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■ 続・不可視のオブジェ ■
“こうなって”は時間の経過など計りようもなく夜を数えるのも早々に諦め、シリューナの今の心境としては天を仰ぐほかなかった。
同好の士たる友人の屋敷に招待されたのは数十日を遡る。屋敷の主である友人を人は“姫”と呼んだ。名ではない。彼女はとある王族の姫君ではあったがそれが理由でもない。ただ、彼女の一人称が姫であるというだけだ。
その姫の策にまんまとハマり、シリューナはティレイラと共に不可視の盾に囚われ、見事に姫のオブジェにされてしまったわけである。
全ての魔法を無効化する魔法金属の像となった今、シリューナが出来る事は大してなく、目の前で繰り広げられる光景を見ているくらいか。それも毎日ほぼ同じで退屈なものだ。いや、厳密には退屈とは少し違うか。
“姫”の姿はそれはそれで飽きるものでもない。
朝食の後、いつものように食後のコーヒーを飲みながら眼前に並べられたオブジェにご執心の姫を見ているのも楽しくないといえば嘘になる。
それは白磁で出来た人形のようで。
姫の呼称に相応しく優美な動きで優雅にカップを傾ける姿は麗しく、姫の足首まで届く燃えるように朱い髪がさらさらと波をつくる様は充分にシリューナの琴線にふれるものだったからだ。
そう、だからこそ、これまでもからかい半分とはいえ姫の愛らしい姿をオブジェにして楽しんでいたのだ。
一瞬の表情を切り取りそれに似合ったマテリアルに閉じこめ、その美しさや愛らしさを永遠に等しくとどめおくことはシリューナの気分を昂ぶらせ征服欲と独占欲をも満たし多幸感に浸らせた。
しかし。
現在、立場は逆転していた。こうなっては時間と共に移る姫の表情を見ているくらいしか楽しみがない。そこに唯一の救いがあるとするなら、姫が飽きもせず懲りもせず毎日、シリューナと、その隣に並べられているティレイラのオブジェを堪能してくれる事だろう。彼女を自分が虜にしているのだと思えば、少なからず独占欲は満たされなくもないからだ。
ただ、こちらからは触れられないし、頬摺りすら出来ないのが口惜しいといえば口惜しい。だから、たっぷりある時間を利用して、どんなお仕置きをしてあげようかと考える楽しみをそこに加えて、たまる鬱憤をはらしていた。
▽▽▽
その日も姫はいつものようにシリューナとティレイラのオブジェをデザートにして、朝食の後のコーヒーを楽しんでいた。
だが、この日はいつもと少し違っていたらしい。
「そろそろ限界ね…」
名残惜しそうにそう呟いて姫はそちらに手を伸ばした。
それはシリューナの視界の外であったが気配で察することが出来る。その手はティレイラに向けられているのだろう。
程なくして。
「信じられない!!」
というティレイラの憤激極まる声が不可視の盾の向こう側から響いてきた。
つまり限界というのは不可視の盾の魔法の効力が間もなく切れるという事だろう。
「これって騙し討ちじゃないですかっ! 姫ったら、酷いです!」
まくし立てるティレイラにさすがの姫もたじろいでいるらしい、まあまあと宥めるように両手の平をティレイラに向けた。
ティレイラがようやくシリューナの視界に入ってくる。不可視の盾に閉じこめられる前と変わらぬ姿だ。ただ、たいそうご立腹なのだろう、タコのように頬を膨らませ口を尖らせている。目尻に溜めている今にもこぼれそうな涙の粒がまた可愛らしくもいじらしい。
「ごめんなさい。だってティレがあまりにも可愛い過ぎるんですもの」
姫の言葉についシリューナも内心で頷いてしまう。
「可愛い過ぎるって…っっ!!」
勢い込んだティレイラがそこで言葉に詰まった。怒っているのか、照れているのか顔を真っ赤にしている。今にも「しょうがないなあ」と折れそうな雰囲気だ。
「本当に可愛いわね」
姫はにこやかに微笑んでいる。ティレイラは一つ大きなため息を吐いてシリューナの像を振り返った。
心配げな表情でシリューナの顔を覗き込み彼女は呟いた。
「お姉さま…」
シリューナは内心で首を傾げていた。ティレイラと自分が不可視の盾に捕まったのに殆ど時間差はなかったはずだ。にも関わらずティレイラが盾から解放されて尚、シリューナが解放される気配がないのだ。
シリューナは姫の方を見やった。
姫にシリューナの内心が届く筈もなく姫はティレイラと共にシリューナを見上げているだけだ。いつものようにオブジェを愛でるような目で。
▽▽▽
凛と佇むシリューナの姿に見惚れずにはおれぬ気品と華麗さがあって、いつの間にかティレイラの顔は心配げなそれからうっとりとしたものに変わっていた。
いつもはティレイラがオブジェにされる事が多い、というかそれしかない。それが形勢逆転とでもいおうか真逆の状態なのだ。
ドキドキせずにはいられない。いつもお姉さまはこんな気持ちで自分を堪能しているのだろうか、と考える。
「触ってもよろしいのよ?」
姫が促すように言った。
「あ、でも…」
自分も同じオブジェにされていたから知っている。意識は残っていてこの魔法金属は触れられるとその感触が相手にも伝わるのだ。不用意に触れてしまってもいいのだろうか。
というか、今シリューナは自分を見ているはずだ。
そんなティレイラの葛藤とは裏腹に、姫はシリューナの胸に頬摺りしてみせる。
「こんなに気持ちいいのに」
もったいないと言わんばかりだ。ティレイラは困惑顔でシリューナを見上げている。
一方。
シリューナはといえば。間もなく訪れるであろうその時をじっと待っていた。もうすぐだ。もうすぐの筈なのだ。ティレイラが元に戻ったという事は、あのお転婆姫に考えに考え抜いたお灸を据える時間がもう間近に迫っているという事なのだ。そう考えるだけで彼女の気分を高ぶらせていた。
―――いざ。
だが。
「じゃぁ…少しだけ…」
そう呟いてティレイラはシリューナの均整のとれた肢体を柔らかく撫でた。
「お姉さま…」
どこか熱を帯びた声がティレイラの口から吐き出される。
「そうだわ、ティレ」
ふと思い出したように姫がシリューナから離れた。
「2人で堪能する前にする事があったのだったわ」
そう言ってティレイラの手を引いていく。
「え?」
そうしてティレイラは姫に手を引かれるまま部屋を出ていった。
広いサロンにシリューナはポツンと1人残された。
どういう事なのか。シリューナの思惑とは裏腹に一向に不可視の盾の効力が切れる気配もなく、気持ちは焦れるばかりだ。
どういうつもりなのか。何の冗談なのか。
それからどれくらい待ったのか。これまでの数十日に比べれば一瞬のような時間が過ぎて2人が部屋に戻ってきた。
2人の姿にシリューナの目が大きく見開かれる。いや、現実には1mmも動いてはいないのだが。相好が崩れる気分だ。あくまで気分だけの話である。
それはさておき。
ティレイラは、その赤い瞳と同じ色の優雅な光沢を帯びたベルベットのドレスを着ていた。シルクのリボンに彼女の髪と同じ黒の縁取りがされている。ドレスにも金糸と黒糸で花のような刺繍がされていた。パフスリーブの袖から覗く白い肌にとても栄える赤だ。手首に巻かれた赤いバンドにもリボンがついている。膝丈のスカートはふわふわのレースが幾重にもあしらわれ、オーバーニーとの間に出来た絶対領域が可愛くも艶めかしい。
一方、姫の方はといえばその瞳と同じアイスブルーのドレスを身に纏っていた。縁取りは白。刺繍も白と銀糸。
まるでティレイラと双子コーデをしているようだ。
お似合いの2人にシリューナの胸が躍った。もしかしてこの後のお仕置きを見越してわざわざ自分達からその準備をしてきてくれたという事だろうか。もちろんそんなわけはないのだろうが「ナイスアシスト!」と姫を褒め千切りたい。
このまま2人をオブジェにして是非とも堪能しなくては。まだ、不可視の盾の効果は切れないのか。期待と焦燥がシリューナの中で綯い交ぜになる。
ところが。
2人はそのままランチを始めてしまった。
「あの…お姉さまは…」
ティレイラが運ばれてくるランチプレートとシリューナのオブジェを交互に見やりながら姫に声をかけた。しかし姫は大して気にした風もなく、ティレイラにランチをすすめるばかりだ。
おずおずとフォークをとってサラダを口に運び始めたティレイラに姫が尋ねた。
「もしかして、こういうのは初めてかしら?」
「こういうの?」
ティレイラが首を傾げると姫はそっとシリューナの方に目配せしてみせた。
「あ…、お姉さまがオブジェになっているのをこんな風にゆっくり見るのは初めてかもしれません」
そもそもシリューナがオブジェになるという事態があり得ない。シリューナがオブジェになったら、ティレイラのオブジェ化を誰が解くのかという大いなる問題も生じるからだ。姫のような存在があって初めて今回このような逆転劇が成立したともいえる。
「あらあら、そうなのね? なら、せっかくなのだから楽しまなくてはダメよ」
姫にしてはお行儀悪くフォークをくるくる回しながら言った。
「た、楽しむって…でも…」
どうにも申し訳なさが先に立ってしまうのは、シリューナに意識があって全部見られているとわかっているせいかもしれない。だが姫はそんなティレイラの逡巡を全く意に介さなかった。
「ほら、御覧なさいな。あの美しい曲線を」
姫の差す方をティレイラは見た。姫の言うとおりそこには曲線美を凝らされたオブジェがある。胸のライン、腰のライン。肩を流れる髪、首筋、鎖骨、足首。オブジェになる前はこんなにマジマジと見る事のなかった部分たちだ。それが今はそれらに目を奪われて止まない。
「た、確かにそうですね! やっぱりお姉さまは素敵です!」
そこは紛れもない事実で声を大にして言いたい。
「でしょう? じっくり堪能していいのよ」
楽しそうに笑う姫にティレイラは元気よく応えた。
「は、はいっ!」
「(……)」
シリューナは沈黙する事しか出来なかった。ティレイラに褒められる事は悪い事ではなく気分はいいが、如何せんこの状態は全く面白くない。お仕置きタイムを今か今かと楽しみにするよりも、まだかまだかという苛立ちの方が増大していたのだ。
だが、そんなシリューナを知る由もないのだろう、2人は程なくランチを終え、食後のデザートまでしっかり楽しんだ。
そして。
「ティレはどんな肌触りがお好み?」
シリューナの腕の魔法金属で出来た冷たい質感をなぞりながら姫が尋ねた。
「あ、えぇっと…そうですね、こういうメタリックーって感じより何て言うか…もっと重厚? な感じの方が好きかもしれません」
あまり上手くない説明を返す。
「ふむ。重厚というのは、マットな感じって事かしら?」
姫は考え深げに腕を組んだ。
「マットってなんですか?」
首を傾げるティレイラに姫が応える。
「ツヤ消し加工の事よ」
写真やカラープリント、車などにも施されたりする。
「金属をマット加工するなら絶対黒ですわよね」
そう呟いて姫が手を翳した。黒い金属に細かな凹凸が出来、光を拡散させ光沢がなくなってしまう。そのせいか金属というより鉱石や炭のように見えた。軽さが消え、重量感に包まれる。ティレイラが想像していたのとは少し違ったが、なるほど重厚な感じがした。
触れると石膏のような肌触りで思いのほか心地よい。何よりこの黒の雰囲気がいい。
「お姉さまにとても似合いますね!」
そうしてティレイラはシリューナの頬に両手を伸ばすとにっこりと微笑んだ。
「よくお似合いですよ! お姉さま」
先ほどの躊躇はどこへやら今やしっかり状況を楽しみ始めているティレイラだった。オブジェにされた方はそれどころでない事など百も承知で、それは誰よりも知っているはずなのだが。
シリューナが素敵なお姉さますぎるのだからしょうがない。責任を転嫁して。
少しだけなら、ほんの少しだけなら、と呟く。
それに、である。
そもそもこの状況を作ったのはティレイラではない。責任なら姫にある筈だ。ティレイラには姫を止めるだけの力は残念ながらない。
「いつも、こんな風に私を眺めていたんですか?」
シリューナの楽しみがよく理解出来ないティレイラだったが、オブジェがシリューナならわかるような気がした。
何より、いつも慌てふためき半泣き状態の残念なオブジェになっているティレイラとは違い、そこには気品があるのだ。さすがはお姉さまだ。それがまた誇らしくもあった。
ふと、シリューナもこういうオブジェの方がいいのだろうか、などと考える。落ち着き払って、凛として、オブジェ化を受け入れるティレイラ像。
どう考えても自分がそうなれる気はしなかったが。
「……」
▽▽▽
自分を覗き込むティレイラに、シリューナはまだか、まだか、と焦がれる気持ちを押しとどめるのが精一杯だった。
だが焦る必要はない。
それは必ず訪れる。
それも。
唐突に何の前触れもなく。
シリューナを包み込む金属が氷解するような感触に彼女の胸が高鳴った。
時は来たれり。
シリューナは2人の愛らしい姿も相俟って、これまでの苛立ちも帳消しにする勢いで詠唱を始めた。
「!?」
姫の驚いた、或いは怯えるような表情がシリューナの気分を最高潮に盛り上げた。
渾身の石化魔法を放たれる。
姫の足下から石化が始まると同時に隣にいたティレイラの石化も始まった。
全身の石化には1秒とかかるまい。
ティレイラの慌てようが愛しい。
姫も今にも泣きそうな顔をしている。
否。していた。
それが、してやったりの笑顔に変わっていたと気付いた時にはもう…。
「!?」
反射的に飛び退ったシリューナに向けて姫はその腕に巻かれたリングを翳していた。そこに、シリューナ自らが唱えた石化の魔力が吸収されていく。そして姫の石化が消えた瞬間、間髪入れずそれは光った。
彼女の腕輪が吸収した魔力を解き放ったのだ。
それは瞬きするほどに短い時間の事だった。
石化には1秒とかからない。
だから自分を取り繕う暇もなくシリューナは声を出す事すら出来ずに、驚きの姿をしたまま石化していた。
まさかまた自分がこうなる事を信じたくない気持ちが石化と同時にブラックアウトする。
全ては姫の策略だったのだ。
凛とした姿ではなく動揺を露わにしたシリューナをオブジェにするための。
シリューナがお仕置きをする事は彼女も計算の上だった。問題はそのタイミングだ。だから彼女は先にティレイラの盾の効力を解きシリューナを大いに煽ったのである。
シリューナが不可視の盾の効力が切れた瞬間を狙って魔法を使ってくることを見越して。
「ふふふ。また、素敵なオブジェの完成ね」
姫はシリューナの愕然としたその愛らしい頬に口付けた。
ティレイラとシリューナの石像を並べると、ベルを鳴らし使用人を呼ぶ。ソファーに腰掛けアフターヌーンティーを頂きながら新しいオブジェにご満悦な姫であった。
■■大団円?■■
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