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<東京怪談ノベル(シングル)>


魔本という名の牢獄


『カスミちゃんがね、おかしくなっちゃったの』
 携帯電話の向こうで、少女が心配そうな声を発している。
 イアルの親しい知り合いの1人で、私立神聖都学園に通う現役の女子高生……でありながら、オカルト系アイドルとして売り出し中の若手芸能人でもある。
『音楽の授業でも、何かワケわかんない歌しか歌わないし……ねえ、ちゃんと帰ってる?』
「帰っては来てるけど」
 携帯電話を片手に、イアルはちらりと振り向いた。
 自分をこのマンションに居候させてくれている女性が、確かに帰っては来ている。どうやら帰宅すら危ぶまれる状態であったようだが、無事に帰って来てギターを爪弾いている。少女の言う通り、おかしな歌を歌いながらだ。
「ちょっとカスミ、何なのその歌は……どうして耳とか目とか骨とかからタンポポが生えて来るの」
「タンポポを食べたからよ。軽くて優しい気持ちよ?」
 響カスミが、歌の説明をしてくれた。
「膝からも肩からも生えてくるの。斜めに生えて、くるくる回って、笑っているのよ。新宿の地下道や、建売住宅の屋根からも生えているんだから」
「タンポポが?」
「ううん、ニワトリが」
 言いつつカスミが、ぽろぽろと泣き出した。
「ねえイアル、信じられる? ニワトリがね、1人で卵を産んだのよ。ありえないでしょ? 絶対、相手がいるに決まってるんだから……うふふ、ニワトリでさえ恋をしていると言うのに私ときたら」
 明るくギターの音色を奏でながら、カスミは泣きじゃくり、笑っている。
「そうよね、私みたいなメス犬に恋をする資格なんてないのよね。私なんて溶けて崩れてスープになって、2円とか1円で売られちゃえばいいんだわ」
『ほらね? カスミちゃん、変な電波来ちゃってるでしょ?』
 少女が、どうやら本気でカスミを心配している。
『ねえイアルちゃん、助けてあげられない? あたしを助けてくれたみたいに』
「……貴女の時より、ひどいわね。これは」
 かつてイアルのいた古の王国では、魔本に耽溺して廃人同然となってしまう者が続出した。
 今カスミが陥っている状態は、それとはいささか異なるにせよ、魔本が原因である事に違いはない。
「やっぱり……現実世界で理想の人を見つけてあげるしか、ないみたいねえ」
『そ、それは無理だよ! だってカスミちゃん、オバケとか幽霊の次に男が苦手なんだから。恋愛とか結婚には人一倍、憧れてるくせに』
「要は、男を苦手じゃなくすればいいわけね」
 イアルは、溜め息をついた。
 男性経験に関しては自分など、カスミの役には全く立たない。
「結局……魔本に頼るしか、ないのよね」
 あのアンティークショップの店主が、とっておきだと言って貸してくれた魔本がある。


 汚らしいものが、王女カスミの全身にぶちまけられた。まるで腐りかけたスライムのような、汚らしい魔法物質。
 それが、カスミの聖なる肢体をドロドロと汚しながら塗り固めてゆく。
 侍女イアル・ミラールは、魔王の片腕に抱かれ捕えられたまま、その様を成す術なく見守るしかなかった。
 塗り固めてゆく王女の、真の名を、思わず叫んでしまうところであった。
(イアル……!)
 本物の聖王女カスミは今、こうして魔王に捕えられている。侍女として、メイド服を着た姿のまま。
 本物の侍女イアルは今、ドロドロとした魔法物質に包まれ、封印されてゆく。王女の影武者として、聖なるドレスを着せられたまま。
「ゲへ……お、終わりましたぜぇ魔王様ぁあ」
 魔法物質を吐き出していた邪龍が、その汚らしい雫を滴らせながら言う。
 聖なる王女カスミ、に化けたイアルは、完全に塗り固められてレリーフ像と化していた。
 魔王が、ふっ……と微笑む。
「よくやった。貴様のような下衆を生き返らせてやった甲斐が、少しはあったというものだな」
 その笑顔の美しさに、カスミは息を呑んだ。
 これほど美しい男性、恐らく人間界にはいない。魔族の美貌である。
「貴様に褒美をくれてやろうと思うが、何か欲しいものはあるか」
「で、でででは、その女をくだされぇえゲヒヒヒヒヒヒ」
 カスミに迫ろうとする邪龍のおぞましい肉体が、砕け散った。
 魔王が、片手を優美に掲げている。そこから、破壊の魔力が迸ったところである。
「恐い思いをさせたな……心配はいらぬ、そなたはこの魔王の保護下にある」
 魔王の美貌が、カスミに向かってニコリと微笑む。
「確かに、私はこの王国を攻め滅ぼした。だからと言って王国の民を苦しめようという気はないのだよ。皆、今日からは私の可愛い臣民なのだからな」
「で……では、どうかお助け下さい……」
「心配はいらぬと言っている。そなたは、私が守ってしんぜる」
「私ではありません! イア……いえ王女殿下を! このような封印から解き放って下さいませ!」
「……気の毒だが、それだけは出来ぬ。カスミ王女の聖なる力は、我ら魔族に大いなる災いをもたらすのだ」
 そんな力が本当にあるのなら、今すぐ発動させて、この魔王を倒しているところだ。
 だが今のカスミは、秘められた力の類が仮にあるにせよ、それを発揮出来る状態ではない。
 魔王の美貌に、甘い囁きに、身も心も束縛されている。
「王女の事など、忘れてしまえ……今より私が、お前の主だ」


 王国は、平和だった。
 魔王の軍勢によって暴虐の限りを尽くされた人間たちは、もはや完全に心をへし折られて反抗の気力を失い、魔物たちの奴隷として生きる運命を淡々と受け入れた。
 奴隷としての平和が、王国を支配している。
 奴隷としての安楽と快楽が、かつての王女を支配している。
 カスミは、魔王専属のメイドとして飼われていた。
 昼も、そして夜も、魔王に奉仕し続けた。
 魔王を悦ばせる事に、カスミ自身も悦びを感じていたのだ。
 奴隷の悦びに、カスミは浸りきっていた。
 魔王の城の庭園を掃除している最中に、この苔むしたレリーフ像を発見するまでは。
 石の如く固体化してなお生臭さを発し続ける魔法物質。その中に、彼女は埋め込まれている。
「イアル……」
 メイドとしての記憶を上書きされていた心の中で、何かが甦りつつあった。
「私……私は一体、今まで何を……」
「見つけてしまったのだな、それを」
 背後に、いつの間にか魔王がいた。
「そなたが本当の自分を取り戻す、その鍵になれば……と思ってな。破壊せずに残しておいたのだよカスミ王女。そなたの、大切な侍女をな」
 カスミ王女。
 専属のメイドである自分を、魔王は今、確かにそう呼んだ。
「貴方は……いつから、気付いていたの?」
「最初から知っていた。その娘が、小賢しい影武者でしかない事はな」
 その美貌をニヤリと陰惨な形に歪めながら、魔王は片手を掲げた。
「小賢しい影武者を……守る事が出来るか?」
 破壊の魔力が、放たれようとしている。カスミに、ではなくレリーフ像に向かって。
「させない!」
 自分に秘められている、と言われながら発動した事のない聖なる力が、カスミの全身から迸った。
 それは1つの塊を成し、流星の如く飛び、魔王の左胸を撃ち貫いた。
「何故……」
 倒れた魔王に、カスミは歩み寄り、問いかけた。
「何故、このような……自殺にも等しい事を、なさったの?」
「うんざりしていたのだよ……この、魔本の世界というものに……」
 魔王が、端正な口元を吐血で汚しながら、わけのわからぬ事を言っている。
「この魔本はな……貴族の姫君のために書かれた、言ってみれば……夜の生活の、指南書でなぁ……姫君たちが、嫁いだ先……ほとんどの場合は政略結婚先で、相手の男を悦ばせる……その手練手管を教え込むのが、魔王たる私の役割だ。ふふっ……まあ見ての通り、美形の魔王だ。私の指南を悦ばぬ姫君はいなかった。お前も、そうであろう? カスミ姫」
「……私は、ただ貴方に弄ばれていただけよ」
「違う……弄ばれていたのは結局、私の方だ……」
 魔王の声が、弱々しくなってゆく。
「私はな、お前を含む大勢の姫君どもに……玩具に、されていただけだ……もう、うんざりなのだよ。だから、終わりにしたかった……」
 その美貌に、最後の微笑みが浮かぶ。
「聖なる王女、の役割を与えられたお前が、本当は何者なのかは知らぬが……魔本遊びなど……もう、やめておけ……」


 柔らかな唇の感触で、イアルは目を覚ました。
「ん……あれ……カスミ……?」
「イアル……良かった……」
 カスミが、すぐ近くで微笑み、涙ぐんでいる。
 イアルは見回した。
 2人とも、水の中にいる。確かここは、聖なる泉と呼ばれている場所だ。
 レリーフ像と化していた自分が、生身の肉体に戻っている。つまり、魔王が倒れたという事だ。
「イアル……私、見付けたわ。理想の人を」
「え……何? 何の話……」
「何の事はない、探す必要なんてなかったのよ。理想の人は……ずっと、私の傍にいてくれたんだから……」
「ち、ちょっとカスミ!」
 自分たちが何のために魔本の中へ入ったのか、イアルは思い出せなかった。