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凍った涙
SHIZUKUは、身も心も人魚姫に変えられた。
人間・SHIZUKUとしての全てを、奪われてしまったのだ。
奪ったのは何者か。考えるまでもない、魔女結社だ。
奪い返すには、どうすれば良いのか。
これもまた考えるまでもない事だ、とイアル・ミラールは思った。
(だけど、それは……許される事なの……?)
「……! 隠れて!」
沈思するイアルの腕を、SHIZUKUが引っ張った。
2人で、海底の岩陰に身を隠す格好となった。
複数の人影が、海中に飛び込んで来たところである。きらびやかな水着をまとった、少なくとも外見は美しい女たち。
魔女の集団だった。半魚人の群れを兵隊ように引き連れ、泳いでいる。
どこへ向かって、泳いでいるのか。
ここは、魔女結社がプライベートビーチとして私有している海域である。
SHIZUKUを含め大勢の人魚が、生け簀のような海底監獄に囚われていた。恐らくは商品として。
魔女たちは、その商品を出荷するために来たのだ。
助けたばかりの人魚たちが、また捕らえられようとしている。
「させない……!」
岩陰から泳いで飛び出そうとするイアルだったが、SHIZUKUが腕を掴んだまま離してくれない。
「待って! 仲間たちを助けるのは、あたしの役目です……これ以上、地上の方に御迷惑はかけられません」
この少女は本当に、心から人魚姫に成りきってしまっている。
「SHIZUKU、貴女は……」
「シズク……素敵な名前ですね」
微笑んでから、SHIZUKUはぺこりと頭を下げた。
「助けていただいて……本当に、ありがとうございました。何のお礼も出来ないで、ごめんなさいっ……」
イルカのように躍動し、岩陰から飛び出して魔女たちに向かって行くSHIZUKUを、イアルは止めなかった。
SHIZUKUも、それに人魚たちも、捕えられ運ばれて行く事になるだろう。魔女結社の、本拠地に。
SHIZUKUが奪われてしまったものを取り戻すには、まず結社の本拠地を探し出さなければならないのだ。
人魚の少女たちは、少なくとも半数が石像に変えられ、魔女結社に持ち帰られた。残り半数は、とりあえず海底に放されたようである。
SHIZUKUがどうなったのかは、わからない。
とにかくイアルは今、都内のとある高級ホテルの地下に身を潜めている。
SHIZUKUを囮にする形となったが、魔女結社の本拠地を探り当てる事は出来た。魔女たちは確かに、ここへ帰還した。
ホテルの地下は、時代がかった石造りの、ほとんど迷宮と言って良かった。各所に鉄格子を設置すれば、そのまま地下牢になってしまうであろう。
SHIZUKUはしかし、幽閉されているわけではなかった。
迷宮の中央。石造りの大広間に、彼女は放置されている。
それは、言うならば氷の棺であった。
綺麗な直方体型に固められた氷の中で、1人の人魚姫が時を止められている。
常温では溶けない、恐らく物理的に熱を加えただけでは絶対に溶けないであろう氷の中に、SHIZUKUは閉じ込められていた。
「SHIZUKU……! ごめんなさいね、今助けてあげる……」
駆け寄ろうとしたイアルの眼前で、鉄格子が天井から落ちて来て床に突き刺さった。
左右、そして後方でも、同じ事が起こった。
SHIZUKUは氷の中に、イアルは鉄格子に、閉じ込められていた。
「無駄だよイアル・ミラール。お前に、SHIZUKUを助ける事は出来ない……SHIZUKUを、取り戻す事は出来ない」
女の声が、どこからか聞こえて来る。
聞かずイアルは、眼前の鉄格子を掴んだ。
激しい電流が、イアルの全身を駆け抜けて意識を引き裂いた。
おかしな感触が、全身を這い回っている。
イアルは、意識を取り戻した。
手足が動かない。起き上がる事も出来ない。
そこは巨大な、石の寝台の上だった。四肢が、鎖で拘束されている。
動けぬ肢体のあちこちで、魔女たちの白く美しい手が蠢いていた。囁く言葉に合わせてだ。
「イアル・ミラール……元々は、お前になど用はなかった。私たちが欲しかったのは、お前に宿る鏡幻龍の力」
「だけど今まで、よくも私たちに刃向かってくれたね」
「私たちは、お前が憎い……憎さ余って、可愛さ百倍だよ。だから、こうして可愛がってあげる」
おぞましい快感が、イアルの全身で蠢き続ける。
意識が、理性が、快楽の中に溶けてゆく。
「お前に、人間としての名前は要らない……犬として、可愛がってあげるよ」
「お前は自分の名前も、SHIZUKUの名前も、取り戻す事は出来ない」
「人魚たちを見殺しにして、私たちの本拠地を探し出そうなどと……愚かな事を考えたものだな。魔女の本拠地で、魔女に勝てるとでも?」
見殺し。
その言葉が、蕩けつつあるイアルの心に突き刺さった。
「SHIZUKU……ではないな。あの名無しの人魚姫とその仲間たちを守るために、お前は我々と戦うべきだったのだ。シー・メデューサを倒したようにな。海の中の方が、まだここよりは、お前に勝機があったぞイアル・ミラール」
(私は……戦わなかった……貴女たちを、見殺しにした……)
氷の棺に閉じ込められた人魚姫を、イアルはぼんやりと見つめた。
自分の両目が、焦点を失いつつあるのがわかる。
「お前は選択を誤ったのだよイアル・ミラール。誰かを囮にするような戦い方で、私たち魔女結社に勝てると思っているのか?」
「お前が人魚たちを見殺しにしたように、ミラール・ドラゴンは今お前を見放した。その力は、もはや私たちの手にある」
「お前はもはや鏡幻龍の戦巫女ではない……単なる、牝犬だ」
「イアル・ミラールなどという美しい名前は、お前にはふさわしくない。我々がもらっておく」
「名無しの狂犬として浅ましく生きるがいい、ほら鳴いてみろ牝犬!」
魔女たちに弄ばれるイアルの姿を、名無しの人魚姫が、氷の棺の中から見つめている。
悲しそうに、じっと見つめている。
(……ごめん……ね……SHIZUKU……)
それがイアルの、最後の理性だった。
氷漬けの人魚姫は、そのままホテルのロビーに飾られた。
魔女結社の最高傑作として、宿泊客である魔界の富豪たちから高い評価を受けた。
ゆえに、盗み出そうとする者も1人2人ではなかった。
そういった盗賊たちはしかし、ことごとく惨殺され、ロビーにぶちまけられた。
辛うじて生き延びた盗賊の1人が、病院のベッドの上で戯言を語った。
凶悪極まる番犬が、氷漬けの人魚姫を警護していたのだという。
その番犬は、しかし美しい女の姿をしていたのだという。
汚物と返り血にまみれた美女が、激烈な獣臭さを振りまきながら盗賊たちを食いちぎり、引きちぎり、ぶちまけた。
殺戮に狂う牝犬の有様を、氷漬けの人魚姫が、じっと悲しそうに見つめていたのだという。
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