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<東京怪談ノベル(シングル)>


姫騎士の聖水


「まったく、失礼しちゃうわ」
 響カスミが、珍しく怒っている。
 彼女が淹れてくれた紅茶を啜りながら、イアル・ミラールは会話に応じた。
「一体どうしたの。男に年齢でも訊かれた? 別にいいじゃない27歳だって。私なんて自分が何百年生きてるのか、もう覚えてないわ」
「古本屋さんにね、頭のおかしい客扱いされたの。魔本ありませんかって訊いただけなのに」
 イアルは思いきりむせた。熱い紅茶が、気管に流れ込んだ。
「魔本って何だか知らない様子だったから、説明してあげたの。中に入って、綺麗なお姫様にも格好いいヒロインにもなれる夢の書物だって。そしたら何か、すごくかわいそうな女みたいな扱い方されて……ちょっとイアル、大丈夫?」
「だ、大丈夫じゃないわよ! まったくもう、27歳の大人の女に一体何を、どう言い聞かせたらいいものやら」
 のたうち回り、咳き込みながら、イアルは言った。
「私が昔いた王国でねえ、どうして魔本が禁止になったのかって言うと。今この時代で言うところの、ネトゲ廃人みたいになっちゃった人が続出したからなの! カスミがそんなふうになっちゃったら、貴女の生徒たちはどうなるの」
「大丈夫よぉ。お仕事に支障が出るほどハマってるわけじゃなし」
「……ハマってる人はね、大抵そう言うのよ」
 イアルは、溜め息をついた。
 魔本は危険だ、などと口で説明したところで、カスミがわかってくれるはずはない。
 あの魔本で彼女は、囚われのイアル姫を魔女王から救い出すという大活躍をしてのけたのだから。
 よほど忘れられないのだろう。ここ最近カスミは何度も、あの魔本の中に入り込んでいる。魔本遊びに、取り憑かれている。
 実際、カスミによって魔女王の手から救い出してもらったのは、イアル・ミラール自身である。禁止する資格など自分にはない、とイアルは思う。
 だからと言って、放っておくわけにもいかない。
(少し……恐い目に遭ってもらうしか、ないみたいね)
 心の中で呟きながらイアルは、口では別の事を言った。
「行きつけのアンティーク・ショップから預かってきた魔本があるんだけど……カスミ、やってみる?」


 自分が今、魔本の中にいる。
 それが冷静に理解出来てしまうようでは、魔本としては二流以下である。
 自分の作り出した物語を、時には苦痛をも伴う現実として、読み手に認識させる。
 かつて魔本の作り手たちは、そのために己の命をも削って魔力を生み出し、その魔力を注ぎ込んで、様々な作品を完成させた。完成と同時に、命を落としてしまった者もいる。
 魔本の中には、そうして死んだ著者の魂が、魔女や魔王の役で登場するものもあるという。
 この魔本が、それに該当する品であるのかどうかはわからない。
 とにかくイアルは今、ここが魔本の中の仮想現実であるなどと認識する事もなく、ひたすら森の中を走っていた。
「はあ、はぁ……どこ、なの? ここは……」
 樹木か、それとも巨大に育った草なのか、判然としない植物が濃密に生い茂っている。
 その禍々しい暗緑色が、うねり蠢き、イアルに向かって蛇の如く伸びて来る。
 先端が蕾のように膨らんだ、奇怪な蔓植物の群れであった。
 イアルは思い出した。自分は確か、魔女に拉致されたはずだった。
 拉致され、しかし解き放たれた。放逐された。この、おぞましい森の中へと。
「何故……どうして、こんな事を……」
「お前が美しいからさ、イアル姫」
 魔女の、声が聞こえる。姿は見えない。
「その美しさで、さぞ良い思いをしてきたのだろう? 今更、遠慮する事はない……永遠の美しさを、くれてやるよ」
 無数の蔓植物が、先端の蕾を少しだけ開いた。イアルに向かってだ。
 凄まじい悪臭が、猛烈な勢いで噴出した。
 無数の蕾が、蜜のような樹液のようなものを一斉に噴射したのだ。
 蜜と呼ぶにはあまりにも生臭いものを全身に浴びながら、イアルは悲鳴を上げようとした。が、声が出ない。
 身体も、動かない。
 イアルは、石像と化していた。
「お前が生身に戻る手段は、ただ1つ……」
 魔女が何か言っているようだが、それもイアルには、もはや聞こえない。
「石化の魔毒液と正反対の成分を持つもの……すなわち聖水を浴びるしかない。それもね、ある種の乙女の体内で作られる、特殊な聖水でなければ駄目なのさ。そんなもの、この世には存在しない……つまり、お前は永遠にそのまま。愛でてくれる者のいない暗黒の森の中で、その美しさを晒し続けるがいいさ」


 光の聖剣が、折れて砕けた。
「そ、そんな……」
 呆然とする姫騎士カスミに、魔女が婉然と微笑みかける。
「イアル姫の、聖なる愛の力が無ければね……お前の力なんて、そんなものさ。調子に乗るのも、ここまでだよ」
 魔女の両眼が、淡く輝いた。
 激しく目を刺激するような光ではない。執拗に、心にまとわりついてくるような眼光である。まるで蛇のように。
 カスミの心は、目に見えぬ毒蛇に絡み付かれ、そして噛み付かれていた。
 猛毒に心を冒されるのを感じながら、カスミは叫んだ。吠えた。悲鳴、あるいは咆哮。
 毒に蝕まれ弱まってゆく人間の心を、押しのけて現れようとするものがある。
 おぞましく、禍々しく、凶暴なるもの。
「うっ……ぐ……うぅッ……イ……アル……ぅ……」
 呻く口の中で、犬歯が鋭く尖ってゆく。
(イアル……助けて……)
 その言葉を、しかしカスミはもはや発する事が出来なかった。
 可憐な唇が、凶暴にめくれ上がって牙を剥きながら、咆哮を迸らせる。
「うっぐぅ、がふッ! ぐぁああああああああああああっ!」
 水着のような鎧に身を包んだ、凛々しい姫騎士の姿のまま、カスミは獣と化していた。


 ここが魔本の中であるなどと気付く事もなく、カスミは半年間、獣として彷徨った。魔女の番犬として、放し飼いの扱いを受けた。
 魔女の館を取り囲んで生い茂る、暗黒の森。その中をカスミは四足獣の如く徘徊し、狼やゴブリンを食い殺した。
 この森は、カスミの縄張りとなったのだ。
 それを証明するためにカスミは、獣として、森のあちこちに己の臭いを振りまいた。
 森の片隅に佇む、苔むした女人像にも、縄張りの証明をぶちまけた。
 結果、このような奇跡が起こったのだ。
「思い出した! ええ、何もかも思い出したわよ。まったくもう!」
 イアルは、魔女の館の扉を蹴破った。左手で、カスミの首根っこを掴んだままだ。
「きゃん! きゃいぃん……くふぅうん……」
「ねえカスミ! 魔本が一体どういうものか、これでよぉおくわかったでしょう? ……わかってないかもね、こんな状態じゃ」
 獣と化したままのカスミを引きずりながらイアルは、魔女の館にのしのしと上がりこんで行く。
「お、お前! 何故……」
 魔女が、狼狽している。
「馬鹿な! どうやって、元に戻ったのだ」
「そんな事、私が知るとでも?」
 イアルは、にっこりと美貌を歪めた。こめかみの辺りに、血管が浮いた。
「知ってるような気もするけど、わざわざ語るほどのものでもなし……とにかく、貴女は死になさい」
「くっ! こ、小癪な……」
「ミラール・ドラゴン!」
 イアルの右手に、長剣が現れた。
 何やら攻撃魔法を用いようとしたらしい魔女を、イアルは一閃で斬り捨てた。


「かーすぅみいいい。私は全然気にしてないから、ほらもう出てらっしゃあい」
 イアルは、トイレのドアをノックし続けた。
 カスミが、閉じこもってしまったのだ。
 長々と用を足している、わけではない。
「嘘……嘘よ……うそよぉお……」
 ドアに耳を寄せると、呻き声が聞こえてくる。
「私が、イアルに……あんな事……あんなコト、あんなこと……」
「いいじゃないの、おかげで私は元に戻れたんだから」
「私もう、お嫁にいけない……もうすぐ30歳なのに……」
 トイレの中で、カスミは泣きじゃくっていた。
「いいわよ、もう……私なんか一生、売れ残ってればいいんだわ……いいわよいいわよ、そのうち魔本の中で理想の人と結ばれるんだからぁ……」
「ちょっとカスミ! 私が一体何のために……ああもう」
 イアルは頭を抱えた。
 カスミを魔本から卒業させる手段は、どうやら1つしかない。
「理想の人を……見つけてあげる、しかないの?」