦は彼の周りで停止し、動きを止めた。それを横目に、響名が自身の背後、ひそりと佇む人影に命ずる。
「ルンペルシュテルツキン、時間を止めて!」
時間干渉。未完成の魔道具なので完全なものではないが、「数秒程度なら時間を止められる」と響名が豪語していたことを、アリアは思い出していた。と同時、辺りの空気までもが停止し、音も消え去る。響名はその、全てが凍てついた空間を駆け、鈴生へと手を伸ばし――
その手を、払われた。
ぎょっとした様子で彼女が一歩を飛びずさるのと、時間停止が解除されるのが同時だ。一息に周辺の「音」が戻ってくるのを目の当たりにしながら、アリアは停止した時間の中で起きていたことを冷静に反芻していた。
「なんっ…なんで動けるのよ、せんせー…」
震える響名の声に、彼がいびつな笑みを浮かべる。その足元、半ば氷で埋もれたコンクリートの上に、月の光を弾いて何かが埋もれている。円形に、彼の周りを覆うように、一定の距離を置いておかれているのは金色の針のようなものだった。そのうちの3つが、砕けている事に冷静なアリアは気付いていた。
時計の針だ。
「時間干渉を一定レベルで防ぐ代物だ。対お前用に作ってたんだが生憎と、そっちの『ルンペルシュテルツキン』と同じで未完成でな。時間停止に対して一定の時間だけ干渉が出来る――ってレベルなんだが。どうやらこれでも十分みたいだな?」
「代償は!? せんせーの作ったモノは、代償があるでしょ!」
「俺の事を、気にしてる場合か?」
だって、と響名が悲鳴のような、嗚咽のような声をあげたのを、アリアは見ていた。視線が合う。
どうする、と目線で問えば、彼女は目元を一度拭って顔を上げ、頷いた。続ける、と。その意思を確認して、アリアは手を動かす。氷の蔦は彼女の意思を得て、鎌首をもたげ、鈴生の周りの金の針を砕こうと襲い掛かった。うち2つを破損させるが、またしても、彼が空中に投げて砕いたガラス瓶にその動作は妨害されることになる。金の時計の針は残り7、響名の方を見れば険しい表情だ。時間を止めても、彼の方でも妨害をしている。そして、恐らく。響名は。
(…このひとに、代償を支払わせたくないんだ)
アリアはそれに気付いていた。元より響名の願いを、彼女は既に聞いている。
――響名は、この人のために、過去を変えようとしているのだ。
アリアは一度、息を吸う。告げた。
「響名ちゃん、時間を止めて」
「でもっ…」
「…大丈夫。届くから」
アリアの言葉に、響名は迷ったようだったが――ただ佇み、抵抗の意思は見せている癖に、逃げもせず、攻撃もしてこない鈴生を改めて見遣り、頷く。
「――ありがとう」
そう告げて、彼女は再度、己の作った悪魔の名を高らかに呼んだ。時間が止まり、耳を覆いたくなるほどの無音の静寂が辺りを覆い尽くす。そして、鈴生の周りにあった金の針が1本、また1本と砕け散る。あれが全て砕けるまでは、恐らく鈴生は自由に動けるのだろう。それが分かったから、アリアはそっと、響名の背を押すことにする。停止した時の中、こちらも停止したかのように佇むルンペルシュテルツキンの背後に周り、それから。
そっと、冷たい息を吹きかける。
屋上を、鈴生の周りを除いて覆っていた氷が収斂し、辺りの冷気さえもが停止した。アリアの纏う外套だけが、時間の流れを主張するように靡いている。冷たい風は、アリアの周りを一度ぐるりと巡ると、女王の意を得たように一点へと昇華していく。
時間。
――人間の認識の及ばぬその領域にまで、アリアの、女王の力は届くのだ。凍る。凍てつく。止まる。
何もかもが、凍りついた。
響名はその違和感に気が付いただろうか。人間には、時間を知覚することは決してできないから、アリアの手助けには気付かなかっただろう。ただ、時を止めた鈴生に今度こそ手を伸ばし、右手で頬に触れる。左の手にはナイフ。だが最後の力を振り絞ったか、動きの鈍った状態から鈴生が腕を振るい、ナイフを叩き落とした。愕然とする響名の背後から――アリアが飛び出す。
彼女はただ、優しくさえ見えるような所作で鈴生に触れた。それだけだった。
――それだけで、彼は凍りついた。
「これでいい、響名ちゃん」
アリアは常と変らない。表情を大きく変えることも無い。それ故に、その言葉は酷く冷淡にも見える。響名が生唾を呑み込み頷くと、辺りの音が、一息に戻ってくる。時の停止が解除されたのだ。
だが鈴生が動くことは、無かった。
「これ、凍らせたの…?」
近付いてくる響名に、アリアが頷く。彼女は少し首を傾げる所作を見せて、それから真っ直ぐに、響名を見た。
「どうする?」
眼球を奪うのだと、響名はそう願っていた。だが、今眼前にしてその決意が鈍るだろうか。再度の問いに、響名はもう一度、唾を呑みこんだ。その声は、震えてはいたが、しかし迷ってはいなかった。
「このまま、眼球を抉れる?」
アリアはその言葉に、動じた風も無く頷いて見せる。響名は唇を軽く噛んだ後、頷いた。
「なら――」





雑居ビルの屋上からは、眼下の、寂れた商店街がよく見える。
寂れたとは言えど、駅からそう離れていないから人通りもそこそこにあった。それを手すりに身を預けて見下ろしながら、「東雲」という旧姓に戻る恰好になった響名が一人の人物を指差す。
「あ、ほら。居た。せんせーだ。…って言っても、この時間軸じゃ、あたしのことなんて知らないか」
苦笑する彼女を、アリアは横目に見遣る。こちらは手すりに腰をおろして足を揺らしている。建物の高さなど気に掛けた風もなく、纏った外套はビル風に揺れている。
彼女の指示した先では、確かに、藤代鈴生が慌ただしく駆けていくところだ。その顔に眼帯は無く、奪ったはずの眼はしっかりと納まっている。恐らく何処かの会社でごく普通に働いているのだろうか、スーツを着て、真っ直ぐに商店街を抜けて行った。その姿を、雑居ビルの所有者となった響名が見送っている。
彼女が改変した過去は――。
鈴生が過去において奪われた、眼帯の下の片目を、元に戻すこと。それはひいては、「現在」の彼を根こそぎ奪う行為でもある。すなわち、響名と出会うこともなく、それどころか錬金術と出会ってさえいない。ごく普通の、当たり前の人生を送った「藤代鈴生」が、そこに居る。
絶大な効果の代わりに、悲劇を強いる魔道具の作成者、錬金術師の「藤代鈴生」は、消えてしまった。
「これで良かったの?」
「分からないわ」
アリアの問いに、響名は苦い笑みと共に、そう応じる。視線はまだ、眼下に置いたまま、去って行った鈴生を追うまま。
そう、とアリアは呟いて、アイスキャンディを取り出した。
隣の響名はまだ視線を下へ向けたままだったが、無言で懐から小銭を取り出し、アリアに向ける。応じてアリアは、アイスをひとつ、彼女に手渡した。
「でも、きっと良かったんだと思う――せんせーにとっては、これで」
そう、ともう一度、アリアは頷いた。響名がそう信じるのならば、きっとそれでいい。アリアにとっては、鈴生自身がどう思うかなんてことは、二の次だ。
二人並んで、ビル風に吹かれる。
アリアの力のせいではなく、風は真実、冬の気配を深めていた。いずれ雪が降るのだろう。




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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【8537 / アリア・ジェラーティ】