コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ノベル(シングル)>


宵闇を舞う蝶々


 30年近く、サラリーマンとして生きてきた。仕事となれば、自分に麻酔をかける事が出来る。
 これは仕事だと自分に言い聞かせれば、大抵の事は出来る。
 だから今回も、どうにか乗り切る事が出来た。
「いやあ、良かったですよぉ松本さん」
 課長が、平社員の松本太一に敬語を使ってくれている。
 以前、クレーム絡みのトラブルで太一と悶着を起こした課長は、いつの間にかいなくなった。
 人間ではなくなった社員の誰かが、何かやったのではないか、と太一は疑っているが真相は不明である。
 とにかく、この男が、先輩であり年長者である松本太一を追い越す形で課長になった。
 2人で、取引先に年始の挨拶に赴いた、その帰り道である。
「社長さん、思いっきり鼻の下ぁ伸ばしてましたねえ」
「……いいんでしょうか? 年始の挨拶で、こんなふざけた事を」
 自分の全身を、太一は不安げに見下ろした。
 振袖姿である。和服だから、体型はいくらかごまかす事が出来る。
 着物の柄は、色とりどりの蝶々だ。
 艶やかな黒髪は当然カツラで、顔はメイク担当のOLたちによって徹底的に改造された。
「仮装パーティーでもあるまいし……50近い男の、女装なんて」
「皆さん大喜びだったじゃないですかあ。松本さんのは本当、もう女装なんてレベルじゃないんですから」
 胡散臭い芸能スカウトマンのような口調で、課長が太一を褒めてくれる。
「いつぞやのハロウィン以降、ウチのお得意様の間でも話題なんですよ? この会社には、性別を超えた美人がいるって」
 その得意先各社を、年始回りで訪ねたところである。
 女装で、というのは社命に近い要請だった。
「でもね、女装が最高ってだけじゃないんですよ松本さんは」
 課長は言った。
「今日回った所って全部、松本さんが今まで営業で地道に信頼関係作ってきてくれたとこばっかじゃないですか」
「そう……ですかね、まあ」
「何か、立場は俺の方が上になっちゃいましたけど……松本さんがいないと現場が全然回らないってのは本当、よくわかりました。今年も、あてにしてますよ」
「いえいえ、こちらこそ。本年もよろしくお願いいたします」
 互いに軽く、頭を下げた。
 元々、太一の直属の後輩だった男である。何名かと違って、人間をやめているわけではない。
 どこかで、携帯電話が鳴った。
「あ……部長からだ。すいません、ちょっと」
 課長がスマートフォンを取り出し、電話を始める。
 少し離れた所で太一は、ちらりと周囲を見回した。
 道行く人々が時折、視線を向けてくる。いい女だ、とでも思ってくれているのか。よく見ると男なので、驚いているのか。
『大丈夫よ、ばれていないわ』
 声が聞こえた。太一にしか聞こえない、女の声。
『もう少し、自信を持って構わないと思うわよ?』
「自信など付いてしまっては終わりだ、という気がしますが」
 女の悪魔。本人は、そう名乗っている。だから太一も、そう思うしかなかった。
「それよりも……気のせい、でしょうかね。どなたか、いらっしゃっているような」
『……やっぱり鋭いわね貴方。来ているわよ、新年早々』
 何が来ているのかは、やがて明らかになった。
 乾いた、重々しい足音を響かせて、それは堂々と路上を歩いて来る。
 課長は、スマートフォンを片手に止まっていた。固まっていた。
 道行く人々も、歩きながら歩けずにいる。固まっている。
 まるで、時が止まったかのようであった。
『私たち、遮断されたわ。私たち以外の、あらゆる情報から』
 女悪魔が言った。
『……気を付けて。かなりの敵よ』
「そのよう、ですね。貴女が、そうおっしゃるなら」
 街中で堂々と異形を晒し、歩いて来た敵が、立ち止まった。
 ずんぐりと安定感のある、人型の肉体。その全身が、白っぽい外骨格で覆われている。骨格が、筋肉を包んでいる。
 両腕の先端は、五指ではなく頭蓋骨だ。獰猛な魔獣の髑髏が2つ、右手左手を成し、牙を剥いているのだ。
 その牙が、食らいついて来た。怪物が踏み込み、襲い掛かって来たのだ。
 太一は軽くステップを踏み、身を翻した。蝶々柄の振袖が、闘牛士のケープのようにヒラリと舞う。怪物の牙が、空を切る。
 無論、太一が意識的にかわしたわけではない。そんな戦闘技術はない。女悪魔が、身体を動かしてくれたのだ。
 軽やかな回避の舞を披露しながら、太一の全身がキラキラと光に包まれる。着物に描かれた蝶たちが、鱗粉を撒き散らしたかのように。
 光をまといながら、太一はふわりと動きを止めた。
 着物の裾が割れて跳ね上がり、つるりとした無毛の美脚が露わになる。
 太一は慌てて、裾を閉じた。
 女悪魔が、からかうように声をかけてくる。
『恥ずかしいの? 慣れないわねえ、貴女』
「慣れちゃったら終わり、という気もしますけど……」
 俯き加減に頬を染めながら、太一は小さく応えた。
 初々しく紅潮したのは、化粧をした男の顔ではなく、若い娘の美貌である。
 着物の中で、胸が重い。詰め物が、本物に変わっている。
 さらりと揺れる黒髪も、今やカツラではなかった。
 太一は『夜宵の魔女』となっていた。
「私……何でこんなに、慣れないんでしょう。魔女として今まで随分、色々、やってきたのに……」
『確かに慣れないかもね。貴女は「夜宵の魔女」だもの』
「どういう、事ですか……」
『夜、というのはつまり「神秘」であり「女」。陰陽の考え方は、貴女たちの世界にもあるでしょう?』
「じゃあ『昼』や『現実』が、要するに『男性』?」
 太一は片手を掲げた。怪物が、両手で牙を剥いて再び襲い掛かって来る。
「情報改変……貴方の存在は、最初からありませんでした!」
 叫んでも、しかし何も起こらない。怪物の右手を成す魔獣の頭蓋骨が、超高速で食らいついて来る。
「うそ……情報を、書き換えられない!?」
『ははん。いくらか手強いのを送り込んで来たわね、あの連中も』
 女悪魔が不敵に笑いながら、またしても太一の身体を勝手に動かしてくれた。振袖が軽やかにはためき、牙をかわす。
 あの連中、というのがどういう連中なのか、太一はもちろん知らない。この女悪魔の、それこそ星の数ほどいる敵のどれかであろう。
『私の情報改変を、遮断するとはね……つまり、物理的に倒すしかないわけで』
 軽やかにはためく振袖から、鱗粉のように光がこぼれ出す。その光が、キラキラと羽ばたき、宙を舞う。
 着物の柄であった蝶たちが、布地から飛び出し、太一の周囲で実体化・三次元化を遂げていた。
『私に、それが出来ないとでも思われているのかしらねえ。まったく……それはそれとして、貴女は「夜宵の魔女」なのよ』
 色とりどりの蝶々が、ひらひら、キラキラと飛翔して怪物に群がり、白い外骨格を埋め尽くす。
 怪物の全身あちこちで、蝶たちは蛹に、そして芋虫へと戻ってゆく。
 牙を備えた、肉食の芋虫の群れ。
 白い外骨格が、その下で脈打つ体組織が、ばりばりと齧られ食い尽くされてゆく。
 その様を眺めながら、太一は訊いてみた。
「宵というのは、昼から夜へ……つまり男から女への、成りかけ? っていう事ですか?」
『わかっているじゃないの。そう、それが夜宵の魔女……貴女はね、昼と夜の境界線上で危なっかしく振袖をひらひらさせている存在なのよ。永久に落ち着く事の出来ない状況。慣れるのは難しいでしょうねえ』
「まあ……私も今更、何言ってんだって感じですよね。男の時から、こんな格好して」
 怪物を跡形もなく食い尽くした芋虫たちが、蛹の状態を一瞬経てから蝶々に戻り、太一の着物の中に帰って来る。
「部長がね大至急、戻って来て欲しいそうです」
 課長が、何事もなく電話を終えていた。
「まったく。年始回りも終わって、やっと正月らしくゆっくり出来ると思ったのに」
「じゃあ戻りましょうか。私もいい加減、この疲れる格好は終わりにしたいですから」
 太一は、女装の男に戻っていた。
 自分は、この振袖に描かれた蝶々のようなものか。きらびやかな蝶にもなれる、醜い芋虫にもなれる。
 その境界線、無力な蛹が、最も自分に合っている。太一は、そう思った。