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■ 一難去ってまた一難? ■
疲れた…。
といっても肉体的な話ではない。もし肉体的疲労があるとすれば外出に伴う移動程度のものだ。そんな事よりも全身を襲うこの禍々しい倦怠感。それは精神的疲労によるものであった。その原因については思い出すだけで臍を噛み千切りたい気分(若干の誇張あり)になるので敢えて振り返ったりなどはしないが。
とっぷり日が暮れた真夜中。ティレイラは疲れた足を引きずるようにしてその路地に入った。立ち並ぶ高層ビルの群、イルミネーションに彩られ深夜であっても活気のある不夜城都市、その大通りから一本道を入ったところに鬱蒼と木々の生い茂った庭に囲まれた洋館がある。
ティレイラの師であり姉のような存在でもあるシリューナが営む、魔法薬屋だ。
精神的疲労の原因となった一件で随分と長期に渡り閉店状態にしてしまっていたが…この店を必要とする客にしか見つける事の出来ない店故に、それほどの影響はないだろう。それに、諸悪の根元たる“姫様”の別宅のあった空間とこの東京では時間の進み方が少し違っているようで――もちろん意識を失っている時間の数え間違いをしていなければの話だ――、留守にしていたのは数週間程度のようである。それでも意識があった時間を考えると体感的には長い方なのだが。
門の脇にある郵便受けを確認していたティレイラより先に店内に入ったシリューナが灯りを点けた。
エントランスの先に大きなテーブルカウンターがあって、その奥の棚には売り物である魔法道具や魔法薬の小瓶が並ぶ。埃などは被っておらず、出かけた時のままだ。シリューナがそれらを取り上げて一つ一つ確認しながらティレイラに声をかけた。
「今日はもう遅いし、ここに泊まりましょう」
「はい。では、私はお風呂の用意をしてきますね!」
手紙を壁にかけられたメールホルダーに仕分けしながらティレイラが疲れを吹き飛ばすように言った。
「ええ。沸いたら先にお入りなさい」
「え? でも、お姉さまの方がお疲れでは…」
精神的疲労を被ったのは何もティレイラだけではない。しかしシリューナは笑みをこぼして促した。
「私はここを見てからでいいわ」
「わかりました」
疲れているのはお互い様で、無駄に譲り合っても疲労感が増すばかりとティレイラは素直に頷き奥の浴室へ向かう。
湯を沸かしている間に自分とシリューナの分の着替えを用意しベッドメイクをした。程なく湯が沸くとティレイラは大好きなアロマのエッセンシャルオイルを数滴垂らして疲れを癒すようにゆっくりと湯船に浸かる。
心も体も安らいで気持ちよく風呂を出るとバスタオルを巻いて夜着を着るのもそこそこにシリューナを呼びに店の方に顔を出した。早くシリューナにも休んでもらいたいからだ。
「お姉さま、お風呂空きました」
「ああ、ありがとう。いただくわ」
シリューナは持っていた魔法道具を棚に戻して浴室へ向かった。
服は脱衣所に置いてあるので、ティレイラも後に続こうとした、その時だ。何かの音を聞いたような気がしてティレイラは足を止めた。
シリューナを見送り、音の方へ耳をそばだてる。
音は工房の奥からしているようだ。この魔法薬(道具)屋には小売り・商談スペースの他に居住スペースと工房兼倉庫を備えている。
ティレイラは湯上がりのタオルを巻いたままの姿でそちらへ足を進めた。どうやら音は倉庫の奥から聞こえてくるようだ。
ティレイラは倉庫の扉を開き、脇にあるスイッチに目をやったが敢えて点けることはせず中へと目を凝らす。外の月明かりがかろうじて照らす庫内に徐々に目が慣れてくる。高い天井の上まで届く棚の合間から見える影。
そこには魔法道具を物色している女の姿があった。先の尖った耳とショートパンツの上からはみ出した先の尖った尻尾よりも、頭上から飛び出す山羊に似た2本のうねる角と、首に巻き付く羊に似た2本の曲がった角の方が印象的な女である。年の頃はティレイラと変わらないくらいか。とはいえ見た目で判別出来るものでもあるまい、魔族の娘であった。
ティレイラは既視感を覚えた。前にも一度こんな光景を目にした事がある。確か、シリューナに連れられて行った美術館で…。
すらりとしたボディラインを浮き立たせるレザースーツを身に纏い、その豊満な胸の谷間に、選定した魔法道具やオブジェを放り込んでいる。
どう考えても体積的に考えてあの胸の間にポンポン収まるとは思えない品々に一時呆けていたティレイラはハッと我に返った。
「泥棒!!」
叫びながら魔族の娘に突進する。撃退すべく手近な魔法道具を手に取ろうとするが、ティレイラの声に驚いた娘はそれよりわずかに早く駆けだしていた。ティレイラに向けてだ。
「そこをどきなさい!」
魔族がティレイラを押し退け、倉庫の扉から廊下に出ようとする。
逃げようとする娘の尻尾をティレイラは転がりながらも反射的に掴んで逃がすまいと試みた。
暴れる娘に倉庫の棚にあったいくつもの魔法道具が大きな音を立てて落ちた。床の上で弾むものもあれば、ガラスのような素材で出来たものは割れ、砕ける。
その度に派手な音が倉庫内に響きわたった。
「なんて事するのよ!」
ティレイラは尻尾を引き寄せて娘の腰に飛びつこうとしたが、娘が更に棚の上の魔法道具を投げつける素振りを見せたので、咄嗟に身構え飛びつくタイミングを遅らせると、その隙をつくように娘は流れるような動きで回し蹴りをしかけてきた。
ティレイラが手を離し蹴りを避けるように後退する。
風圧でティレイラが巻いていたバスタオルが床に落ちた。
扉から逃げられると思ったティレイラだったが、娘は意外にも再びティレイラに突っ込んできた。追いかけようと前傾姿勢になっていたティレイラはふいをつかれたように目を見開く。
娘がティレイラの脇を駆け抜けた。
その時だ。
「待って!!」
そう叫んだのはティレイラではない。
「!?」
背後から聞こえた声にティレイラが振り返ると別の魔族の少女が棚の向こうから飛び出してきた。
まさか泥棒が複数いるとは思っていなかったティレイラがうっかりそちらを振り返っている間に、ガラスが割れる音がして魔族の娘が外へ逃げてしまう。
ティレイラは、逃げ去る娘の背と、もう1人の少女を交互に見やった。
少女が手近にあった魔法道具を握って、窓辺に立つティレイラを睨みつけている。少女もこの窓から逃亡しようというのだろう。
二兎追う者は一兎も得ず。
娘を諦めティレイラは少女に向き直った。2人が仲間なら1人を確保すればなんとかなるだろう。
「動かないで!」
少女は手にした魔法道具に封じられている魔法を発動し、それをティレイラへ投げつけようとした。動いたら投げるわよと言わんばかりの顔だが、すでに発動させているところをみると投げる気満々なのだろう。
一方ティレイラは絶対に逃がすまいと意気込んでおり、そんな言葉に止まる理由もなかった。やるならやってみろとなかりに少女にタックルをしかける。
「とぉりゃぁーっ!!」
「キャーッ!」
少女の悲鳴。投げられるはずだった魔法道具が2人の足下へと転がった。
刹那、強い光に視界が覆われる。
目眩ましに、ようやく目が慣れると2人は水晶の壁に閉じこめられていた。四方を覆う水晶の壁に2人は慌てふためく。
「どうにかしなさいよ!」
怒鳴ったのは魔族の少女だ。
「あなたが発動したんでしょ!」
ティレイラも負けじと言い返す。
「どうやったら解けるのよ!」
「知るわけないじゃない!」
ティレイラは胸を張った。
「この倉庫の主じゃないの!?」
ヒステリックに声を裏返らせて少女がティレイラの肩を掴むとくってかかる。
「違うわよ。ここはお姉さまの倉庫だもの」
「なら、そのお姉さまとやらに…」
「今は、入浴中」
「この役立たず!!」
言い捨てるようにして少女はなんとか逃がれる方法を探した。
「何ですって!?」
ティレイラは逃すまいと動く。
そうこうしている内に、魔法道具の効力かベールのような薄い膜が2人の上にふわりと落ちてきた。
「え?」
その膜が水晶と知れる頃にはそれは全身に張り付いていた。
いや、張り付いただけではなく体に染み込んでいくではないか。
「ちょっ!? 何よ、これ!?」
染み込んだ足先からゆっくりとクリスタル化しはじめる体に慌てふためく魔族の少女の隣でティレイラは大きくため息を吐いた。その顔は諦念に満ちている。
確実に泥棒の1人は確保出来たし、もういいか、という気分だった。
それに、風呂上りの火照った素肌を覆うひんやりしたベール状の水晶が心地良くて…抗い難かった、というのもある。
風呂からあがったシリューナが自分に気づいて何とかしてくれるだろう。
半ば投げやりな気持ちでティレイラはクリスタル化を受け入れていたのであった。
▽▽▽
「ふぅ〜…」
シリューナは湯船に浸かってようやく一息吐いた。姫の別邸では全くもってはめられたとしみじみ思う。我ながら迂闊ではあった。しかし、それなりに収穫がなかったわけでもない。不可視の盾。それと同じ理屈で出来た魔鉱石(原石)をお土産に貰ったからだ。磨き方次第で“あれ”を再現出来るかもしれない…だけではない。あんな事や、こんな事も出来るのだ。
想像するだけでうっとりしてしまう。時間なんていくらあっても足りないぐらいだ。
だから姫の別邸から直接ここへ足を運んだのである。ここの工房を使うために。明日になったら早速…と考えるだけで胸躍った。どんな風に仕上げようか考えるだけで夜も眠れそうにない。
お湯を両手ですくい上げ、その水面に反射する光を見つめながらシリューナは頬が緩むのを止められなかった。期待感に昂揚せずにはおれないのだ。
そんな時だ。大きな音が響いてきたのは。
何事かと顔をあげる。ドタバタとした騒音に甲高い悲鳴のようなものが入り交じっていた。
「ティレ?」
怪訝に首を傾げつつシリューナは浴槽を出た。
しばらく続いていた騒音はガラスの割れるような大きな音の後、ピタリと止む。
訝しみつつシリューナはバスローブを纏ってベルトを軽く結ぶと、静まりかえった廊下に出た。
音がしていた方を目指す。
奥にある工房兼倉庫の扉が開かれているのを見つけて、シリューナは中を覗いてみた。
暗い室内にぼんやりと倒れた棚の影と共に2つの人影が見て取れる。
シリューナは扉の脇にあるスイッチを入れた。倉庫が明るくなる。
「まぁ!」
思わず漏れる感嘆の声。そこには果たしてクリスタルの像が2体並んでいた。
見えない壁を押し退けるように両手を掲げ、上空へ逃げようというのかコウモリのような黒い羽を広げ惑う魔族の少女。
それから何かにもたれかかるように座り頬杖をついて天を仰ぐティレイラ。
「これは…」
どうやら魔法道具<水晶の檻>が使われたようだ。使ったのはたぶん、少女の方だろう。ティレイラが使ったのであれば一緒にこうなってはいないからだ。
水晶の檻は二段階に作用する。最初は壁を作って対象を捉えるだけだ。慌てふためく2人の姿が容易に脳裏に浮かんだ。さぞや、互いに文句を言い合った事だろう。
程なく少女は頭上に気づいて四方を囲むだけの壁に上から逃げるという手段を講じようとしたに違いあるまい。羽を広げた魔族の少女に、とりあえずティレイラは逃すまいとして手近にあった縄をその足に巻き付けた、といったところか。
だが、そんな必要もなく少女が上から逃げようとした時点でクリスタルの檻は次のステップが作動していた。逃げようとする者を確実に捕らえるためのクリスタル化――。
しかし果たしてこの魔族の少女は何者なのか。その答えもすぐに検討がついた。
棚の上にあったはずのものは床に散らばりいくつかは壊れ、明らかに争ったような形跡がある。そしてあるはずのものがいくつか姿を消していた。更に割れた窓ガラスときては想像に難くない。
「なるほど、そういうことね」
シリューナは小さく肩を竦めた。
恐らくこの魔族の少女は最近巷を騒がせている窃盗団の1人といったところだろう。
以前、美術館で捕まえた少女とは別人のようだが、あの時も小男との2人組みだったし他にも仲間がいて不思議はない。
美術館で捕らえた2人からアジトは判明しなかったという事か、あの時さんざん魔族の少女の像を楽しみはしたが、館長に引き渡して後の詳細は聞いてはいなかった。彼女らの盗品にも興味はあったし、だから館長の頼みを聞いて盗賊捕獲に手も貸したわけだが、その盗品が持ち主に返されてしまってはどうにもならないのも事実である。だから連絡待ちに徹し、とりたててこちらからは確認をしていなかったのだ。
他の美術館は既に襲撃し尽くしたか、シリューナとティレイラが長期不在である事を知って盗みに入ったのだろう。
もちろん、美術館での事件とこちらは全くの無関係という事も十分にあり得る話ではあるのだが。
「ここに入るなんて、いい度胸と言うべきか、いい趣味と言うべきか」
シリューナはクスリと笑む。
まさか今日戻ってくるとは思わていなかったに違いあるまい。いや、むしろ今日であったのは“姫”の仕業か。この日を選んでシリューナらを解放したのだとしたら侮れない。彼女が何を考えているのかは全くもって検討もつかないが…いずれにせよ、この魔族の少女は運がなかったと言わざるを得まい。
しかし、この館に盗賊が忍び込んでいたことに気づかなかったのは、シリューナとしては我ながら迂闊の二文字に尽きた。姫のお土産に気を取られまくっていた事と、そのお土産が放つ強烈な魔力が盗賊の気配をかき消してしまっていた事がその要因の大半を占めるのだろうが、それにしても、だ。オブジェ化で感度が落ちているのだろうか。だとしたらよくない傾向である。
それとも…不在を狙っている時点で考えにくいが…盗賊たちには何か気配を完全に消し去る技でもあるのか。
「……」
その辺は後でこの少女に聞けばいい。それよりも。
シリューナは両腕を組みクリスタルの2つの像に改めて見入った。
天井から降る柔らかな白色灯を水晶がキラキラと跳ね返し淡い光を放って麗しい2つの肢体を浮かび上がらせている。
今にも泣きそうな顔で助けを請う魔族の少女の悲壮感溢れる顔も愛らしい。体にフィットした服の上からもわかる双丘とそこから腰へと伸びる美しいフォルムに惚れ惚れした。何より、硬質なクリスタルで出来ているはずなのにショートパンツから伸びる足に巻き付いた縄が絶妙に食い込んでいて、硬いはずなのに柔らかく押せば戻ってきそうなほどのはりと弾力があるように見えるから不思議だ。
一方ティレイラの方も湯上がりのまま泥棒と交戦したのだろう、生まれたままの姿を惜しげもなくさらしてクリスタル化している。
第二段階に突入した時点で観念したのだろうその表情は、ちょっぴり残念な気がしないでもないが、それはそれで哀愁を漂わせていて悪くない気もした。
いやむしろ、泥棒捕まえて上出来なうえにさらにその姿も堪能させてくれるとは、さすがは我が弟子と褒め称えたい気分である。
2人の眼福な姿に胸を高鳴らせながらシリューナはティレイラの像に頬寄せた。体温を奪う冷たくも滑らかなクリスタルの感触が火照ったそれに何とも心地よく広がるのに、シリューナはバスローブの前を解くと全身でその心地よさを味わう事にした。
頬杖をつき魔族の少女を見上げるティレイラを腕の中に抱き寄せて囁きかける。
「ご褒美をあげなくてはね。何がいいかしら?」
答えはもちろん返ってこないし、それを期待もしていない。原石磨きは後でも出来る。久しく鑑賞される側にたっていたのだ。まずはこの美しい2体のオブジェを存分に心行くまで鑑賞するとしよう。
▽▽▽
尚。
ティレイラが捕らえたのは1人だけで、もう1人には逃げられ魔法道具やオブジェのいくつかはまんまと盗まれていた事が判明した後、ティレイラにどんなご褒美があったのかは……推してしるべし。
■■大団円?■■
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