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<東京怪談ノベル(シングル)>


名無しの人魚姫


 忘れてしまいなさい、とイアル・ミラールは言った。
 忘れられるわけがない、とSHIZUKUは思う。
「だって、あたし……間違いなく、イアルちゃんになってたんだよ?」
 最終的には確かに、自分は決してイアル・ミラールにはなれない、というところに行き着いた。
 行き着くまではしかし、自分は間違いなく「裸足の王女」だったのだ。
 石像にされ、元に戻され、レリーフ像に変えられ、元に戻され、売られて買われ、買われては売られ、美術品あるいは玩具として扱われた。
 裸足の王女としての体験は、もはやSHIZUKUの一部なのだ。
 己の重要な一部分を成すものに関して、自分の知らぬ事がまだ、あまりにも多すぎる。
「それは駄目でしょ。謎と怪奇を追い求める、オカルト系アイドルとしては」
 呟きながら、SHIZUKUは佇んでいた。
 神聖都学園。敷地内に建つ、学園直営の美術館である。
 SHIZUKUはしかし、展示品を見ているわけではなかった。
 出来は良いが美術的歴史的価値は不明な大理石の天使像と、マコンデ彫刻と思われる巨大で歪んだ人面との間で、不自然なほど広いスペースが空いている。立像系の美術品が1つ置けるほどの広さだ。
 少し前まで、ここに「裸足の王女」と題された石像が展示されていたらしい。
 当時、美術品の管理を任されていたという女性教師に話を聞いてみたところ、何やら言葉を濁された。その事には触れて欲しくない、といった様子であった。
 それでも半ば無理矢理、「裸足の王女」をどこから仕入れたのかを聞き出す事は出来た。
 とある高級ホテルが海外から輸入したものを、神聖都の理事長が買い取ったらしい。
 SHIZUKUも1度、番組のロケで泊まった事のあるホテルだ。
 安くはない。だが「裸足の王女」のルーツを知るためには、自腹で何泊かするくらいの覚悟は必要だ。
「ねえイアルちゃん……あたし、もしかしてストーカーみたいな事してる?」
 この場にいない女性に、SHIZUKUは語りかけた。
「でもあたし、イアルちゃんの事もっと知りたいから……訊いてもイアルちゃん、教えてくれないから……」


 人面真珠から生身のSHIZUKUに戻る様を、動画に撮ってネット配信してみた。
 当然、大いに炎上した。
 アクセス数は億に達し、良くも悪くも話題にはなった。SHIZUKUというアイドルの商品価値を証明する結果となったのは、事実である。
 だからプロデューサーも、引き続きSHIZUKUを使ってくれる。
 プロデューサーの伝手で、以前ロケで使った高級ホテルの、支配人に近い立場の人物と接触する事も出来た。
「裸足の王女……覚えておりますわ。以前、当ホテルが某国から仕入れた品。その仕入れを担当したのが、私ですもの」
 年齢不詳の、美しい女性である。20代にも、4、50代にも見える。
 年齢のごまかし方は自分もいずれ覚えなければならなくなる、などと思いながらSHIZUKUは訊いてみた。
「何で……売っちゃったんですか? 神聖都学園なんかに」
「迂闊だった、としか申し上げようがございませんわね。私も含めて当ホテルの関係者全員が、あの石像の正体に気付いていなかったのですわ。最初はね、ロビーに飾るための御洒落な何かが欲しかったのですけれど……そのために私が安く買い漁ったものたちの中に「裸足の王女」が紛れ込んでおりましたの。何しろ汚らしく苔むした石像だったものですから、つい売りに出してしまいまして」
 じっとSHIZUKUを見つめながら、女性は言った。
「あの苔むした石のガラクタが、まさか本物の……鏡幻龍の、戦巫女だったなんて……」
 鏡幻龍の戦巫女。それはつまりイアル・ミラールの事か。
 それを訊いてみる事が、SHIZUKUはしかし出来なかった。
(あれ? あたし……何で、こんな所に……)
 裸足の王女……イアル・ミラールの事を知るために、自分はここに来た。
 その目的が、記憶が、抜け落ちてゆく。吸い取られてゆく。
 こちらを見つめる、女性の瞳にだ。
「そう言えば……貴女のお名前、まだ聞いていなかったわね」
 年齢不詳の美貌が、にやりと歪んだ。
「聞かせて下さる? 貴女に、名前があるのなら」
「あたしは……」
 一応、テレビにも出ている。それなりに名前も売れている、と思っていたのだが、まだ知らない人がいるのか。
 普段のSHIZUKUであれば、そんな事を思っているところである。
 だが今のSHIZUKUは、SHIZUKUではない。
 SHIZUKUという少女が今、この世から消えかけている。
「あたしは……ええと……」
「ふふ、わからないでしょう。今の貴女は、名もない人魚姫……SHIZUKUという名前は、私がもらっておくわね」
「あたしは、人魚……そう、早く海に帰らなきゃ……」
 ソファーから立ち上がろうとして、SHIZUKUは失敗し、床に倒れた。
「海に帰って、みんなに会いたい……ホタテ貝にも、ナマコにもハタハタにも……会いたいよぉ……」
 否。SHIZUKUという存在は、もはやない。
 今ここにいるのは、立ち上がれず無様に床を這いずる、1人の人魚であった。


 むっちりと瑞々しく鍛え込まれた太股が、超高速で跳ね上がる。
 水中から食らい付いてきた半魚人の顔面がグシャッ! と歪む。イアルの膝蹴りが、叩き込まれていた。
 のけぞり、よろめいた半魚人の身体が次の瞬間、真っ二つになって左右に倒れた。
 イアルの長剣が、真上から真下へと一閃したところである。
 両断され、浅瀬に沈んだ屍の手から、イアルは奪われたものを奪い返した。
 そして素早く右脚を通し、腰の左側で紐を結ぶ。
 育ち過ぎた桃のような尻に食い込む、純白のビキニショーツ。
 水中からの奇襲で、これを奪い取られてしまったのは不覚だった。
 同じく白のビキニブラが、たわわな胸の膨らみを辛うじて閉じ込めている。
 右手に長剣を持ち、左腕に楯を装着した水着姿。
 そんな格好で浅瀬に佇みながら、イアル・ミラールは周囲を見回した。
 襲いかかって来た半魚人たちが、1匹残らず叩き斬られて倒れ伏し、砂浜や浅瀬に色々なものをぶちまけ垂れ流している。
 魔女結社の兵隊である怪物が、これだけ群れて守りを固めている。
 間違いない、とイアルは思った。
 この辺りの海中に、SHIZUKUがいる。捕われている。
 SHIZUKUが、またしても失踪した。
 今度こそ宇宙人にさらわれた、異世界に行ってしまった、いや彼女は実は最初から幽霊だったのだ、などと様々な噂が流れている。
 SHIZUKUは人魚になったのだ、などと語る者もいた。彼女によく似た人魚を、この海岸で目撃したのだという。
「人を、人魚に変えたりガーゴイルに変えたり……結社の連中がやりそうな事、とは思っていたけれど」
 イアルは、浅瀬から海中へと、一気に潜り込んで行った。
 泳ぎには自信がある。半魚人も、1匹残らず片付けた。
 妨害者のいない海の中を、より深い所へと向かって順調に泳ぎ進みながら、イアルは考えた。
 魔女結社がSHIZUKUを捕えた、のだとしたら目的は何か。
 考えるまでもない。自分イアル・ミラールを、おびき寄せる事である。
 いや。SHIZUKU自身に、何かしら歪んだ欲望を抱いている魔女もいるだろう。
 美しい少女を、捕えて石像に変える。獣に変える。怪物に変える。
 それが、魔女という生き物の悦びなのだ。
(まったく、SHIZUKUは……魔女って連中の怖さ、全然わかろうとしないんだから)
 口の中で呟きながら、イアルは水中で目を凝らした。
 海底で、小さな蟹や小魚が、何かに群がっている。
 岩、であろうか。人の姿に、よく似た岩。
 岩と言うより、石である。人間大の、加工された石。
 海中投棄された、石像である。
 人間の、ではなく人魚の石像。全身がひび割れ、細い胴体はどうやら完全に割れて分離している。
 片腕は、もげて少し離れた所に転がっていた。そして頭部もだ。
 イアルは息を呑んだ。
 海底の砂に埋もれかけているのは、石で出来た、SHIZUKUの生首だった。