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名無しのエージェント
テーマパークである。仕事でなければ、こんな所へ来たりはしない。
親子連れやカップル等で、いささか鬱陶しいほど賑わっている。
男1人で来ている客など、見たところ弦也くらいのものである。
こんな所へ、一緒に来るような相手もいない。
誰かと一緒に来たい、などと思った事もない。
「……なんて言っても、負け惜しみにしかならないかな」
工藤弦也は苦笑した。
少し離れた所では、着ぐるみのウサギが、子供たちに風船を配っている。
ウサギだけでなく猫もいる。犬もいる。カエルや熊、牛に象もいる。鳥らしきものもいる。
様々なぬいぐるみに身を包んだ人々が、あちこちで客に愛想を振りまいていた。
中身は学生アルバイトか、あるいはテーマパークのスタッフか。
自分も彼らの同類と見られているのかも知れない、と弦也は思う。
漫画に出て来るマフィアかSPのような、黒のスーツ。それにサングラス。
街中であれば、いかにも怪しい。
テーマパークの中であれば、アトラクションの一部と思ってもらえるかも知れない。
とにかく、これも仕事である。
虚無の境界の関係者が複数、このテーマパークの内外で動いているらしい。
テロリストのやる事は決まっている。人が大勢集まる場所で大惨事を引き起こし、己の存在をアピールする。それだけだ。
爆発物や危険薬品は発見されなかった。
だが虚無の境界は、そんなものに頼らずテロを決行する事が出来る。
それに対応・対抗するために、IO2という組織はある。
「に、しても……僕みたいな下っ端エージェント1人に、テロ対策を丸投げとは」
苦笑している場合ではなかった。
あちこちから、悲鳴が聞こえてくる。
絶叫マシーンの類ではない。
楽しげに賑わっていた客たちが、今は恐慌に陥り、逃げ惑っている。
着ぐるみの動物たちから、だ。
作り物であるはずの熊が、大口を開いて牙を剥き、凶暴に吼えている。
その口の中に、人間の顔はない。
本物の牙が光り、本物の舌がうねり、本物の唾液が飛び散っている。
着ぐるみであるはずの、牛が本物の角を振り立て、象が本物の鼻を振り回す。
動物と言うより怪物と化した着ぐるみの群れが、逃げ惑う人々に襲いかかっていた。
「中の人などいない、ってわけか!」
弦也は駆け出した。ある過去を、思い出しながらだ。
顔面を踏まれた。人の顔を、平気で踏みつけるような男だった。
「やめて! 弦に乱暴しないでよお!」
姉が悲鳴を上げている。
倒れた弦也の顔面を踏みにじりながら、男がそちらを向く。
「俺だってよぉ、こんな事ぁしたくねーんだよ。だから、な? あと3万でいいんだよ」
「だから今月もう、お金ないって言ってるじゃない……こないだの5万だって、まだ返してくれてないし」
「おいおい冷てぇ事言うなよお。愛しい彼氏が困ってんだぜ? ここは女の愛を見せるとこじゃねーのかよぉお」
男が、とりあえず弦也を踏みつけから解放し、姉に歩み迫って行く。
「俺、君の事愛してるよぉー? 世界で一番、君が好き。だから、な? 3万」
男無しではいられない姉である。そして、この手の男ばかりを引き当てて来る。
「勘弁してよ。今月、ほんとにお金なくて」
泣き言を漏らす姉の口元に、男が拳を叩き込む。
「やめろ……」
鼻血まみれのまま、弦也は身を起こし、声を発した。
「姉貴に……手を……出すなぁ……っ」
「あ? まぁだ何か言ってんなぁこのクソガキがああああ!」
怒鳴り、殴りかかって来ようとする男に、弦也の方から突っ込んで行った。
頭突きを食らわせた。蹴られた。蹴られた。踏まれた。踏みにじられた。その足を掴み、引っ張った。男が倒れた。飛びついた。噛み付いた。殴った。噛み付いた。殴った。殴った。殴った。拳の感覚がなくなった。構わず殴った。
姉が泣きながら抱きついて来るまで、弦也は止まらなかった。
あの時、弦也の中で確かに、何かが目覚めたのだ。
何が目覚めたのか、弦也自身にも、よくわかってはいない。
「とにかく、あの時の事を思い出すだけで僕は……!」
弦也は跳躍し、空中で身を捻った。すらりと伸びた右脚が、超高速で弧を描く。
泣き喚く小さな男の子を食いちぎろうとしていた熊の顔面に、その回し蹴りが叩き込まれていた。
被り物であるはずの熊の頭部が、生々しいものをビチャビチャと飛散させながら砕け散る。
あの時の事を思い出すだけで弦也は、いわゆる『火事場の馬鹿力』を思い通りに引き出せるようになった。
もちろん、その馬鹿力で自分の身体が壊れないよう充分に鍛えてはいる。
「それでも乱用していると身体がボロボロになるらしいからね……手早く終わらせるよ」
首から上が失せた怪物の屍、その近くに弦也は着地した。
着地した足で路面を蹴り、踏み込んで拳を突き込む。
猫の着ぐるみ、に見える怪物が、抱き合って悲鳴を上げるカップルを、鋭い爪で一緒くたに斬殺せんとしている。
その爪が振り下ろされる寸前、弦也の正拳突きが怪物の胴体に突き刺さった。
肋骨をへし折り、生体の内容物を潰し穿つ、その手応えを握り締めながら弦也は言い放った。
「君たちが本物の猫や犬なら、こんなふうに叩きのめす事なんて出来ない。だけど虚無の境界が大量生産した、可愛くもない怪物の群れなら……いくらでも!」
象の鼻が、背後から大蛇のように巻き付いて来る。
それを振りほどこうとせず弦也は、後ろに立つ巨体を背負い、前方に投げ飛ばした。路面に叩きつけた。
象の着ぐるみ、のような姿をした怪物が、砕け潰れて広がった。
すぐ近くで、着ぐるみの怪鳥が翼を広げ、クチバシを一閃させる。
日本刀のようなクチバシが、弦也の首筋を襲う。
その瞬間、怪鳥が砕け散った。粉々に、切り刻まれていた。
弦也は何もしていない。
「……張り切り過ぎだぜ、工藤」
先程、子供達に風船を配っていたウサギが、そこにいた。
着ぐるみの太い両手に握られているのは、今は風船ではなく、2本のクナイである。斬撃用の大型クナイが、左右一対。
「程々にしとかないと、お前……次の日筋肉痛、どころじゃ済まないぞ」
「君か……」
このウサギは、虚無の境界の怪物ではない。本物の着ぐるみである。中に、人が入っている。
アルバイト学生でもスタッフでもない、何者かが。
弦也は、とりあえず訊いてみた。
「何をやっているんだ、こんな所で……いやまあ、僕1人じゃ頼りないって事なんだろうけど。NINJA部隊の隊長さん自ら、下っ端エージェントのサポートとはね。ご苦労な事で」
「何を言ってるのかわからんな。俺は単なるウサギちゃんだ」
言葉と共にウサギが身を翻し、左右のクナイを閃光の速度で振るう。
転倒した少女を長い舌で絡め捕えようとしていたカエルが、硬直した。着ぐるみのようなその身体が、だるま落とし状に幾重にも食い違い、輪切りとなって崩れ落ちる。
「まあ……ほとぼりが冷めるまで、ちょっと遊園地でアルバイトをな」
「……経理課のお局様に手を出したっていう噂、本当だったのか」
「だって俺、てっきり婚活失敗しちゃった口だと思ってたんだよ。まさか旦那がいるなんて思わないだろ」
ウサギが言い訳をしながら、襲い来る怪物たちを滑らかに斬り刻む。
それを横目に、弦也は駆けた。
若い両親と幼い娘。親子連れ3人が、巨大なワニに襲われている。
被り物、に見える頭部が大口を開き、本物の牙を剥く。
その牙の前に、若い父親が立ちはだかった。懸命に両腕を広げ、妻と娘を背後に庇っている。自分の身体を、楯にしている。
その身体がワニの牙に引き裂かれる寸前、弦也の手刀が上から下へと一閃した。
怪物が、真っ二つになった。ワニの着ぐるみに似た巨体が、左右に倒れて様々なものをぶちまける。
その凄惨な光景を目の当たりにしながら、若い父親が呆然と言った。
「あ……あり……がとう、ございます……」
「……あまり無茶をしない方がいい。貴方は、言わば一家の大黒柱でしょう?」
彼の後ろで抱き合う母娘に、弦也はちらりと目を向けた。
「家族のために貴方は、身を犠牲にするよりも……生きなければ」
「いやあ、その……私、いわゆる専業主夫でして」
俯き加減に、父親は言った。
「今は、妻に食べさせてもらっています……こういう場面で、格好つけるしかないんですよ私。生きてたって、家族の負担にしか」
「パパ!」
幼い娘が、父親に抱きついた。
「パパ……こわかったぁ……」
泣きじゃくる娘を、父親が困惑しながら抱き締める。
一家の稼ぎ主であるらしい母親が、弦也に向かって頭を下げる。
姉も、定職に就いていない男と結婚した。駆け落ち・家出も同然の結婚だった。今は音信不通である。
「お前」
残敵掃討を終えたウサギが、声をかけてくる。
「……そろそろエージェントネームの1つも貰ったらどうだ。何なら俺が考えてやろうか」
「気持ちだけ頂戴しておくよ。君が単なるウサギさんであるように、僕は……ただの工藤弦也でいい」
答えながら、弦也は空を見上げた。
弦也、あるいは弦。そんなふうに呼んでくれた人は、もう傍にいない。
(幸せに……なってる、よね? 姉貴……)
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