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<東京怪談ノベル(シングル)>


雨宿り

 小雨の続く東京。
 クラクションの響く歓楽街。表通りの光、裏通りの影。
 その狭間に響く銃声を知る者は、ごくまれだろう。
 水たまりが、軽いステップにはじけ水滴を飛ばす。一瞬の間を置いてそこへ落ちるのは、野良犬のミイラだ。
 車のライトが一瞬だけ、人影を映し出した。まだわずかに幼さの残る青年だが、その目は険しく敵を見据える。
 曲がりくねった裏路地から、また一匹のミイラ犬が飛び出してくる。青年は正確に狙いを定め、引き金を引いた。
 命を司る心臓、視界を司る目玉を撃っても、この手のアンデッドには意味がない。まずは無力化のために爪……足を狙い、続いて牙を折るべく鼻面に狙いを定める。
 自分の身体がくずれるのも構わずに飛びかかるそれに、青年は目をすがめた。
「……すまない」
 30センチほど後方へ、テレポートを行う。犬のあぎとは、ガチンと空を噛んだ。
 そこを銃身で殴り飛ばす。犬の骨が砕けるのが分かった。元々乾燥し切って脆くなっていたのだろう。鉄で殴られれば、ひとたまりもない。
 倒れて動かなくなった犬に、赤の首輪がつけられているのを見て青年は唇を噛んだ。
「ひどいな……」
 どこかから連れ去られ、盾、あるいは矛としてミイラにされてしまったのか。
 哀れな犬の存在は、一方では吉報でもあった。敵意を持つ攻撃者、あるいは守護者がいるのなら、その先にあるのは誰かの秘め事だ。
「近づいては、いるんだろうな」
 青年は濡れた手の甲で顎を拭い、拳銃をホルダーに仕舞う。
 そして、犬のためにしばし合掌し、街の闇へ姿を消した。

――――

 まだ小学生だった頃。
 同い年の子どもが主人公の物語を読んで、大人は私たちの事を何も分かっていない、なんて思ったのを、ふと思い出した。
 ぽつり、と、雨が落ちる。
「わ……」
 天気予報も見ずに飛び出してきた。雨だと知っていれば、せめて傘ぐらい持って出たのに。
「ちょっともう、何なの……」
 スマホをいじってSNSを起動させる。
 現在地の写真を添えて、簡単な文章を投稿。
『今夜 泊まれるとこ 探してまーす』
 軽率かもしれない。ふと危険への意識が頭をよぎる。だが親への怒りが勝った。
 自分がひどい目にあえば、それだけでいいあてつけになるだろう。
――悪いのはあっちなんだから。
 いつものくせで、自分を正当化する。少しはこっちも悪かったことはわかっているのだ。だが、認められるほどできた人間ではない。
『雨降ってきた〜〜』
 弱音を隠すように、そんな投稿をする。すぐに幾つかの慰めのコメントが飛んでくる。
 雨脚は強くなる一方で、しかし雨宿りできる場所は見つからない。
「……画面越しじゃ助けにならないのよ」
 ポツンと呟いた彼女に、ふと、傘が差し向けられた。
「え?」
 立っていたのは優しげに微笑む女性だった。
「傘、よかったらいかが?」
「……あの」
「お困りでしょ?」
 そういって優しく微笑む彼女に、敵意は見いだせなかった。
 信用していいのだろうか。
 見たところふつうの女性、それもどちらかと言えば品の良さそうな婦人である。
「放っておけなくて」
 こちらの警戒心を見抜いたのか、彼女はまた微笑みかけた。
「ただの、おばさんの……そうね、老婆心かしら」
 信用ならないのなら来なくてもいい、と、彼女は言った。
「勝手なお節介だもの」
 それで、彼女の手を取ることに決めたのだ。
「ママと、喧嘩してるの」
 ばつが悪くて思わず目を背けると、婦人はくすくすと笑った。
「そのぐらいの年頃にはよくあることよ」
 さぁ、いらっしゃい、と。
 その手を疑うことはできなかった。

 単純なことを、少女は理解していなかった。
 世界を動かすルールを、すべて自分が知っているわけではない。
 自分の思わぬところで、予想すらできないような動機を持って、人は動く。
 それに気がつけるのは、災厄が己に降りかかってきたときだけなのだと。

 やがて日が陰り、あたりは薄暗くなる。
 たどり着いた先は、少し寂れた洋館だった。だがその古びた姿は欠点とはならず、かえってレトロでシックな雰囲気を醸し出している。
「少し、悲しいところなの」
 女性は気恥ずかしそうに言った。
「だから、家出の助けにでもなれればね、それだけで嬉しいのよ」
 ガスランプに灯がともり、暗い廊下を浮かび上がらせた。赤い絨毯が、やや黒く変色している。壁は煤けていて、黒い。
 それでも不思議と恐怖は覚えなかった。どこか懐かしさすら感じる、そんな気がしたのだ。
「ところで、お嬢さん。あなた彼氏さんとか、いらっしゃるのかしら?」
 不意に、婦人はそう尋ねた。
「いえ……、てか、いたら頼ってます」
「そうよね」
 くすり、と、みたび婦人は笑った。
 その笑みに、ゾッとする凄みが乗った。
 ようやく少女は、己の思い違いに気が付く。だがもう遅い。
「息子がいるの、私」
 婦人は張り付いたような笑顔で、言葉を続けた。
 ずるり、ずるりと、何かがはいずる音がする。
 どうして気が付かなかったんだろう。どうして警戒しなかったんだろう。
「それでもしよろしかったら、なんだけれど」
 ぎぃい、と、低い音を立てて扉が閉まる。
 その向こうで、ガシャン、と、施錠音がした。
「息子の奥さんに、なってあげてくれないかしら?」
 現れたのは、白骨のむき出したミイラだった。それが、よたよたと歩いてくる。
 現実味はいつまで経っても訪れなかった。これはただのサプライズではないのか。来客を驚かせようという、婦人のただの楽しみではないのか。
 だって現実にこんなこと、起こり得るはずがない。
 生きた人間によって招かれる恐怖ならば想定していた。だがこの、意味不明の恐怖は何だ?
 少女は悲鳴を上げることすら忘れていた。
 目の前で起きていることが、いつまで経っても腑に落ちない。
「ね? すてきな息子でしょう?」
 女性はうっそりと笑みを深くした。
「だけど、気をつけて。うちの子、気に入らないとすぐ、食べちゃう癖があるようだから」
 少女の目前で、ミイラが乾いた筋肉をギチギチ鳴らしながら、のろのろと口を開いた。
 そのときだった。
 ガラスが粉々に割れる音がした。一人の人影が飛び込み、ミイラの頭を打ち抜く。
「しっかりするんだ!」
 青年の声で、少女ははっと我に返った。
 その目の前で、一発、また一発と、銃口が火を噴く。青年は正確に、ミイラを粉々にしていった。肩、胴、脚……
「やめてぇええ!」
 婦人の金切り声が響く。婦人は我を失って青年に殴りかかった。だが青年はそれを軽い動きで回避し、女性の鳩尾に深々と突きを放つ。
「少し、お静かに」
 静かな怒りを込めて、青年はうずくまって気を遣った婦人を見下ろした。
「……君、無事?」
 少女はただうなずくことしかできなかった。
「ならいい」
 青年は端末を取り出し、どこかへ連絡を取る。
 そして少女に短く、言った。
「家に帰って、親を安心させてやれ」
 世界は広く、少女の知り得ない思惑が散在している。
 まるで雨のように降り注ぎ、身を凍えさせる悪意に、少女はまだ、幼さ故に耐えられない。
 だから今はまだ、巣立ちを望みながら、誰かの屋根の下で雨宿りを。

――――

 それから数日後、少女はかつての平穏を取り戻した。
 青年とミイラ、婦人にまつわる記憶は失せている。
 だがふとした折りに、奇妙な感覚を覚えるようになった。
 まずは恐怖――この世に存在する悪意への、底知れぬ恐怖感。
 そしてそれと反目するように、自分を救ってくれた英雄的存在への、安堵だった。