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<東京怪談ノベル(シングル)>


奏でられる戦慄のプレリュード 前編

パソコンのキーを叩く音がオフィス中に高く響き渡る。
ずり落ちたPC用の眼鏡を直すと、瑞科は再びディスプレイに意識を集中し、手を動かす。
月末の決算期も相まって、周囲の忙しさは半端ではない。

「この報告書の添付資料は?!」
「これ、データ処理して送ってくれ」
「決算書、あがってるか?融資の」
「だぁぁぁぁぁぁ、予算どうなってんだ!!」
「例の報告書、上がったか??」

怒号にも似たやり取りが飛び交う中、ひっきりなしに鳴り響く携帯やスマホを誰もが素早く手にし、メールチェックや電話でのやり取りに専念する。
まるで平和な戦場、と胸の内で評価しながら、瑞科は最後のデータの入力に取り掛かった。
と、申し合わせたように、パソコンの横に置いてあったスマホが振動し、ディスプレイが明滅する。
キーを打つ手を一旦止め、スマホを手に取った瞬間、瑞科の目が一瞬鋭い光が走った。
―emergency(緊急事態)
明滅するディスプレイに表示された英単語で、瑞科は事態を悟ると、最後の入力を一気に仕上げかかった。

地下数千メートルに作り上げられた礼拝堂。
歴史の裏側から人々を守り続けてきた『教会』の象徴とも言うべき場所。
待ち人である司令はそこにたたずんでいた。

「遅かったな、白鳥審問官」
「表の決算期でしたので……ですが、こちらも緊急事態……ですね」

柔らかく微笑んでみせる瑞科の目が鋭いのはかわりない。
相変わらずの回転の速さに舌を巻きつつ、司令は手早く状況を説明する。

本部から南東30キロにある都市の一角。
いつもと変わらない平穏な日常が続いていくと思っていた日は1秒で変わった。
楽しげに買い物を楽しむ人々や帰り道のひと時を笑いながら歩く子どもや学生で賑わう大通りの路面に突如として描かれたのは、不気味な―召喚を司る魔法陣。
怪しげな光を発するそれを目撃した人々は当初、撮影か何かと思い、ある者は不思議そうに、ある者は面白がって携帯のカメラで撮影を始めるなど、危機感もなく騒ぎ立てるだけで、危険を感じとり、本能的に逃げ出す人々はほんの一握り。
その判断の差が永遠ともいうべき差を生み出すなど、誰一人として考えなかった。
光が消え、不気味な色を放って、口を開けた魔法陣から伸びたのは、硬質な漆黒に染め上った獣の腕。
がしりと音を立てて、這い上がってきたのは鋭い牙を持った異形の化け物―いわゆる悪魔と呼ばれる存在。
その一体だけでも恐怖だというのに、それを呼び水にして、数十体以上の化け物が一気に湧き出した。
悲鳴と怒号が辺りを包み、我先にと逃げ出す人々を悪魔たちは愉悦の光を孕んだ目を輝かせて追いかけだした。
わずか2時間後。悪魔たちはその一帯を支配し、暴れ狂っているという。
知らせを受け、急行した『教会』の部隊は逃げ遅れた人々の救出と悪魔の排除を試みた。
だが、悪魔たちの中に上級クラスの悪魔が紛れていたらしく、展開している部隊では排除するどころか抵抗することも難しく、これ以上の侵攻を防ぐので精一杯な状況だ。
一進一退の攻防を繰り返す状況を重く見た上層部は事態を収拾するため、白鳥瑞科異端審問官を全会一致で決定した。

「状況は相当深刻だ。逃げ遅れた一般市民が数十名、しかも上級の悪魔が何体かいるようだ。お前の最優先任務は悪魔排除。一般市民の保護は展開している部隊に任せろ。規模が規模だ。十分に気を付けてくれ」
「了解しました。あとは現場で判断させて頂きます」
「……そうだな。お前の判断に任せる。それが正しいからな」

しれっと言い放つ司令に瑞科は肩を小さく竦めると、一礼して礼拝堂を辞した。

異様な空気に支配された街角。
無造作に放り出されたバックに路上に転がったパンプスやスポーツシューズ。
潰されたパック詰めの肉や果物。
切り裂かれ、真紅に染まったジャケットやショール。
すでに人の気配はなく、代わりに跋扈するのは異形の魔物―レッサーデーモンの群れ。
我が物顔で歩き回る姿に壊れかけたスーパーの倉庫に隠れ潜んでいた人々は息を殺し、姿が見えなくなるのをじっと待つ。
隣にある店舗はレッサーデーモンたちが暴れ回り、見るも無残な様相を呈している。
奴らが乱入してきた時、平穏な店内は恐怖で大混乱に陥り、多くの人々は非常口から外へと脱出したが、幼い子どもを抱えた親子連れや身体に障害を負ったものや老人たちは逃げ切れず、わずかに残った店員たちの手によって救い出され、頑丈なシャッターとコンクリートで覆われた倉庫へと逃げ込んだのである。
手にした携帯で思いつく限りの場所へ救助を要請したが、この辺り一帯が同様の状況で、助けは絶望的だった。

「チクショウ……警察も消防も皆逃げちまったってさ」
「ここだっていつ破られるか……」
「その前にどうやって逃げるか、考えないと」

被っていた帽子を脱ぎ捨て、頭を掻きむしり、へたり込む店長。
不安げに、ひしゃげたシャッターを見つめながら、つながらない携帯やスマホを握りしめる店員。
奥で身を寄せ合っている逃げ遅れた客たちはこの悪夢が早く終わり、助けが来ることを祈ることで必死に恐怖と戦っていた。

「ねっ……今、ネットで見たんだけど、この街のあちこちで同じように、あの化け物たちが暴れてるんだって。けど、そいつらを追い払って救出活動している人たちがいるって!!」
「ホントか?!どうやったら連絡が……!!」
「そんなの、ただの噂だろ!?」
「いや、本当みたいだ。助けてもらったって、友達がっ!!」

まだ若い―学生バイトらしい女性の一言に、人々は色めき立ち、絶望的な空気にわずかな希望が灯る。
その瞬間、耳をつんざくような音が響いたと同時にシャッターが大きくへこむ。
悲鳴を上げ、さらに奥へと逃げ込む人々に追い打ちをかけるように、シャッターに大きく穴が開き、そこから得物を見つけ、ニタリと口の端を持ち上げた―鋭い牙をちらつかせたレッサーデーモン数体が顔を覗かせた。

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
「いやぁぁぁぁぁっ、誰かぁぁぁぁぁぁ!!」
「地下倉庫へ急げっ!」
「助けてぇぇっぇぇぇっぇ」
「急げ、地下倉庫だっ」

恐慌状態に陥る人たちを励まし、地下へと逃げ込むように叫ぶ店員たち。
耐え切れず、泣き叫ぶ子どもを抱きかかえ、必死で駆けだす母親。転がるようにして奥へと走る客たち。
店長と数人の客たちは手近にあったモップやパイプ椅子を振り回して、少しでもレッサーデーモンの接近を阻む。
だが、そんな彼らにレッサーデーモンたちは容赦のない―残忍な腕を伸ばした瞬間、銀の閃光が胸を貫いた。
一瞬、何が起こったのか分からず、困惑したように貫かれた胸を見るレッサーデーモン。
大きく穿たれた穴。そこを中心にまるで砂礫のように崩れ落ちていく。
さらに崩れた砂礫は地に落ちるよりも早く、空気に溶けて消えた。
仲間の末路に目を見開き、凝視していたレッサーデーモンたちは凍り付き―手当たり次第に暴れ出そうとするも、無駄だった。
数度、響き渡る破裂音。それとともに銀の閃光がレッサーデーモンの胸を次々と貫き、打ち倒していく。

「要救助者たちを発見しましたわ。至急、保護を」

周囲にいた悪魔、魔物は排除しましたから、と柔らかい声。
逆光を背に、踵を鳴らして、破られたシャッターから優雅な足取りで歩いてくる人影に目を細める人々。
軍服を思わせる―身体にぴったりとフィットした精緻な装飾が施された長袖の上着。
装飾の刻まれた特殊な鉄の小型の肩当て。風に翻る背中までの丈しかない短いマント。
しなやかな脚を包む黒のミニプリーツスカートも上着などと同じく装飾が施されていた。
そこから覗く太ももは白いニーソックスをガーターベルトで止め、さらに編上げた白い革製のロングブーツで固めている。
豊満なボディラインを際立たせてつつも、隙のない姿に、その場にいた人々は聖女か天使を見たような気持ちに陥った。
だが、レッサーデーモンの強襲に身体が強張り、だれも動けず、奥へ奥へと逃げ込もうする人々に、瑞科は息を飲んだ。
司令の話を聞いていたが、ここまでの恐怖を刷り込まれた人々の姿を目の当たりにし、悪魔たちに対し、怒りを覚える。
その感情を押し殺し、瑞科はにこやかにほほ笑んだ。

「まもなく救援隊が参ります。それまで、私が警護しますので、どうかご安心ください」

安心させ、信頼を得ようと微笑んでみせたが、人々の気持ちは簡単には動かない。
特に生死に関わる状況に直面したとあれば、なおさらだ。
耳に着けた通信機からは、あと数分で救助部隊が到着する、という連絡があり、このままでは救助に支障が出る。
どうすべきか、と思案を巡らせる瑞科に幼い―3、4歳ぐらいだろうか―少女が守るように抱きかかえていた母親の手から抜け出し、恐れることなく近づいた。
戻ってきなさい、と叫ぶ母に振り返ると、少女は無垢な―邪気のない笑顔を瑞科に向けた。

「ありがと、お姉ちゃん」
「怪我がなくて良かったですわ。助けが来ますから、安心してください」

うん、と大きくうなずく少女の笑顔に、人々の恐怖が解けていくのを見て、瑞科は安堵の息を零すと、そのまま隠れているように告げ、シャッターの外へ出る。
唸りを上げる風音。吹き抜ける突風に瑞科は目を細めた。
その視線の先に、赤黒く渦巻く雲と雷光が荒れ狂っていた。