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道を示すもの
「あの子は、もういない。君が眠ってる間に処分しておいたよ」
伊武木リョウの言葉を、黒蝙蝠スザクは冷静に聞く事が出来た。
この男の言葉は、額面通りに受け取るべきものではないのだ。
スザクは、ただ言った。
「伊武木先生……お酒、飲んでるわね?」
「気が滅入る作業だったからね。素面じゃ、とても」
伊武木の口調は、明るい。必要以上に陽気だ、とスザクは感じた。
「俺はね、酔っ払った勢いにまかせて……あの子の身体を、ズタズタに切り刻んで生ゴミに出しちゃったんだよ。この研究所に勤めてるお掃除お姉さんに、持って行ってもらった。もう何にも残っちゃいない。ひとかけらの細胞、以外はね」
言いつつ伊武木は、傍に立つ強化ガラス製のカプセルケースを軽く指で叩いた。
その中身を満たしている液体は、培養液あるいは人口羊水の類であろう。
小さなものが、カプセルケースの中央あたりに浮かんでいる。
トカゲか、あるいはネズミか。
魚類か爬虫類か、それとも哺乳類になるのか、判然としない小さな生命体。いや生命体と呼べる段階に、達しているのかどうか。
胎児、いやそれ以前の胎芽と言うべき状態である。
伊武木の言う「ひとかけらの細胞」が、スザクが眠っている間に、ここまで育ったという事であろう。
とある製薬会社の、研究施設。
ここは伊武木リョウの研究室で、A7というナンバーが振られているらしい。
そのA7研究室に今、3人がいる。伊武木リョウと、黒蝙蝠スザク。
あと1名に関してはとりあえず触れぬまま、スザクは言った。
「……最初から作り直し、ってわけね」
「君は言った。あの子を助けて欲しい、とね」
伊武木の、光彩に乏しい真っ黒な瞳が、じっとスザクに向けられる。
「結果がこれだ。俺の頭じゃ、出来る事が他に思いつかなかったんでね……怒らせてしまったんなら、このまま君に殺されるしかないんだが」
「もう1度……この子に、会えるんでしょう?」
スザクは、カプセルケースに身を寄せていた。まるで抱き締めるように。
強化ガラスの向こうに、かつて『実存の神』と呼ばれた少年がいる。今はまだ少年どころか人間ですらない状態で、人口羊水に浮かんでいる。
何か語りかけそうになって、スザクは口を噤んだ。可憐な唇が、そのまま苦笑の形に歪んだ。
(バカみたい……何を、話しかけようっての? お姉ちゃんよ……とでも?)
自分はこの少年の、姉などではない。
スザクの方で勝手に、一方的な思いを抱いていただけだ。
この胎芽が、赤ん坊と呼べるような状態にまで育った時。自分は、勝手な思いを抱く、以上の事をしてやれるのだろうか。
「いくつか問題があるんだけど」
伊武木が言った。
「その1。この子をもう1度『実存の神』なんていう大層なものとして、育てるのかどうか」
「……どういう意味?」
「これ」
伊武木が、ピンセットを掲げた。
そのピンセットが、何か小さな物体を挟み込んでいる。
辛うじて肉眼視出来る大きさの、マイクロチップであった。
「こいつはヴィクターチップと言って、IO2アメリカ本部と虚無の境界の共同開発品なんだけど。普通のマイクロチップじゃ無理なデータを、いろいろ保存しておけるんだ。で、今は何が入ってるのかと言うと……この子の、頭の中身さ」
伊武木は軽く、カプセルケースを叩いた。
「酔っ払って切り刻む前に、生の脳みそからこのチップの中に移しておいた。最強の生体兵器として虚無の境界それにドゥームズ・カルトで研究開発されてきた、全てのデータと経験値がこの中に入っている。こいつを頭の中に埋め込まない限り、この子は超能力の類を一切使えない。『実存の神』なんていう化け物じゃあない、普通の子供として生きていく事になる」
言いつつ伊武木は、そのヴィクターチップという物体を、マイクロチップ収納ケースに入れてスザクに手渡してきた。
「この子を、無力無害な少年として育てるか……あるいは生体兵器『実存の神』として、何か強大な敵と戦わせるか」
「……あたしに、決めろって言うの?」
「君が、と言うより君たちがね」
伊武木は微笑んだ。
「この子を助けたのは、俺じゃあなくて君たちだからな」
「そう……さっきから、気になってたんだけど」
チップ収納ケースをとりあえず受け取りながら、スザクは振り返り、睨みつけた。
「何で、こいつがここにいるわけ? ねえちょっと伊武木先生」
「それは、こちらの台詞だ。身体が治ったのなら、どこへなりと消えてしまったらどうだ小娘」
気障ったらしく脚を組みながら、深々とソファーに身を沈め、尊大な口調でものを言っている若い男。白いスーツが、まあ似合ってはいる。
「貴様を猟犬として飼っていたドゥームズ・カルトという組織はな、もはやこの世に存在しないのだ。今はこの私がドゥームズ・カルトであり、そして私には貴様を飼ってやろうなどという気はない。繰り返す、どこへなりと行ってしまえ」
流暢な日本語を喋っているが、白人である。とある欧州系財閥の、御曹司なのだ。
名はウィスラー・オーリエ。
実家の財力のみを評価されてドゥームズ・カルトの大幹部に祭り上げられていた男だが、あの少年を無事にここへ運び込む事が出来たのは、この男のおかげでもある。
それは認めなければならない、と思いつつもスザクは言った。
「あんたに指図される筋合い、ないから。あたしはね、やりたいようにやるだけ……この子は、あたしが守る。あんたなんか、もう要らないから」
「ふん。ならば互いに、やりたいようにやるだけだな」
ウィスラーは、にやりと笑った。
一瞬、気圧されるような気分になった自分を、スザクは許せなかった。
この男はいつから、ここまで不敵な笑い方が出来るようになったのか。
「その少年は、私が守る」
カプセルケースの中で、まだ人間の形に至っていないものを、しかしウィスラーは少年と認識しているようであった。
「黒蝙蝠スザク、貴様は貴様で……まあ、好きなようにやるが良かろう」
「好きなように、ね……じゃあまず、あんたの頭でもカチ割っておきましょうか」
「それは困る。ここで殺し合いとか始められたら、本当に困る」
伊武木が言った。
「それよりもだ。問題その2に関して、そろそろ話をさせてもらうよ。うん、実はね……この子を、いつまでもここに置いとくわけにはいかないんだよ。これが」
「ほう、何故かな」
ウィスラーが、口元では微笑みながら、目で伊武木を睨み据える。
これほど凄みのある睨み方が出来る男だったのか、とスザクは思った。
「その少年を貴方は、まあ助けてくれたのだろう。それは感謝している、が……ここで放り出すのなら、最初から助けるべきではなかったと思うのだがな」
「わかってくれよ。うちの会社、まだ虚無の境界・本家筋とは上手くやってかなきゃいけないんだよね。ドゥームズ・カルトの御本尊を、いつまでも面倒見るわけにはいかないんだ」
結局、ドゥームズ・カルトは滅びた。
伊武木の勤めている製薬会社でも、今までドゥームズ・カルトに協力していた者たちが、これからは狩り出されて粛清に近い扱いを受ける事であろう。
「俺が、会社とは関係ない一研究者としてやるとしたら……当然、ここの設備は使えない。自腹で、いろいろ揃えなきゃなんなくなる。ちょっとねえ、安月給だからねえ。まあIO2なんかよりマシだとは思うけど」
伊武木は、ウィスラーの向かい側のソファーに腰を下ろし、身を乗り出した。
「というわけで……お金持ちに丸投げしたいんだけど、どう思うウィスラー氏」
「……オーリエ財団に、引き継がせようと言うのか」
「ドゥームズ・カルトの技術者で、生き残ってる人たちがいるだろう。その人たちを財団に集めて……まあ実存の神を育て直すってのが公にやりにくいなら、うちの会社みたいな製薬部門を立ち上げて隠れ蓑にすればいい。吸収合併出来そうな製薬会社、あるんじゃないか?」
「伊武木リョウ、貴方は肝心な事を1つ見落としている」
ウィスラーが、難しい顔をした。
「私はオーリエ財団から実質上、追放されたに等しい身だ……財団を、そのように思い通りに動かす事など」
「取り戻すしかないだろう」
伊武木は言った。
「今オーリエ財団を取り仕切っているのは、ウィスラー氏のクローンなんだろう? 本物のあんたが、そいつと話をつけるなり……実力行使で消すなりして、財団をその手に取り戻すんだよ」
クローンに指示を与えていたドゥームズ・カルトは、壊滅したのだ。
指示を受けられなくなったクローンが、オーリエ財団で今どのような状態にあるのか、スザクは知らない。
「今のウィスラー氏なら、力ずくで財団を取り戻して私物化する事も出来ると思うがね。A2研で、いい感じにメンテナンスしてもらったんだろう?」
「……何をされたのかは、よくわからん」
「あの人に、あんたの細胞を分けてもらった」
言いつつ伊武木が、カプセルケースを軽く叩く。
「この子に、組み込んでおいたよ。崩壊を防ぐための、まあ接着剤みたいなもんだ……あんたの遺伝子は、どんな変化にも適応してくれるからね」
「ちょっと! 何て事してくれるのよ伊武木先生!」
スザクは叫んだ。思わず全身から、黒い炎が溢れ出すところであった。
「よりにもよって、この出来損ないのバケモノの遺伝子を! この子に組み込むなんて! そ、それに……」
ある事を、スザクは思い出した。
「この子の部品になり得る肉体は……この世に、1つしかないんじゃなかったの?」
「俺が切り刻んで処分する前の、あの虚弱体質な子供のまま生かし続けるならね」
伊武木は答えた。
「こうして1から作り直すなら話は別だ。あんな虚弱児じゃない、もっと強い子に育つように……組み込めるものは、何でも組み込むさ。スザク嬢にDNAを提供してもらおうかとも思ったけど、その前にウィスラー氏の肉片が手に入っちゃったからね。A2研の主任さんが、これを使えとか言って置いてったんだよ。人が酒飲んでる目の前にさあ。おつまみにも、なりゃしないってのに」
今の伊武木は、確かに酔っ払っている。
素面ではやっていられない、気が滅入る作業。そう言っていたが、それだけではないとスザクは思った。
酒を飲んで紛らわせなければならない何かが、伊武木リョウにはある。
「ふむ、そうか、私の遺伝子が入ってしまったのか」
ウィスラーが、何やら感慨深げに世迷言を吐いた。
「では、その子は……私の弟、もしくは息子のようなものであるなあ」
「……冗談でも、そういう事言わないように。本気でぶち殺したくなるから」
スザクは思わず、ウィスラーの胸ぐらを掴んでいた。
それを振り払おうともせず、ウィスラーは笑う。
「どうなのだ? 黒蝙蝠スザク。私の遺伝子が組み込まれてしまった生き物は、お前にとって……もはや、守るに値せぬ存在か?」
「あたしにはね、この子を守って導く義務があるの! あんたみたいなのに、ならないように!」
この男が、妙に落ち着き払っている。それがスザクは気に入らなかった。
今のウィスラー・オーリエは、何やら威厳に近いものすら感じさせる。
「……あんたはどうなの、役立たずの御曹司。伊武木先生の言う通り、実家の財団を動かして見せる。そのくらいの事は出来るわけ? この子のために」
「その子のために、だけではない。私は……私を飾り物として扱ってきた財団と、いかなる形であれ決着をつけねばならん」
スザクに掴まれたスーツの胸元を直しつつ、ウィスラーは言う。
「オーリエ財団を、我が手に取り戻す」
「生きる意味、みたいなものが見つかった。そんな顔をしてるね、ウィスラー氏」
伊武木が笑った。明るい、ように見えてどこか陰鬱な微笑だ。
「……羨ましいよ」
「伊武木リョウ、貴方が何を思い悩んでいるのかは知らん。が、貴方には感謝している。それだけは言っておこう」
言いつつウィスラーが、カプセルケースと向かい合った。
「私に、やるべき事を、生きる道を示してくれた……この子は今、私にとって真の意味で『実存の神』となったのかも知れん」
「神様以外に、もう1人いるだろう。あんたが、挨拶しておかなきゃいけない相手が」
伊武木が、謎めいた事を言う。
「聞いてるよ。ジャズバーだか居酒屋だかは、よく知らないが……仕事、放り出して来ちゃったんだろう?」
「……………………忘れていた…………」
堂々と、静かなる威厳すら感じさせていたウィスラーが、急速に青ざめてゆく。
「こ……殺される……裸に剥かれて正座させられるうぅ! おい私を助けろ伊武木リョウ、黒蝙蝠スザク! 早く助けろ、助けてくれぇええええええええ!」
ソファーに突っ伏して身を丸め、泣き叫び、震えるウィスラーを、伊武木が興味深げに観察している。
「ふうむ、なるほど……いやあ、やっぱりアレだねスザク嬢。人間って、そう簡単には変わらないみたいだねえ。人間やめたくらいじゃ」
スザクは何も言わず、伊武木から受け取ったチップ収納ケースを、ただ握り締めた。
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