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呑まれる・2
草間がそれに気がついたのは、僅かな違和感が起点だった。
タバコを咥えた草間の耳に、オットセイのパレードのアナウンスが届いた。
「……あ?」
草間は眉をしかめた。オットセイは奇病を患っていたはずではなかったのか。経過を見守りたいと、飼育員だって話していたじゃないか。
草間は急いでタバコをもみ消して、人混みをかき分けパレードの前列へ向かう。
「失礼――失礼、あけてください」
親子連れやカップルの間を縫うようにして前列へ出た草間の目の前に、それは現れた。
よたよたと、飼育員に導かれて歩いてくるオットセイ。その雰囲気に、奇妙な既視感を覚えた。
「……みなも?」
そんなはずはない、彼女は向こうの部屋で待機しているはずだ。
だがこの既視感を、ただの気のせいと打ち消すのは危うい。そう草間の経験が告げている。
みなもの安否を確認しようと、草間は携帯電話を鳴らした。――やはり、というべきか、嘆くべきか。応答はない。
「チッ」
草間は舌打ちした。ただの取り損ねと考えるのは、あまりに楽観的だ。この場を離れて、すぐにみなもの安否を確認するか。それとも、このオットセイを見定めるべきか――。
焦りは禁物だ。目の前の物事まで、曇らせてしまう。
草間は一度呼吸を落ち着けて、目の前のオットセイをまっすぐ見据えた。
オットセイはよたよたと、パレードの道を近づいてきた。距離はそう長くない。中央のステージまで、15メートルほどの行進だ。
だがその様子は、やはりどこかおかしかった。
僅かに左右をよく見過ぎている。まるで、なれない道を初めて歩くかのような不安定さ。多くの観衆に驚いて、少し怯えているような様子。――そんな気がしたのだ。
その不安に揺れる目が、一瞬、確かに草間を見た。
「――ォウ」
小さな鳴き声。気のせいか、空耳かと思ったところで問題のない程度の、小さな声だった。
だが草間の耳には、そうは聞こえなかった。
『助けて……助けて、草間さん……』
みなもが、呼んでいる。そう錯覚させるには十分な、悲痛な鳴き声だった。
「……いや、だが……」
草間は目を眇める。
確たる証拠がない、そもそもオットセイに、どうして人間が変化するというのだ。オットセイの脱皮と、何か関わりがあるのだろうか。
「待ってろ、みなも」
口の形でそう告げて、草間はみなもが待機していたはずの部屋へ向かった。
――――
気が付くと、あたしはステージの上で上手に手をあげていました。
我に返った、と言ったほうが良いかもしれません。今の今まで何かに夢中だったのは、なんとなく身体が覚えているんです。だけど何をしていたのかは、全く思い出せない。
すごく、変な感じでした。
それで、なんとかこれを脱ごうとしたんです。――そう、皮、オットセイのです。草間さんが出て行った後、寒くて寒くて、つい、かぶっちゃったんです。……ごめんなさい。油断してました。
――はい、そうです。ステージの上で、突然我に返って……。その前に、草間さんを見かけたような気もするんですけど、そこはあまり良く覚えていません。
それで、気がついてからずっとこれを脱ごうとしてるんですけど、「水」が普段と勝手が違ってうまくいかなくって……。
泳ぐのは、そんなに苦しくないです。慣れっこですし。だけどあたしだから平気、ってわけでもないみたいです。多分、オットセイの皮を被った人間はみんな、オットセイになっちゃうんじゃないでしょうか。
草間さん、あたし怖いんです。
この皮が、外見だけじゃなくて内面まで、あたしを呑み尽くしていくような気がして。だってあたし、さっきまで自分が何をしていたかまで覚えてられないんです。
あたし、このまま、消えちゃうんでしょうか。
姿も、中身も全部なくなって、気がついたらオットセイのみーちゃんに、なってるんでしょうか。
だって、変なんです、すごく。ハクシュカッサイをお願いして、みんなが手を叩いてくれると、アジがもらえるんです。エッヘンエッヘンをしたら、今度はイワシなんですよ。イワシは嫌いだって、シークインはわかってないんです。
あ、ピーが鳴った。ピーが聞こえたらね、上がらなきゃいけないんです。シャワーの時間ですから。他の子のあとにまわされちゃったら、ペッチペッチされちゃうんです。
さよならおきゃくさん。みぎてをあげて、バイバイ。
――――
草間はみなもとの会話を終えて、深い溜息をこぼした。
飼育員に話を通したが、一向に会話は成立しなかった。
「何をおっしゃってるんですか」
飼育員は半笑いで草間を見た。
「探偵さんはご存じないかもしれませんが、オットセイは脱皮しないんですよ。爬虫類じゃないんですから」
控室にいたはずの仲間が消えたと言っても、通用しなかった。
「警備員さんが、出て行った女の子を見たって言ってましたよ。きっとその海原さんじゃないんですか?」
「人間がオットセイになるなんて、そんなのSFじゃないかぎりありえませんよ」
「探偵さん、事件が解決できないからって、オカルトのせいにしちゃダメじゃないですか」
そう言って、くつくつ笑う飼育員たちの目は、どこか虚ろで奇妙だった。
こうなるともうダメであることを、草間は知っている。
人智を超えた何かが働いたのだろう。そうなると、超常を信じない連中たちはあざ笑って相手にしない。原因を感知することの出来ない人間に現状を理解しろと言っても、到底無理な話だった。
草間は黙って一礼し、彼らの元を去り、オットセイのいるコーナーへ向かう。
ショーを終えたみなもが、戻ってきていた。
草間はドン、とガラスの壁を叩いた。
「くそっ、どうすりゃいい」
みなもは何も言わず、ガラスの向こうで上手にくるりと回ったみなもが、心配そうにこちらを見つめてくる。
その目が人間の彼女なのか、オットセイの彼女なのか、草間には判別が難かった。
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