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サンタクロースは遅れて来る
年を取ると、体力が衰えるだけじゃあない。頭もボケてくるし、意固地になったり図々しくなったりで性格も悪くなる。
人間、老いぼれてくるとね、体力も知力も人格も駄目になってくるもんなんだ。俺だって、そろそろだ。
伊武木リョウが以前、そんな事を言っていた。
まさしく、その言葉通りの醜悪な老人が、豪奢な机と椅子の間で震え上がり、青ざめている。
一応は理系の技術者らしい白衣に身を包んだ、禿頭の老人。
この研究施設の、所長である。
日頃、横柄に振る舞い傲慢な態度を取っているくせに、こうして命が脅かされる状況になると、怯え青ざめる以外の事は何1つ出来なくなる。そんな人物だ。
もっとも青霧ノゾミには、所長の命を奪おうという意思はない。この老人が勝手に、生命の危険を感じているだけだ。
ノゾミに、事を荒立てようという気はない。今のところは、だ。
「な……何だ、何の用だ……ホムンクルスふぜいが私と、対等に口を……」
「口もききたくない? ホムンクルスなんかとは。わかった、じゃあ帰りますよ」
ノゾミは言った。所長を見据える両眼を、青く冷たく輝かせながらだ。
所長室全体に、冷気の霧が立ち込めている。それが次第に、濃くなってゆく。
壁に、床に、数々の高価な調度品に、霜が降り始めている。
「あなたを、ダイヤモンドダストに変えてから……ね」
「ま、ままままま待て。わかった、話を聞いてやろう」
恐怖と寒さで震えながら、所長はそれでも辛うじて聞き取れる声を発した。
「お前たちの待遇に関しては、考えておくから……」
「そんな事に不満があるわけじゃあない。A3A4あたりの連中と一緒にしないでくれませんか」
ノゾミは思わず、所長の胸ぐらを掴んでしまうところだった。
「僕の要求は、ただ1つ……リョウ先生に、休暇をあげて下さい。1週間くらい」
「見て見てリョウ先生! すごい、すごいよ、クリスマスツリーだ! もう大晦日なのに!」
青霧ノゾミが、幼い子供のようにはしゃいでいる。
都内某所。駅前広場から商店街へと差し掛かった辺りの路上である。
年末らしくと言うべきか、きらびやかなイルミネーションが夜の街を彩っている。
ノゾミの言う通り、クリスマスツリーが立っていた。その周囲では、電飾のサンタクロースが走り回っている。
「……クリスマスも年越しも、一緒くたに済ませようってわけか。この街は」
伊武木リョウは苦笑した。
大晦日になって、ようやくクリスマスを実感したような気分ではある。
何しろイブの夜は、酔っ払っていた。
クリスマスとは関係ない理由で1人、飲んでいた。飲まずにはいられなかったのだ。
潰れかけていた伊武木を、ノゾミが強引に研究所から連れ出した。
華奢に見えても戦闘訓練を欠かしていない少年と、鍛えてもいない酔いどれ中年男では、腕力においては勝負にならない。
伊武木はノゾミに、半ば拉致されていた。
クリスマスにイルミネーションに年明けカウントダウン! イベント盛りだくさんだよリョウ先生。ね、行こう!
酒で朦朧としている頭の中に、ノゾミのそんな叫び声が飛び込んで来たのは何となく覚えている。
所長からは正式に、休暇を与えられた。クリスマス・イブから1週間、休みを取るように、電話で命令されたのだ。
38歳である。クリスマスが嬉しいお年頃でもない。
結婚でもしていれば今頃、子供がいてプレゼントでも買ってやらなければいけなくなっていたのか、などと思いつつ伊武木は言った。
「今年はノゾミに……クリスマスプレゼント、あげられなかったな」
「あ、ボクも先生にプレゼントあげてない! 何か忙しかったね、今年は」
歩きながらノゾミが、軽やかに振り向いて来る。フェイクファーの付いた黒いロングコートが、ふわりと翻る。
「だけど、色々ひと段落ついたみたいだし。この休み中はそんなの忘れて、楽しくやろうよ!」
この先にあるアミューズメントパークで、カウントダウンライブが開催される。
伊武木の知らぬ間にノゾミが、2人分のチケットを購入していた。それだけでなく都内のホテルも押さえていた。
小遣い程度の給料を、普段あまり使わぬノゾミが、ここぞとばかりに注ぎ込んでしまったのである。
伊武木としては、頭を掻きながら付き合うしかなかった。
「色々忘れて楽しくやるには、酒でも飲むのが一番なんだけどな……」
「駄目」
ノゾミの青い瞳が、やや上目遣いに向けられてくる。
「この休暇中は、ボクに合わせてもらうからね。最近のリョウ先生、飲み過ぎだよ……イブの夜だって何かもう、ぐでんぐでんだったじゃない」
結婚でもしていれば、妻か子供にこんな事を言われていたのだろうか、と伊武木は思った。
「あんなにお酒飲んで……色々、忘れられたの? リョウ先生、全然楽しそうに見えなかったんだけど」
「そうか? ……そう、だな」
忘れたいものは、ある。だから酒を飲んだ。
結果それは、伊武木の心の奥底で、酔いと一緒に沈殿しつつ不快な渦巻き方をした。
飲んで、忘れられるものではないのだ。
「そんな先生を見るのは、ボクも……楽しくないよ」
「嫌なとこ見せちまったか。でもなあノゾミ、これが俺という男なんだよ。鬱屈して酒飲んで、嫌な酔っ払い方をする。俺は、その程度の男さ。お前もそろそろ俺に幻滅しなきゃならん」
「ボクは……先生の嫌なところも全部、見てきたつもりだけど。何年、一緒にいると思ってるの」
俯き加減に、ノゾミは言った。
「嫌なところは別にいいよ。そのくらいで幻滅したりはしない。だけど、先生が辛そうにしてるのを見ると……ボクも、辛いよ」
「辛い……ってのとは、少し違うんだなあ」
言いつつ伊武木は、ちらりと視線を動かした。
アミューズメントパークへと向かう人々の流れに、乗りつつある。
家族連れが、隣を歩いていた。小さな男の子を連れた夫婦。
夫も妻も20代の後半、息子は5歳くらい、であろうか。
3人とも、幸せそうに笑い合っている。子供は、ハイテンションではしゃいでいる。大晦日だけは夜更かしが許されているのだろう。
あと10年も経てば、この小さな男の子は15、6歳。父親は30代の後半。今の伊武木とノゾミと、ほぼ同じである。
結婚でもしていれば今頃、16歳の息子がいるのだろうか。その息子にも自分は、ノゾミという名前を付けているのだろうか。
伊武木は思う。その息子を、自分は……物、として見ていただろうか。
お前は一体、どのように使えるのだろう。何に利用出来るのだろう。そんなふうに見ていたのだろうか。
あの男が、自分をそう見ていたように。
そんな事を思いながら、伊武木は言った。
「なあノゾミ。俺にはね、大嫌い……ってわけじゃあないけど、こいつみたいには絶対なりたくないって男が1人いるんだ」
「……A2研の?」
「違う違う。あの人の事は俺むしろ尊敬してるよ。あの人みたいには、なれるといいな。ま、俺じゃ絶対無理だけど」
伊武木は笑って見せた。
「俺が言ってるのは、もうずっと昔に死んじまった男の事さ。そいつはもう、この世にはいない。いろんな厄介事だけを遺して、いなくなった男だ。俺は、そいつみたいには絶対なりたくなかった。なるわけがない、と思ってたよ……ある時、いつの間にか、そいつと同じ事をしている。そんな自分に気付くまでは」
「先生……」
「そいつみたいに、どころじゃない。俺は、そいつよりもタチの悪い何かに、気が付いたらなっちゃってたんだよ」
「だから……お酒、飲んでたの?」
「酒で、そいつの事を忘れようってのが、そもそも甘かった。酔っ払ったくらいで、俺の記憶からいなくなってくれるような……生易しい人じゃあ、ないからな」
「じゃ、今日だけは忘れようよ。そんな人の事は」
ノゾミが、伊武木の腕を掴んだ。
「いろんな事……忘れた方がいい、って時も……あるんじゃ、ないかな。嫌な人の事も、仕事なんかの事も……研究の、事も」
ノゾミは俯いた。
「わかるよ。リョウ先生が、どれだけ情熱を持って……研究者っていうお仕事を、してるのか。先生の言う、その人も……きっと研究者、なんだよね?」
「……ああ。立派な、研究者だった」
伊武木は、夜空を見上げた。
「研究者としてだけは、尊敬出来る人だったよ」
だから、あの男と同じ道を歩み始めた。
父のような、優れた研究者になりたい。そんな青臭い思いが、最初は確かにあった。
ノゾミの言うように、それは確かに、情熱と呼ぶべきものではあったのだろう。
「ボクも……もっと勉強して、先生のお仕事……手伝えるようになるから。だから」
「それは駄目だ」
ノゾミの言葉を、伊武木は断ち切った。
「俺の仕事になんか、入って来るなよノゾミ……お前は、研究者の道を歩いちゃいけない」
「先生……」
研究者の道。その先には間違いなく、あの男がいる。
伊武木がなろうとしている、あるいはすでになってしまっているかも知れない、あの男が。
ノゾミを、あの男に近付けるわけにはいかない。
「ノゾミ……お前、1つ勘違いしてるよ」
「え……?」
「俺は、この研究者って仕事に……情熱なんか、持っちゃいない。もう後には引けないから、続けているだけだ」
言いつつ伊武木は、ノゾミの細い肩に片手を置いた。
「……やめようか、こんな話は。せっかくノゾミが、俺のために休みをゲットしてくれたんだしな」
「ぼ、ボクは何も……」
「所長に一体、何をしたんだ? うん?」
俯くノゾミの顔を、伊武木は覗き込んだ。
「俺もな、あの人を黙らせるために色々やってるから偉そうな事は言えないけど……ほどほどに、な? ノゾミ」
「はい……」
「カウントダウンが終わったら、そのまま初詣かな」
伊武木は、くしゃくしゃとノゾミの頭を撫でた。
「ノゾミの無茶が、少しは収まりますように。うん、俺の願い事は決まった」
「ボクは……」
リョウ先生がどうのこうのと、ノゾミは呟いたようである。
1人で抱え込まないで欲しい、ボクも役に立ちたい。そんな事を呟いたようである。
伊武木は笑いながら、聞こえないふりをした。
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