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<東京怪談ノベル(シングル)>


鮮血の波に抗う魂(後編)


「あたしを、あげる……全部あげる……あたしの血も、あたしの命も、ヴィル兄さまのもの……」
「ヴィル兄ちゃん、ぼくの血をあげるよ……いのちを、あげるよ……」
 口々に献身の言葉を漏らす子供たちから、ひたすら逃げ回っているうちに、ヴィルヘルム・ハスロは寝室の窓にぶつかった。
 引きつり狼狽する自分の顔が、窓ガラスに映し出される。
 窓の向こうの夜闇から、もう1人の自分がこちらを見つめている。そんな事を、ヴィルは思った。
 もう1人のヴィルヘルム・ハスロが、闇の中から言葉をかけてくる。
「ヴィル……私は父でありながら、お前に何も道を示してやれなかった……」
 陰鬱なその表情が、ニヤリと歪んだ。
「……だから、私が道を示してやろう」
 絶叫が、喉の奥から、身体の奥から、迸る。
 血を吐くような叫びを発しながらヴィルは、窓ガラスに右拳を叩き込んでいた。
 陰惨に微笑む、もう1人の自分を、叩き割っていた。
 ガラスの破片と鮮血の飛沫が、大量に飛び散った。
 砕け散ったはずの、もう1人の自分が、しかしヴィルの心の中でなおも笑う。
「躊躇うな、我が子よ……見るがいい。弱き者どもが、お前に血と命を捧げようとしているのだぞ」
 その言葉通り、と言うべきか。子供たちが、ヴィルを気遣っている。
「ヴィル兄さま……血が、いっぱい出てる……」
「とっても痛そう……かわいそう……」
「たいへんだ……ヴィル兄ちゃんの血が、なくなっちゃうよぉ……」
「おいらの血を、あげるよ……」
「ボクの血を……」
「あたしの……」
 両眼をキラキラと妖しく発光させながら、子供たちがヴィルを取り囲む。
 瑞々しい血流の音と、健やかな心臓の鼓動が、あらゆる方向から押し寄せて来る。
「やめろ……!」
 呻く口の中で、ヴィルの舌が牙に触れる。
「喰らい尽くせ、我が子よ……お前は強き者だ」
 もう1人の自分が笑いながら、同じように牙を剥いている。ヴィルの、心の中で。
「弱き者どもの血を啜り、己の命とせよ。それが、強き者として生きる道よ」
「黙れ……!」
 牙を食いしばり、ヴィルは命じた。目に見えぬ相手にだ。
「僕は、お前じゃない……ヴィルヘルム・ハスロだ! 僕じゃない奴が、僕の中で物を喋るな!」
「拒んでは駄目よ。耳を傾けなさい、その言葉に」
 子供たちの背後で、シスターは言った。
 年齢の読めぬ美貌が、涙に濡れながらニコリとねじ曲がる。
「貴方にとっては、父上にも等しい方の御言葉なのよ? ヴィル」
「黙れよシスター……僕の父さんは、この世でただ1人だけだ……!」
「そう……あの子も、死んでしまったわね……」
 シスターの涙は本物だ。この女性は今、本当に悲しくて泣いている。
 泣きながら、優しく微笑んでいる。
「みんなが、私を残して去ってしまう……だけどねヴィル、貴方はずっと私の傍に、私はずっと貴方の傍に……永遠に、ずっと……」
 涙も、笑顔も、これほどおぞましいものだという事を、ヴィルは初めて知った。
「そのためにも、さあ……この子たちの思いに、応えてあげなさい」
 涙に沈んだシスターの瞳が、夜闇の中、燐光を思わせる光を発している。
 同じ光を両眼に湛えながら、子供たちがヴィルに迫る。頼れる兄に、父に、甘えてゆくかのように。
「ヴィル兄さまぁ……あたしを、あげるぅ……」
「俺を……あげるよ、ヴィル兄貴……」
「わーい、僕……ヴィル兄ちゃんに、食べてもらえるぅ……」
 柔らかな肉、甘美な血。
 子供たちをそんなふうにしか認識出来なくなりつつあるヴィルに、シスターが微笑みかけ語りかける。
「食べてあげなさい、ヴィル。子供たちを引き裂いて、溢れ出す血を……浴びながら、飲みなさい。そうすれば貴方は、もう人間には戻れなくなる。神に見放され、永遠の闇に生きる道を……私と共に、歩み続けるのよ」
「闇……か……」
 己が砕いた窓の枠から、ヴィルは大きめのガラス片を抜き取った。ナイフほどの大きさだ。
「僕に、明るいまっとうな生き方が出来るなんて……思っちゃいない……永遠の、闇……あんたに言われるまでもない。僕の生きる道なんて、元々そうさ……」
「そうよヴィル。貴方は闇に生き、闇に君臨するの。あの方のように……」
「僕は、あの方とやらじゃない! ヴィルヘルム・ハスロだ!」
 甘えてくる子供たちを蹴散らす形に、ヴィルは駆けた。ナイフのようなガラス片を、本物のナイフのように構えながら。
 かつてブカレストの裏通りで、一切れのパンを奪うために人を刺した。あれと同じ事を、するだけだ。
「シスター、あんたには恩がある。だけど、あんたの願いを叶えてやるわけにはいかない!」
 シスターの柔らかな胸に、鋭利なガラス片がズブリと埋まった。突き刺し、抉った感触を、ヴィルは傷だらけの右手で握りしめた。
「何度でも言う……僕は、ヴィルヘルム・ハスロだ……」
 凶器をシスターの胸に残したまま、ヴィルは尻餅をついた。
 声が震える。身体が震える。人を殺すのは、初めてではないのだが。
「あんたの大切な……あの方、なんかじゃない……」
 殺してしまったのか。自分を拾い、衣食住の世話をしてくれた女性を。
「僕は……恩知らずの、人殺しだ……」
 後方によろめくシスターを、ヴィルは呆然と見つめた。そして語りかけた。
「永遠の闇を、生きる道……僕は、1人で歩いて1人で野垂れ死ぬ……ヴィルヘルム・ハスロとして……」
「……立派よ、ヴィル。まるで、あの方のよう……」
 絶命したはずのシスターが、言葉を発した。
 その胸から、ナイフのようなガラス片が、抜け落ちながらキラキラと砕け散った。
「私はね、あの方の血をいただいたのよ……こんなもので、私の命を奪う事は出来ない……」
「命なんてもの……あんた元々、持ってないだろう……」
 ヴィルは立ち上がった。
 砕けた窓から、月光が射し込んで来る。
 満月だった。
 夜空に浮かぶ真円が、妖しくも清かな光を煌々と降らせてくる。
 その輝きを全身に浴びながら、ヴィルは言い放った。
「シスター……あんたは、もう死んでる。僕を拾ってくれた時、いやそのずっと前から、生きちゃいなかったんだ。死体が、何かにすがりついて立ってるだけなんだよ! もう絶対に戻って来ない、失われた何かに!」
 ズタズタに傷ついた右手から、鮮血が吹き出した。
 血飛沫が燃え上がっている。ヴィルは、そう感じた。
「あんたを、ここで終わらせる!」
 炎のように血を噴く右手を、ヴィルは思いきり振り上げた。
 鮮血が、赤い刃の如く一閃した。
 シスターの細い身体が、斜めに裂けた。
 血は出ない。何も、出て来ない。噴き上がる血は、ヴィルのものだけだ。
「そう……私を殺せるのは、あの方の血だけ……」
 鮮血の刃に叩き斬られたシスターの姿が、斜めに両断されたまま薄れ、消えてゆく。まるで最初から幻影であったかのように。
「いくら拒んでも、無駄よヴィル……あの方の血が……貴方の身体には、流れているのだから……」
 子供たちが、糸の切れた人形の如く倒れてゆく。
 その光景の中で、シスターは消えてゆく。最後の言葉と共に。
「ねえ、わかっているのヴィル……人のまま、永遠の闇の道を行く……それは、とても辛い事なのよ……」


 あの子供たちは全員、無償で自分たちの面倒を見てくれていた女性を、失ってしまった事になる。
 責任など自分は感じていない、とヴィルは思う。ただ、背負ってしまっただけだ。
 だから、決して豊かとは言えないこの国で、最も金を稼げる仕事を選んだのだ。
「軍の作戦に多大な貢献をした……という名目で、我々は君をそれなりの待遇で迎え入れる事が出来る。名目と言うか、我が軍の標的であった怪物を君が単身で仕留めてしまったのは事実だからな」
 ヴィルの父親に兄を殺されたルーマニア軍人が、言った。
「……だが、良いのかね? 本当に」
「僕は、強くならなきゃいけない……」
 この国は、まだ平和とは程遠い。前大統領派の武装勢力も、各地で身を潜めている。
 戦場で実績を作る機会もあれば、非合法的な任務を拝領する機会もあるだろう。
 とにかく、金が必要なのだ。
 シスターを失った子供たちに、必要最低限の暮らしをさせてやれるだけの金が。
 人助けではない。自分が勝手に背負ってしまっただけだ。
「あの子供たちに関しては……私も、できる限りの事はするが」
「あいつらのためじゃない。僕が、選んだ道だ」
 言いつつ、ヴィルは敬礼をした。自分は、これから軍人になるのだ。
「……いえ、私が選んだ道であります。私自身が、ヴィルヘルム・ハスロとして」