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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


スイート・クリスピー・ラビリンス


 蜂蜜は、食材としても医薬品の原料としても、大変に優れた物質である。
 だからシリューナ・リュクテイアは今、絵本を開いていた。
 魔界屈指のベストセラー絵本作家として知られる、とある老悪魔の作品である。
 妖精族の少年の冒険譚で、そこに魔法の蜂蜜を精製するミツバチの一族が登場する。
 シリューナの目的は、その魔法の蜂蜜であった。医薬品を扱う商人として、放ってはおけぬ逸品である。
 入手するため、絵本の中の世界に入り込む。それは不可能ではないが困難を極める。
 絵本に限らず魔界の出版物には、入り込みを防ぐためのプロテクトがかかっている。物語の中からの物品持ち出しは、魔界著作権保護法に違反する、れっきとした犯罪行為であるからだ。無論、窃盗罪でもある。
 絵本の中に入り込めないのであれば、どうするか。
 手段は1つ。絵本の中の世界を、こちら側に複製再現するしかない。
 そのためにシリューナは、店舗内の一室を使っていた。結果。
「……失敗ね。世の中そうそう思い通りには、いかないという事」
 溜め息をつきながらシリューナは、その部屋の扉を閉めた。
「著者の方と、お話をつけるしかないのかしら……」
 ぶつぶつと呟きながら、シリューナは廊下を歩いてその場を去った。
 絵本の著者である老悪魔は、曲者として知られる手強い交渉相手である。一筋縄ではゆかぬ商談になりそうだ。
 そんな事を考えていたせいでシリューナは、部屋の扉に鍵をかけるのを忘れていた。


 1人の少女が、まるで夢遊病者のように廊下を歩いている。
 一筋、紫色の入った黒髪。健康的な小麦色の肌。
 エプロンを基調とする従業員の制服が似合った、一見すると人間の美少女である。
 名はファルス・ティレイラ。
 人間ではとても従業員など務まらない店で、働いている。
 今は、ふらふらと歩いている。濃密なチョコレートの香りに、引き寄せられている。
「ああんカカオマス、お砂糖ミルクにココアバター……」
 店舗内の、とある一室に、ティレは向かっていた。
 チョコレートの匂いは、どうやらそこから漂い出している。
「お、お姉様が……きっと、お姉様が。何かとっても美味しそうな実験をしてるんだわ。新商品、美味しくて太らない魔法のチョコレートでも開発なさってるに違いないわ。そうよ、きっとそうよ」
 ドアにすがりつきながら、ティレはノックをした。
「おおおお姉様ぁああ、ティレが、ティレがお毒味いたします、実験台になりますぅ。だから開けて、入れて下さぁあい」
 返事はない。
 甘美なチョコレートの香りが、ドアの向こうから漏れて来るだけだ。
 鍵はかかっていないので、ティレはドアを開けた。
 そこは、室内ではなかった。
 メルヘンチックな森の光景が、広がっている。
 室内が、どうやら異世界と繋がっているようであった。
 童話、あるいは絵本の中のような、メルヘン系の世界と。
 魔法のチョコレートの開発であるかどうかはともかく、シリューナ・リュクテイアが何かしら実験を行ったのは間違いない。
「まさか……まさか、こんな事が……」
 ティレはふらふらと歩き、近くの大木の幹にもたれかかった。
 それは、ビスケットの塊であった。
 幹はビスケット、葉はリーフパイ。
 そんな木々が、見渡す限り生い茂って森を成しているのだ。
 視界の隅で、白いウサギがぴょんと跳ねた。マシュマロで出来たウサギだ。
「私……私って今、お菓子の国のお姫様!」
 歓喜の絶叫を張り上げながら、ティレは背中から翼を広げ、くるくると空中を舞い踊った。
 踊りながらも、濃密なチョコレートの芳香に引き寄せられてゆく。
 軽やかに飛び回りながらティレはやがて、奇怪なものを発見した。
 お菓子の森の中に、茶色っぽい岩塊のようなものが鎮座している。
 岩塊ではない。それは巨大な、蜂の巣であった。
 これほど巨大な巣を作る蜂。大きさは推して知るべし、といったところであろう。
 危険であるに決まっている。
 だがティレは空中で回れ右をする事が出来ず、巨大な蜂の巣に向かって、ふらふらと飛行を続けた。
 間違いない。甘美・濃厚極まるチョコレート香は、この蜂の巣の中から漂い出している。
「こ……これって、この蜂の巣って」
 呻きながらティレは、巣の中に入ってしまっていた。
 思った通りである。蜂の巣は、チョコレートで出来ていた。
「出来る〜事ならチョコレいトぉのお家に住みたい暮らしたい〜♪」
 歓喜のあまり歌いながらティレは、チョコレートの迷宮とも言うべき蜂の巣の中を、踊りながら歩み進んで行った。
「壁もぉ畳もお風呂もベッドも全部ぅチョコレえトぉ〜……って、きゃー!」
 ティレは、喜びのあまり悲鳴を上げた。
 チョコの迷宮の最奥部に、大量のチョコレートが溜まりうねっている。
 蜂蜜ではなく、チョコレートが貯蔵された蜂の巣であった。


 胸焼けが止まらなくなるほどチョコレートを食らい堪能したところで、ティレは正気に戻った。
「あー、気持ち悪……って、ここどこ?」
 今にしてようやく、それを気にしながら、ティレはチョコレートの迷宮を彷徨っていた。
「う〜ん、迷っちゃったわねえ……ところで、ここって蜂の巣なのよね? つまりどういう事かと言うと」
 剣呑な羽音が聞こえた。
 蜂の巣の正当な住人が、迷宮の天井付近に滞空し、不法侵入者に向かって複眼をぎらつかせている。
 チョコレートで出来た蜂。蜂の形をした、生けるチョコレート。
 大きさは人間の子供ほどで、きちきちと音を鳴らす大顎は、チョコレートでありながら鉄板をも切断してしまえそうだ。
「あ……あの、怒ってます? よね、もちろん……」
 ティレは愛想笑いを浮かべた。
 チョコレート蜂は答えず、ただキチキチと大顎を鳴らしながら翅を震わせ、襲いかかって来る。
 ティレも翼を生やし、逃げ出した。
「ご、ごめんなさい! あんまり、いい匂いだったからあ!」
 悲鳴を上げながらティレはしかし、すぐに逃げられなくなってしまった。
 チョコレート蜂の大部隊が、前方で戦闘ヘリの如く待ち構えている。
「わ、悪かったと思うけど! 許してくれないなら抵抗しますよお!」
 ティレの周囲に、炎で出来たブーメランがいくつか生じて浮かんだ。そして発射される。
 襲いかかって来たチョコレート蜂が数匹、炎のブーメランに薙ぎ払われ、真っ二つになりながら灼け溶ける。
「あ……焼きチョコの香ばしさ……」
 吐き気がするほどチョコレートを食べまくった後だと言うのに、ティレはまたしても甘美な香りの虜となっていた。
 その間、チョコレート蜂はあらゆる方向で群れを成し、編隊を組み、襲いかかって来る。
「ほ、本気を出すしかないっ……疲れるし可愛くないしで嫌なんだけどぉおおおおお!」
 ティレは左右の翼をマントのように閉じ、己の全身を包み隠した。
 その翼が開き、羽ばたく。
 黒髪・小麦色の少女の姿は、もはやそこにはなかった。
 紫色の鱗をまとう巨大な竜が、そこに出現していた。竜族の少女が、本来の姿に戻ったのだ。
 紫色の竜と化したティレが、チョコレート蜂の大群に向かって、白い牙を剥きながら炎を吐く。
 数匹の蜂が、焼きチョコの香りを発しながら消滅した。
 迷宮の壁が、高熱でどろりと溶け歪み、スライムの如く変形する。
 炎と一緒に、ティレは胸焼けも吐き出していた。気持ち悪くなるほどチョコレートを堪能したいという欲望が、またしても燃え上がる。
 襲いかかって来たチョコレート蜂の1匹を、ティレは大口でがぶりと捕え、鋭い牙で噛み砕き、長い舌で舐め溶かし、ばりばりと食らった。
「ん〜……クリスピィー」
 などと言っている場合ではなく、一向に減ったように見えないチョコレート蜂の大群がティレを襲う。
 無数の毒針が、紫の竜に向けられる。
 否。チョコレート蜂の尻から生え伸びたそれらは、針ではなく発射管であった。
 茶色の荒波が、一斉に発射された。
 液体チョコレートの奔流だった。
 カカオの芳香を発する茶色の荒波が、紫の竜の巨体を押し流し、溶けかかったチョコレート壁に押し付ける。
 茶色いスライムのようになっていた壁面が、竜の翼を、尻尾を、胴体を飲み込みながら固まってゆく。
 息苦しいほど濃密な甘味の塊が、ティレの口を塞いでいた。悲鳴を上げる事も、出来なかった。


「おやつの時間なのにティレったら、一体どこへ行ったのかしら」
 呟きながらも、シリューナは苦笑した。
「まあ想像はつくけれど……ほうらね」
 チョコレートの壁面に、見事な竜の彫刻像が完成している。
 甘美な芳香を発しながら可愛らしく苦悶する、紫色の竜。もっとも今はチョコレートに塗り固められて茶色一色だが、その色艶は、思わず唇を触れてしまいたくなるほどだ。齧り取ってしまいたくなるほどだ。
 恐らくは、プロテクトによる不具合であろう。
 絵本の中の世界を室内に複製再現する、その実験の結果、実に珍妙な異世界が出来上がってしまったのだ。
 再現出来たのは森の外見だけで、木々も、森に住まう生き物たちも、全て菓子の塊であった。
 目的である魔法の蜂蜜も無論、複製など出来なかった。出来上がったのは、単なるチョコレートである。
 失敗した実験の産物など、時間が経てば消えて失せる。ティレも、いずれは元に戻る。
 それまで堪能しよう、と心に決めながら、シリューナは片手を伸ばした。
 そして、チョコレートの壁に封印された少女竜の滑らかさを、美しい指先でつるりと味わう。
「可愛くないから嫌……そう言っていたわよね、ティレ」
 悲しげに吠えながらチョコレート像と化し、返事も出来なくなったティレに、シリューナは構わず語りかけた。
「そんな事ない、と思うわ。この姿の貴女も……可愛くて、素敵よ?」
 おやつは、ここで食べよう、とシリューナは思った。