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<東京怪談ノベル(シングル)>


クリアな海で人魚は踊る(4)
 腕利きの職人が作り上げた陶器のように美しく、それでいてふわりと柔らかな長い指が、冷たいアクリル樹脂を撫でる。広い室内を見渡せば、目に入るのは水槽ばかりだ。一面に並べられたそれのせいで、まるで自分が海の中にいるような錯覚に陥る。
 その偽物の海で、瑞科はゆっくりと剣を構えた。
 この水槽は、いわば怪魚のためのゆりかご。満たしている水は恐らく普通の水ではない。あふれんばかりの魔力そのものだろう。
「自分より格下の悪魔から無理矢理魔力を吸い出し、怪魚を作るために利用していた、というところかしら?」
 事実がどうであれ、このような水槽など破壊してしまったほうがいいだろう。怪魚の事も、一体残らず退治してやらねばならない。それが、元の姿に戻れぬ彼らに対し、彼女が与える事が出来る最大の慈悲だ。
 剣が振り上げられる。響き渡る、風を切る音。
 しかし、その切っ先がおろされた先は、水槽ではなかった。
「随分と、乱暴なご挨拶ですわね」
 彼女に襲いかかろうとしていた光が、溶けるように霧散する。今しがた自分へと放たれた魔術で出来た弾丸を切り裂いた瑞科は、笑みを浮かべ呟くと同時に跳躍。瞬間、彼女が先程まで立っていた場所に弾丸が突き刺さった。ふわりと優雅に別の場所へと降り立ち、二度目の攻撃も華麗に避けてみせた彼女は、奇襲に焦る事もなく笑みを携えている。
 ここは戦場だ。少しでも気を緩めたら、死が待っている。だからこそ、どのような場面であれ彼女は冷静さを失わない。正々堂々と勝負しても勝つ事は叶わず、隙もないから奇襲も通用しない。誰よりも美しく、強い女。それが、「教会」の戦闘シスター、白鳥瑞科である。
 青色の瞳が、ある一点を見つめる。魔術の弾丸を放った者がいる方向だ。コツン、コツン、と靴音をたてながら、部屋の奥から一つの影は歩いてくる。その姿を見て、瑞科は肩をすくめてみせた。
「なるほど……。本当に恐ろしいのは、人間とはよく言ったものですわ」
 影の正体は、女性であった。恐らくこの研究所のトップであり、怪魚を作り出している黒幕。生き物を生き物と思わぬ所業を繰り返した者の正体はいったいどんな醜い悪魔かと思えば、醜く歪んだ心を持っているだけの人だったのだ。
「あの攻撃を避けてみせるとは、さすがね」
 白衣をまとった女は、不敵な笑みを浮かべながら瑞科の事を見つめ返す。淀んだ黒い瞳は、まるで舐めるように聖女の肢体を観察していた。
 魔術を使うという事は、それなりに知識のある魔術師なのであろう。怪魚の餌である魔力は、悪魔を召喚して入手したのか。それとも……。脳裏に浮かぶ悪い予感に、瑞科の顔に僅かな陰りがさす。
「貴女様はこの研究所の所長ですわね? 他の研究員はどこにいまして?」
「研究員? ……ああ、確かに、無能なわりに魔力だけは有している魔術師達がいたわね」
「いた? という事は、今はどこにいらっしゃいまして?」
「ふふ、私の魚ちゃん達をずいぶんと可愛がってくれた貴女がやってくるっていう情報を手に入れたから、全力でおもてなししなくちゃと思ってね。特別大サービスで、みーんなこの子達の餌にしちゃった」
 ぞくり、と瑞科の背筋を冷たいものが走る。それとは反対に、胸に湧き上がるのは烈火の如く燃え盛る怒りだ。
 瑞科の悪い予感は当たってしまった。この女は、仲間であったはずの者達を、怪魚を作り出すための餌にしたのだ。魔力を吸い取るだけでは飽きたらず、その体までも魚達に捧げてしまったのだろう。
 非道な実験のために、魚だけでなく研究を共にしてきた者達まで犠牲にする。もはや正気とは呼べぬ所業に、瑞科の形の良い眉は悲痛げに寄せられる。
 その所業は、魔術師というより――
「魔女、と呼んだほうがよさそうですわね」
 女、もとい魔女はその呼び名に相応しい邪悪な笑みを浮かべた。
「呼び方なんてどうでもいいわ。私が興味あるのは、私のお魚ちゃん達だけ。完成まであと一歩なのよ。今のままでも十分愛らしいけど、あともうひと押し。――貴女の事を食べさせれば、私の研究は完成するわ!」
 魔女は両手を広げ、高らかに宣言する。楽しげな笑い声と共に告げられるのは、悪趣味な今宵のディナーのメニューだ。
「さぁ、お魚ちゃん達! 餌の時間よ! 今日のご飯は極上の獲物だわ! 髪の毛一つ残さず、食べちゃいなさい!」
 水しぶきがあがる。水槽から飛び出てきた無数の怪魚は、瑞科へと狙いを定め歓喜の声の代わりにけたたましい鳴き声をあげた。
 耳をつんざくその大声が、偽物の海へと響き渡る。それはさながら産声のようであり、命を弄ばれた彼らの悲鳴のようでもあった。