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パーピュアの色
実に一年ぶりに元の姿に戻れたイアルは、久しぶりの生身の感触を己の手で確かめた後、未だに残る様々な汚れや悪臭に気がついて風呂を所望した。
それはすんなりと受け入れられ、広いシャワールームへと移動する。
そんな彼女には萌とその場に居合わせた令嬢が付き添ってきた。
「……あなたは、あの時の……お嬢様、ね?」
「私を……憶えているの?」
「朧げにしか記憶にはないの。だけど、気配とでも言うのかしら……あなたも、無事でよかったわね」
イアルは令嬢に向き直りながら笑顔でそう告げた。
彼女の優しさに触れた令嬢は、益々己の心が苦しくなっていくような気がして、顔を背ける。
自分のほうがよっぽど酷い扱いを受けてきたのに、それでもイアルという女性は慈愛の情をこちらに向けてくれている。どうしてあっさりと出来てしまうのか、そしてそれが何より嬉しいと思ってしまい、頬が熱くなる。
「イアルらしいね」
そう言うのは萌だ。
彼女はシャワーの調整をしてから、イアルの長い髪を綺麗に流し始めている。
立ちどころに湯気が広がり始めた。
「萌に助けを求めたことも、ぼんやり憶えているのよ」
「……無理に思い出そうとしなくていいんだよ」
バニーガールにされて、その後に氷漬け。一度は救ったものの再び攫われ、人魚の姿に変えられ挙句の果てに石化。そしてガーゴイルとなり、魔物化してしまったイアルの経緯は、あまりにも過酷だ。
一年の間にこれだけの事が彼女の身に起こり、その度に意識や偽りの記憶を上書きされていた為に、彼女自身が思い出せるものは僅かなものだった。
だがそれは、多くは憶えていないほうが幸せだと思える内容ばかりだ。
だから萌は、そう伝えた。
イアルは湯気の中で当たり前のように自分の体を洗ってくれている萌へと手を伸ばし、彼女を抱きしめてきた。
「イ、イアル?」
萌は動揺を見せて、手にしていたシャワーヘッドを床に落とした。
水の跳ね返る音が響き渡る。
「萌……いつも本当に、ありがとう……」
イアルはそう言いながら彼女に口付ける。
萌は更に驚いて、瞳を見開いた。
傍にいた令嬢も目を丸くして、固まっている。
これまでも、何度かキスをしたことはある。だがそれは、イアルの石化を解く為の行為であったはずだ。
だから、冷たい感触しか記憶にはない。
それが今、柔らかなものになっている。そう意識すると、途端に別の感情が湧き上がってくるのを萌は全身で感じた。
(……私、もしかして……)
イアルと知り合ってから、幾度の死地を乗り越えてきた。
ただ、彼女を助けたい。自分の手で守りたい。そんな気持ちが強くあり、今までを過ごしてきた。
数少ない友人であったはずの存在が、いつの間にかそれ以上になっていた事に今更ながらに気づいて、頬が染まる。
「ね、ねぇ、ちょっと……、それってまだ続けるの? ここから出た後でも良いんじゃない……?」
令嬢がたまらず声を掛ける。
彼女もどうしてだか、顔が真っ赤になっていた。
「……あら、そうだわ。ご、ごめんなさい。わたしったらなんて事を……今までの気持ちの全てを伝えたいって思ったら、体が先に反応してしまったのね……」
令嬢の指摘に、イアルは素直に反応した。
そして抱きしめたままであった萌を開放して、床に落ちたままのシャワーヘッドを拾い上げる。
萌は完全に照れてしまい、そのまま先にシャワールームを出て行ってしまった。
残されたイアルと令嬢は、改めて互いを見合って、苦笑交じりの表情を作った。
「しょ、しょうがないわね。萌の代わりに私がイアルを綺麗にしてあげるわ」
令嬢はそう言いながら、泡の付いたままのスポンジを手に取った。
するとイアルは「じゃああなたは私が洗ってあげるわね」と言って、もう一つのスポンジを手にする。
そして二人はその場で暫くの間、泡と戯れるのであった。
「イアルが彼女を?」
長いシャワーの後、萌の部屋を訪れていたイアルと令嬢は、今後のことを話しあった。
令嬢には監視がつくというのを知ったイアルは、少しでも彼女の負担を減らそうとその監視役を萌にしたらどうかと提案した。身柄に関しては、この場に置くよりは普通の生活を送らせてあげたほうが良いという事になり、イアルの親友が部屋を借りているマンションで同居させてもらうのはどうかという話になる。
「『彼女』だったら、受け入れてくれると思うのよ。……どうかしら」
「わ、私は別に……快適に過ごせるんだったら、どこでも構わないわよ」
クールダウンの為の缶ジュースを片手に、令嬢はそう言った。ソーダ水などまともに飲んだことなど無かったが、これはこれで美味しいものだと感じつつ、内心を踊らせていた。
「確かに、この広いだけで無機質な空間よりも、マンションとかのほうがあなたの為にはなると思う。監視の件も、私でいいなら引き受けるよ。護衛も兼ねてね」
萌にそう言われた令嬢は、素直に頷くことが出来ずにそっぽを向いた。
知らない誰かに見られているよりかは、萌であれば警戒する必要もなく逆に安心だと解っているのだが、少々個人的な感情が混じっているようだ。
萌は何となくそれを察知したのか、それ以上の確認をしてこなかった。
当のイアルは、そんな二人の関係性に僅かに首をかしげる程度であった。彼女たちが仲良くしてくれればいい。そんな風に思っているらしい。
「そう言えば、イアルの親友って……神聖都学園の教師だっけ?」
「ええ、そうよ。彼女とも本当に暫く会えてなくて……心配掛けてしまってるわ、きっと」
萌の言葉に、イアルはそっと瞳を伏せながら答える。
イアルには萌の他にもう一人、大切な人が居る。安らかな居場所を与えてくれた、大人の女性であった。
思えば彼女との出会いの頃から、『魔女』という存在……影があった。
郊外の洋館に囚われていた少女たち。それを助けに行ったのはその女性であったが、彼女も魔の手に落ちて地下水路を守る番犬と化した。
イアルはその場に潜り込み戦って、少女たちと女性を救い出した。
あの時の『魔女』は滅したが、それだけでは終わらなかった。
――我ら同胞を殺した罪は重いぞ。
そんな言葉を掛けられたのは、いつだったか。
イアルは瞳を閉じたままで、うっすらと感じた目眩に眉根を寄せた。
「ちょっと、あなた大丈夫?」
変化に気づいた令嬢が、声を掛ける。
するとイアルはようやく瞼を開いて、「大丈夫よ」と微笑み返した。
その笑みには翳りがあり、萌も令嬢も表情を歪ませる。
「マンションに帰る前に、連絡してみたらどう?」
「……そうね、突然この子を連れ帰るのも、驚かせてしまうし。電話を借りてもいいかしら」
「支給品だけど、好きに使っていいよ」
萌が差し出してくれたものは、一つのスマートフォンであった。IO2の支給品らしいが、可愛らしいケースとイヤホンジャックが取り付けられている。割と自由に使用できるらしい。
それを手にしたイアルは、件の女性の番号を呼び出した。
「………………」
数秒待った後、耳に届いたものはガイダンスの声であった。
『おかけになった電話番号は……』
「え……?」
イアルの表情が歪む。
番号を確かめつつ、かけ直してみるが同じガイダンスが流れるのみだ。
「どうしたのかしら……」
急に不安がこみ上げてくる。
萌も令嬢もそれを感じ取って、言葉なく視線を交わした後、小さく頷いた。
「ねぇ、やっぱりマンションに行ってみましょ。一応連絡の痕跡は残るんだから、移動中に反応あるかもしれないし」
「私も一緒にいくよ」
「……ええ、そうね。じゃあお願いするわ」
令嬢の提案に、イアルも萌も頷く。
そして彼女たちは同時に立ち上がり、マンションに向かうための行動に移った。
マンションのその部屋は、静まり返っていた。
郵便受けには郵便物が溜まりこみ溢れかえり、冷たい床に落ちたままになっている。
「ど、どういうこと……? 何が起こったの?」
久しぶりの部屋に辿り着いたイアルは、愕然と膝を折りながらそう言った。
部屋の主である親友の姿はどこにも感じられず、状況から見ても放置されて暫く経っている事が解る。
連れ添った令嬢もその室内の部屋の冷たさに体を震わせ、その場で己を抱きしめる仕草をしていた。
「…………」
萌は黙ったままで音もなく室内を探り、女性の部屋のテーブルの上に視線をやる。
生活感の失われた空間で、不自然に淡く光るカード。トランプほどのサイズのものが一枚、そこには置かれていた。
「……これは」
萌はそれに躊躇いなく手を伸ばして、カードを持ち上げた。
するとそれは形を崩して、紫のオーラを放った後に空気に溶けて消えた。
覚えのある感覚に、眉根が寄る。
そしてそこから繋がる思考は、決していいものとは言えないものであった。
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