|
停職エージェントの冒険(5)
幼い頃から高校卒業まで、叔父が生活の面倒を見てくれた。
優しい叔父であった、とは思う。怒られた事はないし、彼が声を荒げて他人に何か言っているのも見た事はない。
声を荒げる事もなく叔父は、受話器に語りかけていた。お前を殺す、と。
姉貴や勇太の周りで、その顔を晒してみろ。僕は、お前を殺す。1度だけは言っておく、もう警告はしない。
叔父が普段通りの口調で、そんな電話をしているのを、幼い頃の工藤勇太は盗み見ていた。
この男なら、本当にやるだろう。何となく、そんな事を思いながらだ。
あの時、叔父が電話で誰と話していたのかは知らない。知りたくもない、とフェイトは思う。
あれから十数年。工藤勇太は22歳となり、フェイトなどと名乗って仕事をしているものの独断専行をやらかし、ペナルティとして停職処分を受けている真っ最中である。
何故、今頃になって、こんな記憶が蘇って来たのか。
峠道でバイクを走らせながらフェイトは、ヘルメットの内側で、脳裏にこびり付いたものを振り払う事がなかなか出来ずにいた。
先日、土蜘蛛から助け出した、あの男。
やっと死ねるはずだったのに。そんな事を言っていた男の、弱々しい表情を、フェイトは思い返していた。
思い返したくもない顔が、頭の中から消えてくれない。
「くそっ……何だって言うんだ」
何よりも、わけがわからないのは、あの男と叔父の電話相手に、いかなる関係があるのかという事だ。
わけのわからない思考を振り払うように、フェイトはスピードを上げようとした。
その時。背後から、ただならぬ気配が迫って来た。
バックミラーに、疾走する1台のバイクが映っている。フェイトの400ccよりも一回り大型で、ライダーの顔は見えない。厳つい仮面のような、フルフェイスヘルメットを被っている。
フェイトは身体を傾け、バイクを路肩に寄せた。別に公道レースをやろうという気はない。
後方の大型バイクは、しかし追い抜こうともせず同じ動きをした。
「何だ……俺、ひょっとして煽られてるのか?」
ヘルメットの中で、フェイトは苦笑した。
「暇人ってのは、俺だけじゃないんだな……」
公道レースをしてみようか、という気にフェイトはなっていた。
こんな峠の頂上に、自動販売機が設置してある。
飲み物を買う人間がいる、という事だ。
若者のバイク離れ、などと言われる事もあるようだが、峠を攻めるような輩が、いなくなったわけではないようである。
ディテクターは、自販機の傍にバイクを止めた。
ヘルメットを脱ぎ、振り返る。
もう1台のバイクが、ようやく追いついて来たところだ。ディテクターの愛車よりも一回り小型の、400ccである。
峠の公道レースは、ディテクターの快勝に終わった。
負けた400ccのライダーが、ヘルメットを脱ぐ。
「俺……何日か前にね、田舎のヤンキーと言うか珍走団みたいな連中に絡まれたんですよ」
フェイトだった。
「軽く追い抜いてやったら、そいつらブチ切れちゃいましてね。ちょっとしたトラブルになったんですけど」
「ふん、微笑ましい話じゃないか」
ディテクターが言っても、フェイトは微笑まない。仏頂面である。
「今ね、ほんの少しだけど……あいつらの気持ち、わかったような気がします。追い抜かれるのって、結構ムカつきますね」
「バイク乗りとしての年季が違う。お前、アメリカじゃ4輪しか転がしてなかっただろう」
言いつつディテクターは、傍の自販機で缶コーヒーを2本買った。片方を、フェイトに向かって放り投げる。
「4輪どころか、2本足のどえらい乗り物も動かしていたな。そう言えば」
「派手にぶっ壊しちゃいましたけどね」
受け取った缶コーヒーを一口飲んでから、フェイトは息をついた。
「煽ってくれた暇人が……まさか、ディテクター隊長だったとはね」
「隊長とは一体誰の事だ。俺は単なる、通りすがりの探偵だ」
「暇な探偵さんが、峠を攻めてる真っ最中と」
「仕事中だ。探偵として、な」
ディテクターは、缶コーヒーを一気に干した。
「この近くの山奥に1人、埋めてあるのさ」
「……そう言えば、IO2ジャパンの上層部で何人か行方不明になってるんですよね」
「ちょうどいい感じに白骨化している頃だ。掘り出して、まあ海にでも散骨をな」
「散骨という名の、証拠隠滅ですか」
フェイトが言った。
ディテクターは聞こえないふりをしながら煙草をくわえ、火を点けた。
「ディテクター隊長……じゃなくて探偵さんは、もしかして汚れ仕事の方が多いんじゃないですか? 差し出がましいようですけど、少しくらい俺に回してくれても」
「お前も、ずいぶんと自分の手を汚してきたものな」
言葉と共に、ディテクターは煙を吹いた。
自分やフェイトなど問題にならないほど、数多くの汚れ仕事をしていた人がいる。
IO2ジャパンにおいては、知る人ぞ知る存在だ。
ディテクターなどという大層な名で呼ばれ、伝説の男扱いされている自分など、その人に比べれば新米エージェントに毛が生えたようなものである。
その人の甥に当たる、幼い男の子を1人、かつてIO2ジャパンのNINJA部隊が救出した。虚無の境界の研究施設で、実験動物にされていたのだ。
救出作戦を指揮したのは一応、ディテクターという事になっている。
実際に仕事をしたのはNINJA部隊で、現場を支配していたのは、あの曲者の部隊長である。
「あれから、もう……15年は経つのか」
「あれ、って?」
自販機横のゴミ箱に空き缶を放り込みながら、フェイトが訊いてくる。
それには答えずディテクターは煙草を吹かし、灰を空き缶の中に落とした。
「なあフェイト……これは、俺の知り合いの探偵が話してた事なんだが」
「知り合いのね」
「昔そいつの事務所に、割と頻繁に顔を出す高校生のガキがいた。悪い奴じゃないんだが、いろいろ巻き込まれやすい体質でな。事務所には大抵、厄介事を持ち込んで来たらしい」
「ははは。迷惑な奴がいたもんだ」
「ある日から、そいつが事務所に来なくなった。連絡も取れなくなった。その探偵は馬鹿みたいに心配してな、仕事でもないのに調べて回った結果……そいつは何と、アメリカへ行っちまったらしい。何をトチ狂ってかIO2に就職して、だけど日本支部じゃ使い物にならなくて飛ばされたと。そういう話だった」
「そうですか……心配させちゃったんですね、その探偵さんに」
「この間、俺はその探偵に教えてやった。そいつは今、俺の部下で……独断専行ばかりやらかして大いに上司を困らせている、とな」
「その探偵さん、何て言ってました?」
「生きていたのなら連絡くらいよこせと、いくらか御立腹だったな」
「それは悪い事しました。さっそく謝りに行かないと」
フェイトは微笑んだ。
「で、その探偵さん……今、どこで何やってるんですか?」
ディテクターは息を呑んだ。フェイトの笑顔が、記憶の中で、誰かと重なった。
あの人が、今ここにいる。
ディテクターは一瞬、本気でそう思った。
その思いを振り払いながら、空き缶に吸い殻を突っ込んだ。
「……さあな。どこで生きているやら、死んでいるやら」
「一人前のエージェントになるまで、合わせる顔がなかった……だから、連絡も取らなかったんだと思いますよ。そいつ、尊敬してましたから。その探偵さんの事」
「……読んでおけ」
ディテクターは、1通の封筒をフェイトに手渡した。
停職処分解除の通知である。
読まなくともわかる、とでも言いたげな顔を、フェイトはしている。
ディテクターはバイクにまたがり、ヘルメットをかぶった。
馬鹿げた会話を、これ以上していたくなかった。
|
|
|