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<東京怪談ノベル(シングル)>


瞬く星の上を(3)
 水たまりの中にある空を、波紋がかき消していく。ロングブーツが地を叩くたびに、周囲には水しぶきが煌めいた。生憎の天気ではあるが、このブーツは戦闘時にだけ履く特注のものなので幸いにも多少の雨くらいで汚れたりはしない。
 時刻は夜。それも真夜中である。降りしきる雨のせいで、視界も悪い。けれど、長年部隊へと身を置き様々な戦場を渡り歩いてきた琴美にとっては、この程度の事さしたる障害ではなかった。むしろ、雨がカーテンとなり周囲から彼女の姿を見えにくくしてくれるため、任務中の身にはかえって助かる事だ。場の状況を味方につける事も、特殊部隊に所属する戦士にとっては重要な事なのである。
 不意に、彼女はそのしなやかな足を止めた。長い黒髪が揺れる。夜の海のように澄んでいて落ち着いた彼女の黒色の瞳が、視線の先にある建物を睨むように射抜いた。見上げた先にあるのは、とある製薬会社のビルだ。
 つい先日も彼女はたった一人で一つの製薬会社を壊滅させたばかりだが、今目の前にあるのはそことはまた違う会社である。しかし、一切の関係がないというわけでもない。琴美がこの場所に立っている理由……それは、件の黒幕が今はどうやらこの会社を拠点にして例の非合法の実験を再開しているらしい、という情報を手に入れたからであった。
 あの会社を失った後で慌てて新たな拠点を用意したにしては、あまりにも迅速すぎる。恐らく、以前からこちらの会社にも手を伸ばしていたのだろう。前の会社を失った時のための保険のためだったのか、もともと前の会社は捨て駒に過ぎなかったのかは分からない。どちらにせよ、会社や人を替えのきくものとしか思っていないような心ない行動に、琴美の胸は痛む。いったいいくつの命が、この人体実験のせいで犠牲になったのだろう。心優しき彼女に、非道な事を繰り返す黒幕の気持ちは理解出来なかった。

 ――黒幕の正体は、依然として掴めていない。指示を出している何者かがいる事は確かなのだが、その正体はいまいち不明瞭なのである。調べても調べても、分かるのは黒幕がいるという事実だけで、それ以上の情報は見えてこなかった。
(まるで、蜃気楼を相手にしているようですわ……)
 確かにそこにいるはずなのに、ハッキリとしない黒幕の存在に琴美は整った眉を僅かに寄せる。度の合ってないメガネで世界を見るかのようなぼやけている情報の数々にどこか薄気味悪さを感じ、生理的な嫌悪に女はぞくりとその女性らしい魅力に溢れた体を震わせた。
(人間ではない可能性も、考慮したほうがいいかもしれませんわね)
 琴美達、自衛隊の特務統合機動課の任務は暗殺や情報収集だけではない。時に、魑魅魍魎等の人ではない者を相手にする事もある。一見、血に塗れた世界など知らぬ可憐な少女のように見える琴美も、今まで数々の人ならざる悪をせん滅してきた。全ては任務のためであり、世界のためであり、人々の平和のためだ。心優しき彼女は、決して怯む事はない。人智を超えた脅威を相手にする事になっても、彼女の目にあるのは絶対的な自信のみである。
 故に、今宵も臆する事なく琴美は戦場へと降り立つのだ。降り続ける雨も、至るところに点在するぬかるみも、彼女の動きを止める事は出来ない。ビルを警備する、屈強な警備達であったとしても、だ。
 風よりも速く疾駆し、彼女はナイフを振るう。悲鳴をあげる間もなく、ビルの前にいた二人の見張りの男達が倒れた。雨音に身を隠し、気配なく忍び寄ってきた侵入者に、他の見張りの者達の瞳は驚愕に見開かれる。以前せん滅した会社の警備よりも、ずっと多い数の警備達が琴美の周囲を取り囲んだ。
 彼女のラバースーツに包まれた豊満な肉体を、無遠慮にいくつもの視線が撫でる。しかし、その視線には人としての感情は乗っていない。彼らの瞳に光はなく、ぞっとする程の空虚さだけが広がっていた。
「貴方達も、人体実験の犠牲者なのですわね」
 部下すらも手にかける非情さに、琴美の胸に怒りの炎が宿った。そして、それを超える慈悲の感情に、彼女のナイフを握る手に力がこもる。哀れな彼らを、救ってやりたいと琴美は願った。けれどもはや、彼らを助ける術などない。
「せめて、安らかに眠らせてさしあげますわ!」
 黒髪の女は、ナイフを振るう。その凶器の上に、優しさと正義を乗せて。雨の中咲く鮮血の花は、哀れな実験体の末路にとっての唯一の救済となるのである。