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<東京怪談ノベル(シングル)>


聖女の季節がやって来る


 それは辞めたくもなるだろう、こんな会社。
 その光景を見て、まず俺はそう思った。
「辞めますで済むと思ってんのかコラ! テメエみてえなのでも育てんのにどンだけ手間ぁかかったかわかってんのかクソゆとりがぁああああああ!」
 部長が、喚いている。
 喚く口から大量の牙が生え、全身では筋肉か脂肪かよくわからないものが膨れ上がり、背広がちぎれ飛んだ。
 部長は、人間ではなくなっていた。
「辞めてどうする! ニートか? 引きこもりか? 親のスネかじりか生活保護か!? いい御身分だなぁ平成生まれが! テメエみてえなゆとりはよォ、どこだって長続きしねえ! 今この場でブッ殺してやらあああああ!」
 殺されそうになって悲鳴を上げ、尻もちをついているのは、本当に数日前まで大学生だったような男の子である。今年の新入社員の1人だろう。ゆとりと言うより、さとりと言われる世代ではないか。
 何にしても上司がこんなのでは辞めたくなって当然だ、と思いながら、俺は割って入って行った。
「ゆとり、なんて言われてたのは俺たちの世代でね……俺も、さんざん言われてきましたよ。あんたら昭和生まれは、それしか言わないもんなあ」
「何だぁ!? てめえ……」
 部長が、牙を剥きながら、こちらを向く。
 その姿は、肉食の豚、あるいは牙の生えたヒキガエルか。
 人間が、こんなふうに人間ではなくなる。ここ最近の東京では時折起こる事だ。
「ゆとりがよォ、庇い合って上司に逆らおうってか!」
 豚のようなヒキガエルのような怪物が、襲い掛かって来た。
 俺はとりあえず腕を振り上げ、変身ポーズを取ってみた。
「へっ……人間やめてんのはなぁ、てめえだけじゃねえんだよ!」
 俺の全身から、血が噴き出した。スーツと皮膚が破けて筋肉が裂け、骨が飛び出して来た。
 そんな身体に、しかし力が漲ってゆく。死の力だ。
「てめえのようなバブル老害を見てるとよォ、俺ぁ何だか血が止まんなくなっちまうんだよぉおおおお!」
 頬を引きちぎって奥歯を露出させながら、俺は叫んだ。
 そして、さっきまで部長だった怪物に掴みかかる。
 筋肉が壊死して骨の露出した腕が、しかし豪快な腕力を発揮してくれる。俺は、掴んだものを思いきり引き裂いていた。
 引き裂いたものを、さらに食いちぎった。不味かった。
「うへへへへ止まんねえ、血が止まんねえ」
「……そこまでにしておきなさい。お掃除が大変だから」
 声をかけられた。
 男の社員が1人、いつの間にか、そこにいた。社内風景の一部のように存在感のない、50代近い万年平社員。
 だが俺にとっては、英雄にも等しい人物だ。
「あ、松本さん……どうも、ご苦労様っす。うへへへへ俺、何かゾンビに変身出来るようになっちまいました。血が止まんねえ」
「自由意志で人間に戻れるようにはしておいたけれど……どちらが変身で、どちらが元の状態だか、わからなくなってしまった」
 謎めいた事を言っているのは、俺の先輩の松本太一。
 いつだったか俺が、クレーム絡みのミスを課長に押し付けられた時、庇ってくれた人である。
 昭和生まれにも、ちゃんとした人はいる。俺に、そう思わせてくれた人物だ。
「この会社も、人外魔境になってしまったなあ……」
「あんたのせいでしょうが!」
 松本さんに付きまとう生き物が、喚き立てている。
「どうすんのよ! ゾンビはいるわ吸血鬼や狼男はいるわ、この会社1年じゅうハロウィンやってるわけ!? いや、そんな事どうでもいいけど私たちを元に戻しなさいよね!」
 可愛い女の子である。頭部と、胴体だけは。
 両脚は鉤爪を生やした猛禽類のそれで、両腕は広い翼だ。
 俺がゾンビであるように、こいつはハーピーであった。
「この魔女! 聖なる力で今すぐ成敗してやるから、早く私たちを聖戦士に戻しなさぁああああい!」
「てめえコラ、松本さんにあんまナメた口きいてんじゃねえ。捌いて揚げてチキンカツにしちまうぞ? うへへへへ」
「何よ、揚げても焼いても煮ても食べられない腐れ肉の分際で!」
「やめなさい、2人とも。まあ確かに、私のせいではあるけれど」
 松本さんが、穏やかに割って入って来る。
「この状況は、とりあえず御都合主義っぽく定着させるしかないわけで……え、何ですか? いえ、そういうわけにはいきませんよ」
 松本さんが、誰かと会話をしている。俺でも、傍らのハーピーでもない、誰かとだ。
「放置は出来ません。人が1人、死んじゃってますからね……まあ人じゃなくなっていたみたいですけど。ええ、私が貴女に取り憑かれているように、この部長さんもね。貴女よりずっと低級な何かに、憑かれていたようです」
 この松本太一という人には、こういうところがあった。時折、目に見えない誰かと会話をしている。
 最初の頃は薄気味悪く、痛々しくさえあった。誰にも相手にされない万年平社員が、脳内彼女を作っている。入社したての頃の俺は、そんなふうに思っていたものだ。
 今は慣れた。俺はゾンビになったし、吸血鬼や死神になった奴もいる。見ての通りハーピーもいる。脳内彼女やイマジナリーフレンドの1人2人、どうという事はない。
 それも含めて、俺はこの松本太一という先輩を尊敬しているのだ。
「というわけで……まずは、この有様を何とかしないと」
 俺が引きちぎってぶちまけたものを、松本さんが呆れたように見回している。
「……派手にやったね、随分とまた」
「す、すいませぇん。俺が掃除しときますから、うへへへへ」
 俺は頭を下げた。
「掃いて集めてポリ袋に入れて、燃えるゴミの日でオッケーっすよね? 血が止まんねえ」
「その前に。抽出できる情報は、救い出しておかないと」
 言いながら松本さんが突然、光に包まれた。まるで、天使か神様のように。
「あっ……ま、また魔女が! 人心を惑わすような事を……」
 ハーピーが眩しげに翼をかざし、そんな事を言っている間に。松本さんの姿は、光の中に消えていった。
 代わりに、1人の聖女がそこに立っていた。
 清楚で禁欲的なシスター服は、凹凸のくっきりとした魅惑のボディラインを全く隠していない。胸の膨らみも、大きな白桃のような尻も、詰め物とは思えなかった。
 ベールからは、サラリと綺麗な黒髪が溢れ出している。これも、カツラの類には見えない。
 顔は、美しいとしか言いようがなかった。
 松本さんは元々、40代後半にしては若く、昔はかなりイケメンだったのではないかと思わせる顔をしていたが、こうしてメイクをしただけで実年齢や性別まで変化したように見えてしまう。
 この人は本当に、女装をすると化ける。
「い……イイっすねぇ〜松本さん。こないだのカボチャイナ娘も最高だったけど今回もたまんねえ、鼻血が止まんねえええ」
「……女装だと思ってる?」
 松本さんの声も、裏声とは思えない。完璧な美少女声である。
「これはね、貴方のそれよりずっと始末に負えない変身なんだから……さて、そんな事よりも」
 聖女が、たおやかな片手を掲げる。
 綺麗な唇が、謎めいた呟きを紡ぐ。
「情報抽出、及び再構成……」
 部長が、ぶちまけられた生ゴミのように汚らしく惨たらしく散乱している。
 その全体から、キラキラと光がたちのぼり蛍のように宙を舞う。
 それら蛍のような光の粒子が、聖女の細腕に集まって行く。
 集合した光の塊が、松本さんに抱かれたまま実体化してゆく。
 泣き声が聞こえた。赤ん坊の、泣き声だった。
「この部長さん……それこそ社畜として一生懸命、プライベートの何もかもを犠牲にして働いてきたんです」
 聖女の腕の中で、光の塊は、泣き喚く1人の赤ん坊に変わっていた。
「それで、自分のやり方しか認められない人になっちゃって……生き返っても、同じ事にしかならないでしょうから。ここは1つ、赤ちゃんからやり直してもらいましょう」
「あの……松本さんが、育てるんスか?」
「ご冗談を。知り合いの魔女に、赤ちゃんを欲しがってる人がいますから」
 聖女が、いくらか暗く微笑んだ。
「宴会の席で、私をいろいろ弄り回してくれた人ですけどね……赤ちゃんを、きちんと育ててくれるかどうかはわかりません。もしかしたら何かの材料にされちゃうかも。まあ、それは部長さんの運次第という事で」
「はあ……よくわかんねえけど、うらやましいなあ部長うへへへへへ。みんなが探してる人生のリセットボタン、こんなとこで見つけちまうなんてよォー。血が止まんねえ」
 ちぎれた頬からダラリと舌を出しながら、俺は身を屈めた。
 尻餅をついたままの新人君と、目の高さを合わせるためだ。
「んなワケでよぉ新人君。くそ部長もいなくなっちまった事だし、辞めるとか言わねえでよぉー、もうちっと頑張ってみてくんねえかなァ。知っての通りクソ会社で、人手が全然足りてねえのよ。うへへへへ、血は止まんねーしよぉお」
 座り込んだまま新人君は、泡を吹いて気絶していた。
「ありゃりゃん……ダメかなー、こりゃあ」
「まあ、こんな職場にいたら命がいくつあっても足りないわよね」
「だから! そーゆう職場にしたのは、あ・ん・た。いいから、あたしを元に戻しなさいって言ってんのよお!」
「はいはい、大きな声出さないで。赤ちゃんがいるんだから、ね?」
 そんな事を言いながら松本さんが、泣きじゃくる部長をあやしている。
 先程まで巨大な怪物であった赤ん坊が、聖女の優美な細腕と豊かな胸に抱かれている。
 本当に、詰め物とは思えない胸だ。
 触って揉んで確かめてみたくなる自分を、俺は懸命に抑えなければならなかった。