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<東京怪談ノベル(シングル)>


呑まれる

「オットセイって、脱皮するんです?」
「普通はしないだろうな。――お前のほうが詳しいんじゃないのか、そのへん」
 草間にそう返され、みなもは首を傾げた。
「聞いたことないです」
「じゃあしないんじゃないのか?」
 草間はそう言って腕組みし、細長く紫煙を吐き出した。
 目の前には、オットセイの皮がべろりと広げてある。調査の資料になるかもしれない、とのことで飼育員から借りてきたのだが、得体のしれなさばかりが募った。
 なでてみれば、不思議と柔らかい。見た目は重厚でどっしりと濡れた質感を伴っていたが、いざ手にしてみれば存外軽かった。皮はまるでシルクのようになめらかで、触れてみればほんのりと温かいようにも思える。
 まるでダウンみたい――それが、みなもの抱いた感想である。
「俺は少し離れる。その間いろいろ調べてみてくれ」
「調べるって……」
「似たようなケースが他にも起こってないかどうか知りたい。それじゃ」
 簡潔に用件だけ伝え、草間は部屋を出て行く。
「って言われたって……」
 ネットで検索してすぐに出てくるような話なら、草間の耳にも届いているだろう。かといって聞きこみは効率が悪すぎる。
 その時、部屋の隙間から風が吹き込んできた。みなもは思わず、自分の体をきゅっと抱きしめる。寒さに弱いわけではない。そもそも水中でこそ本領を発揮する自分が、寒さに極端に弱いはずもない。
 だが季節が生憎だった。病気が流行っており、加えて学期末のテストも山積みで疲れが溜まっている。
「……さむ……」
 空気の温度が、とたんにひどく低く思えた。近くにアザラシの水槽があるせいだろうか。制服だけで凌ぐには、少々厳しい物がある。
 その時、みなもの目に例の抜け殻が飛び込んできた。正真正銘の毛皮である上に、あの軽さとぬくもりである。暖を取るには申し分ない。
(少しだけなら……)
 みなもはオットセイの皮を手にとった。少し羽織るだけ、肩にちょっと借りるだけ。それなら草間さんに見られても、怒られることはないだろう。そう踏んだのだ。
 肩にかけてみると、思っていた以上に身体に馴染んだ。ちょうどすっぽりとみなもの背を覆い、寒さから守ってくれる。
「あったかい……」
 みなもは思わず口に出して目を細めた。皮の大きさは、まるでみなものためにしつらえられたかのようにぴったりと合っていた。
 みなもは傍にあった椅子に腰掛け、もう一度皮をかぶり直して縮こまった。
 その時、唐突にみなもの脳裏を誰かの声がよぎった。
『はい、赤だよ!』
 だが、声そのものは右から左へと抜けてゆく。代わりにみなもの記憶に、女性の右腕の動きが強烈に残った。
(『飛んできたものを取る』)
 そんな、理性を超えた命令が頭のなかへ入ってくる。
(……え?)
 みなもは驚いて額へ手をやった。思っていたのとは全く違う感触が得られ、みなもははっとする。見てみれば、自分の腕がオットセイのものへと変貌していた。
「嘘!」
 思わず叫んで、かぶっていた皮を脱ごうとする。だがそれは不気味に優しいぬくもりで、みなもを掴んで離さない。
「いや……! いやぁああ!」
 みなもはパニックになって、深い茶色の毛皮を必死に手で払い落とそうとした。だがその手すらすでに、オットセイの化物なのだ。
 太ももを、するりと生暖かい毛皮が滑ってゆく。少しの圧迫感を伴いながら、毛皮はみなもの膝裏を伝い、かかとをつつみ、足の甲を這い上がって膝頭を覆う。
「草間さん……! 助けて!」
 思わず名を呼んだと、みなもは思った。だが彼女の喉からこぼれたのは、オットセイの不気味な鳴き声ばかりだ。
 ついに、オットセイの皮はみなもの全身を覆い尽くした。強く抱きしめられるのに似た、少し息苦しいぎゅうぎゅうとした感覚が全身を包んでいる。それでいて生暖かく、こんなに危機的な状況なのに眠気がとろりとろりと脳を溶かす。
 この奇妙な安堵感はなんだろう、と、みなもはゾッとした。自分が窮地に立たされていることは、理論的に理解できる。だがどうしても、実感が伴わない。毛皮のぬくもりと柔らかさが、警鐘を無理やり止めてしまっていた。
 恐ろしく思わなくてはならないのは分かっている。己が己でなくなっていく、それが目に見えて分かっている。それなのに、受け入れてしまっている。母に包み込まれるようなぬくもり、それに全てを委ねてしまう自分がいる。
 サングラスをかけた男性の姿が、最後に脳裏をよぎった。
 探されるだろうか、心配されるだろうか。
(あたし、これ、脱がなきゃ……)
 このままではいけない、そうわかっているのに、手足が動かない。動かさないでいいと、脳裏に棲みついた怠惰が囁きかける。
(でも、脱いだら寒いし、シークインがミギテをあげたらハクシュカッサイ、ヒダリテを振ったらエッヘンエッヘン、草間さんはいつごろ戻ってきて、イワシは嫌い、アジは好き)
 オットセイの記憶のせいなのか、思考がまとまらない。そうしている間にも、みなもの持つ記憶が一つ一つ塗りつぶされてゆく。
 右手があがったらくるりとお辞儀。左手が素早く触れたら胸を張って。
 さぁみなさま、拍手喝采、はくしゅかっさい。
 草間さんに事情を説明して、助けてもらわないと。
 おさかなおいしいな。だけどイワシは嫌いなの。

 オゥ、と小さく鳴く声が、部屋に虚しく響いた。