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虹色の封印
「ここまでやれ、と言った覚えはないのだけど……」
軽くぼやきながら、魔女は頭を掻いた。
セキュリティの甘い豪邸、と侮ったのであろう。
盗みに入って来た男たちが原形を失い、庭園にぶちまけられている。
ぶちまけたものを全身に浴びたまま、イアル・ミラールは吼えていた。
獣、と言うより怪物の咆哮。
美しい顔が、今はおぞましく歪んで牙を剥き、凹凸のくっきりとした豊麗な肢体はドロリと返り血にまみれてる。
背中では皮膜の翼が広がり、羽ばたき、血の汚れを跳ね飛ばす。
1匹の凶暴な牝ガーゴイルが、物盗り数名を始末したところである。
招かれざる客は追い払うように、とは確かに命令しておいたのだが。
「……まあ、殺してしまったものは仕方ないわね。死体を片付けてくれる子たちもいるし」
もはや死体と呼ぶのも躊躇われる状態の盗人たちに、何人もの少女が群がってゆく。
そして、ぶちまけられた肉の残骸をガツガツと食い漁る。犬のような猫のような声を発しながら。
あちこちから美しい少女を拉致して獣の心を植え付け、放し飼いにしている。
その趣味にもいささか飽きてきたところで、思いもかけずイアル・ミラールを手に入れる事が出来た。
獣ではなく、ガーゴイルにしてみた。飽きたら、別の何かに変えてみれば良い。
「ふ……ふふふ、汚れたわねえ貴女ずいぶんと」
血まみれのガーゴイルに、魔女は微笑みかけた。
ガーゴイルであるから、普段は石像である。動けずにいる。獣と化した少女たちが犬の如く放出する汚物を常日頃、浴びている。盗人の類が来た時は、こうして返り血も浴びる。
今のイアル・ミラールは、常人であれば吐き気を催すであろう悪臭を全身から発していた。
「貴女はね、この世で最も汚らしい生き物なのよイアル・ミラール……鏡幻龍が、貴女の中に居られなくなるほどにね」
美しき「裸足の王女」を、汚らしい怪物として飼い馴らす。
この上ない快感であるのは間違いない。
だがイアル・ミラールをこうして虜囚としておく理由・目的は、それだけではない。
「鏡幻龍の力……私のものに、してみせる。そうすれば私が最強の魔女。結社の頂点に立つのは、この私よ」
レリーフ像と化したイアル・ミラールは、売られては買われ、買われては売られ、裕福な好事家たちの間を転々とした。
「違う……違うぞ。君はイアル・ミラールではない」
ある時イアルは、そんな声を聞いた。
身体が、いつの間にかレリーフ像ではなくなっている。
生身に戻ったイアルを抱き支えてくれているのは、1人の若い女性であった。
さらりと艶やかな金髪。凛とした美貌に、ルビーのような真紅の瞳。
イアルを抱き上げる左右の細腕は強靭で、まるで水着のような鎧をまとう全身は、美しく鍛え込まれて凹凸がくっきりとしている。
女戦士。豊かな胸と育ちすぎた白桃のような尻周りをビキニ状に覆う甲冑は、まともな防御効果などいささかも期待出来そうにない。
だが鎧による防御など必要ないと思えるほど神聖な加護を、イアルはこの女戦士から感じ取った。
どこかで見た女性だ、とも思う。
「……イアル……ちゃん……?」
そんな呟きを、イアルは漏らしていた。
馬鹿げた戯言だった。この女性がイアル・ミラールだと言うのなら、自分は一体何者なのか。
「君はイアル・ミラールではない」
女戦士は言った。
「今は、君にイアルでいてもらう必要がある。だが忘れてはならない、君の本当の名前を……君の名は、SHIZUKU」
「あたしは……シズク……」
ぼんやりと、何かを思い出せそうではあった。
「あなたは……イアルちゃん……?」
「違う……イアル・ミラールは今、かつてない危機に陥っている。君の助けが必要だ」
女戦士の口調は静かだが、どこか切迫した響きを帯びてもいた。
「邪悪な魔女が、私をイアルから奪い取って己のものにしようとしている。イアルの中から、私という封印が失われ……目覚めてはならないものが、目覚めてしまう」
「めざめては……ならない、もの……?」
「血に飢えた、女戦士……鏡幻龍の王国において、最も美しく残忍な殺戮者」
意味不明な話を、女戦士はしている。
「彼女は傭兵として大勢の人々を殺め、その罪を裁かれて死刑を宣告された。が、執行される事はなかった。美しく強靭な肉体と、そして亡き王女と瓜二つの美貌を、評価されたのだ……彼女は、急死した王女の魂を容れる器にされてしまった」
語りつつ女戦士が、呆然とするSHIZUKUの眼前で片手をかざす。
「今、イアルは彼女に戻りつつある……甦りつつある女傭兵が、私を追い出そうとしている。SHIZUKU、私は一時的に君の中へと避難しなければならない。一時的にイアルとなって、私を受け入れて欲しい」
光り輝く手甲で凛々しく飾られた繊手が、SHIZUKUの視界を満たした。
「君に、イアル・ミラールになってもらわなければならない……本当に申し訳ないが、何度でも体験してもらうよ。裸足の王女の、過酷な人生を。君が、私を受け入れられるほどイアルになるまで」
声が、聞こえた。
「姫様、もう少しでございますぞ!」
「この洞窟は、きゃつらも知らぬ逃げ道でございますれば!」
(あれ、あたし……また、走ってる……)
暗闇の中を、SHIZUKUは走っていた。
いや、SHIZUKUではなくイアル・ミラールか。
「お、王弟殿下! これは一体いかなる」
「イアル姫。そなたの首を差し出せば、この国は私のものとなる……」
矢の雨が、降り注いで来る。そしてSHIZUKUの全身に当たって跳ね返り、折れて散る。
SHIZUKUは、石像と化していた。
時の流れが、加速してゆく。
石像と化した己の全身が、苔むして悪臭を発し始める。それがわかっても、SHIZUKUはどうする事も出来なかった。
いや、SHIZUKUではない。自分は、イアル・ミラールなのだ。
イアル・ミラールから、鏡幻龍の存在が感じられない。
「これは……これは一体、どういう事なの……」
狼狽しながら魔女は、眼前に両手をかざし、念じた。
目に見えぬ魔力の防壁が発生し、だが即座に砕け散った。ガーゴイルの体当たりによってだ。
地を蹴る脚力と、皮膜の翼による荒々しい飛翔力が、隕石の如き空中からの突進をもたらしたのだ。
微かな煌めきとして視認出来る魔力の破片を蹴散らして、イアル・ミラールが襲いかかって来る。綺麗な唇をめくって牙を剥き、表記不能な絶叫を張り上げながら。
間違いない。今のイアルの中に、鏡幻龍の力は存在しない。血に飢えた怪物と堕した「裸足の王女」を、ミラール・ドラゴンは見放したのだ。
イアルの中から、鏡幻龍を追い出す事には成功した。
追い出したものを、しかし捕える事は出来なかった。鏡幻龍は一体、どこへ行ってしまったのか。
そして。今や単なる使役怪物でしかないはずのイアルが、己の支配者である魔女に牙を剥いている。
「動かないで! 止まりなさいイアル・ミラール!」
背中を壁に激突させながら魔女は、手にしたものを楯のように掲げた。
1冊の、魔本である。
「忘れたわけではないでしょうね!? SHIZUKUちゃんはまだ、この中にいるのよ」
鉤爪を備えた細腕を、魔女に向かって一閃させようとしていたイアルの動きが、止まった。
「そうよ、思い出しなさい。私の身に何かあれば、あの子は永遠に魔本の中……」
その魔本が突然、開いた。
見えざる手によって開かれ、めくられてゆく。
とある頁から、光が溢れ出した。七色の光。
虹を思わせる、その輝きが、魔女の眼前で人の形に実態化を遂げてゆく。
「あたし……イアルちゃんには、なれない……」
SHIZUKUだった。
魔女の方を振り向きながら、呻く声を震わせている。
「あんなに辛い目に遭って……あんなに強く、綺麗でいられるなんて……あたし絶対無理。だけど頑張って、イアルちゃんの真似して……貴方を、ここまで連れて来たわ。さあ出番よミラール・ドラゴン!」
SHIZUKUの叫びに合わせて一瞬、幻影のようなものが出現した。
金髪の女戦士、のように見える。ルビーのような赤色の瞳が、じっと魔女を見据える。
赤色が、虹色に変わった。
女戦士は、七色に煌めく龍に変わっていた。
七色の光が、激しく迸って魔女を呑み込んでゆく。
「ありがとう……鏡幻龍……」
最後の言葉を、魔女は漏らした。
「貴方が殺してくれなかったら、私……この世で最も汚らしい怪物に、汚らしく殺されていたわ……」
虹色の光の中で、魔女は灰に変わった。
それはしかしSHIZUKUにとって、もはやどうでも良い事であった。
凶悪な牝のガーゴイルが、襲いかかって来る。
「イアルちゃん……」
襲い来る怪物の汚れきった肉体を、SHIZUKUは抱き締めた。
ガーゴイルの牙が、SHIZUKUの細い首筋に突き刺さる寸前。
虹色の龍が、形なき七色の光に変わり、ガーゴイルを包み込んだ。
そして怪物と化したイアルの中に、吸い込まれ消えていった。
「……う……んっ……」
SHIZUKUの腕の中で、ガーゴイルが呻いた。
否、ガーゴイルではない。
野生の獣のように汚れきったイアル・ミラールが、少女の細腕の中で、うっすらと目を開く。
「シズ……ク……え、ここは……? 私、一体……何を……」
「……臭いよ、イアルちゃん」
臭う身体を抱き締めながら、SHIZUKUは微笑んだ。
「今度は、あたしが……いろんな所、洗ってあげるね?」
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