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<東京怪談ノベル(シングル)>


呑まれる・3

「あぁ、これですか」
 その青年は、困ったようにオットセイを眺めた。そして、手元にした銀色の奇妙な円盤に向かって語りかける。
「MP-2900、製造番号34cdz980fd31、エラーによる暴走を確認しました。……通りで、遠隔オペレーションがうまく行かないわけです」
 一見すると小さな灰皿のように見えるその端末は、ぴかぴかと橙の光を灯して青年の言葉に応えた。
「『中身』の確認は、今のところできていません。が、様子から察するに、我が社の商品にだいぶ「なじんで」しまっているようです」
 青年は時刻を確認する。そろそろ水族館が閉館する頃だ。
「はい。こちらで「待機」し、「衣装替え」させます。遠隔操作がうまく行かなかった以上、多少強硬ではありますが、二着目を着せても致し方ないかと……」
 こちらからは以上です、といって、青年は通信を締めくくった。
 その青年の方を、ぽん、と一人の男が叩く。
「よう」
 男は軽い口調で話しかけた。
「そのオットセイが、どうかしたか?」
「あ、いえ……」
 青年はとっさに人のよい笑みを浮かべて答える。
「この前まで病気だったのに、ずいぶん元気になったんだなと思って……」
「へぇ」
 男は目をすがめた。
「よく覚えてるな? ここの飼育員ですら、それ忘れてたってのによ」
「そうなんですか? じゃあ僕の気のせいかな……小さい頃からよく見に来てるんで、ちょっと、気にかかっただけなんです」
 それじゃあ、と、青年は逃げ腰になる。
 だがその肩を、男はつかんで離さない。
「おい」
 低く、ドスの利いた声で、男は言った。
「お前の知ってること、洗いざらい全部吐きな。さもないと、その顔の形が変わるまで殴り飛ばすぞ」
 青年はひきつった笑みで、男を見返した。

「ーーつまり、お前の『商品』とやらが暴走した結果が、アレか」
 水族館裏の控え室で、草間はその青年をつくづくと眺めていた。
 ナノマシン、生物擬態。常人に理解できる範疇の話ではなかったが、職業柄その手の話はすっかり耳になじんでしまっている。そのため順応も早い。
「で、元に戻すには何が必要なんだ」
 淡々と尋ねる草間を不思議に思ったのか、青年は少し目を丸くした。
「ふつうはみなさん、ふざけるなだとか信じられないだとか。この手の話をすると、結構攻撃的になるんですがね」
「他の人間はどうだっていい。方法はあるのか、ないのか」
 青年はひょいと肩を竦めた。
「ありますよ、一応。もう一度服を着せればいいんです。重ね着の要領ですね」
「重ね着……?」
「あのオットセイの姿自体が、皮……というか、服を着た状態での姿なんです。まぁ、彼女が自力でアレを脱げれば、まぁさして問題はないんですが」
 あの中身は何なんですかね、と、青年は少し首を傾げた。
「だいたいの生物相手なら、エラーが発生してそのうち脱げ落ちる要になってるはずなんですが」
「あの子は、ちょっと特殊なんだよ」
 短く応じて、草間はたばこを口にする。
「それで?」
「必要なのは、あの皮の中身の人間の一部です。髪でも爪でも、何だって構いませんよ。それさえあれば、今度は彼女の『服』を作ることができる。それを着せれば、元に戻るはずです」
 もっとも、と青年は付け加えた。
「こんなケースそうそう起こるものじゃないので、前例がほとんどありません。まぁいちかばちか、ですね」
 やります? と尋ねられ、草間は愚問だと笑い飛ばした。
「髪だな? そのままそこで待ってろ」
 そして、控え室を後にした。

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 みなもがはっと我に返ると、ガラスの中だった。
「え、どうしてこんな……」
 あたしなんでここにいるんだっけ。ところどころ覚えてるんだけど。
 思考を回し、彼女はようやく、自分がオットセイの皮をかぶったところまで思い出した。幸い水中での動きには慣れている。だがオットセイの身体の、動きにくいこと。
「あぁもう、あれもこれも……」
 バランスの取りづらい腕、太い胴体、すべてがうっとおしい。
 そのとき、みなもは自分の名前を呼ばれたのを感じた。
 はっと水中から顔を上げてみると、困惑顔の飼育員と、草間がこちらを見下ろしている。
「みなもだな?」
 尋ねられて、首をこくこく縦に振った。
 慣れない身体でやっとの思いで陸に上がる。草間と、見慣れない男がそれを手伝った。
「遠隔操作で話しかけたんですが、僕のことわかります?」
 尋ねられ、みなもは首を振る。だが、そういわれてみれば、直前まで誰かが必死に話しかけてきていたような覚えはあった。
 それのおかげで、妙に意識がクリアなのかもしれない。
「みなも、お前の髪が必要だ。ブラシかなにか、持ち歩いてないか」
 心当たりがなかった。みなもは小さく首を振る。
 家に帰ればあるかもしれないが、果たしてうまく見つけてくれるだろうか。何より、家の鍵の場所を指示することすら困難だ。
「控え室を調べて、一応毛髪は見つけたんですがね……」
 青年が透明なビニール袋を掲げてみせる。
「それは使えないのか?」
 草間に問われ、青年は首を振った。
「拒絶反応が起きた場合のことを考えると、本人の同意なしには使用が許可できません」
 構いませんか? と青年に問われ、みなもは藁にもすがる思いで首を振った。
「あたしを、助けてください」
 声はオットセイのまま、彼らには届かない。
 だが思いはわかってもらえたらしい。
「では」
 青年はそういって、薄っぺらい肌色の布を取り出した。

 それがさらなる悲劇を呼ぶことになるとは、まだ誰も、知らない。