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菖蒲と雨と隣の温もり。
いつもの夜であった。
日課である『散歩』に繰り出した千影は、子猫の姿のままで見上げた夜空に向かって「にゃお〜〜ん」と鳴く。
その様子はまるで、月に吠える狼のようでもあった。
今宵の月は弦月ではあったが、それでも美しい銀色の輝きを放っている。
『お月様が綺麗だと、思わず歌いたくなっちゃうよね♪』
そんな独り言を楽しげに言ったあと、彼女は前足を蹴って宙に舞った。
背中の翼を羽ばたかせると、闇を払う風が起こる。するとそれに誘われたのか、千影の周りには『お友達』の知神や物の怪が寄り集まってきた。
『えへへ、みんな、こんばんは〜! 良い夜だね!』
形を成さぬものや獣の姿のもの、それぞれに挨拶をして、引き連れるようにして先へと進む。
普段は気の向くままに夜空を舞う彼女であったが、今日はどうやら目的地があるようだ。
『アヤメちゃんは、まだご機嫌ナナメなのかな?』
千影がそう言うと、物の怪の一つがコクリと頷いた。
それを受けて、千影はうーん、と唸って思案を始める。自分で出来ることがあるのなら、何とか解決できないものかと考えているようだ。
ふよふよ、と宙に浮きつつ、数メートルを進む。
その直後。
『あっ!』
地上に視線を向けたところで、道行く人物に知る気配を感じた。
そして彼女は躊躇いも迷いもなく、急降下を始める。
尻尾の先に飾られたリボンと鈴が風に揺れた後、彼女は猫の姿から少女のそれへと変容した。
「ナギちゃ〜ん!!」
チリン、と鈴の音色が広がる。
頭上から降ってくる声にすぐに反応して顔を上げたのは、ナギであった。
「……ッ」
言葉を発するより先に、両腕を差し出す。
その数秒後には、彼の腕に千影が『落ちて』きた。衝撃はさほどではなかったが、突然の登場にはさすがの彼も驚きを隠せずにいる。
「お前なぁ……俺じゃなかったら地面直撃だぞ」
「えへへ。ナギちゃんだから安心して降りてこられるんだよ」
呆れつつのナギの言葉に、千影は悪戯っぽく笑いながらそう答えて彼の首に腕を回した。
彼女が人の姿に変化したのは、この為であったらしい。
主人の次くらいに、千影が信頼している相手だ。
いつもと変わりのないスキンシップをしてくる彼女に、ナギは複雑な表情を浮かべつつもその口元には笑みが浮かんでいた。
そんな彼の頭上に、何かが落ちてきた気配がまた生まれる。
「ん?」
重いものではなかったが被っていたフードの上を、ポンポン、と跳ねる気配がする。
「……千影、お前……何連れて来てんだ」
「あ、そうだった。今日はこの子たちと一緒にお山に行かなきゃなの」
ナギの頭の上に落ちてきたものは、先ほど千影と一緒にいた知神や物の怪たちの気配であった。
彼の視界に認識させるためなのか、彼らは個々に手のひらサイズの人形のような姿へと変化させてその場にいる。それらを横目にしながら、ナギは思いついた事を問いかけた。
「山……もしかして、『止まずの池』か?」
「あれ、ナギちゃん知ってるの? あっちのお山の麓なんだけど」
千影はそう言って、ビル群の向こう側にあるらしい山の方角の方へと指差した。
二人の目的地は、どうやら同一であるらしい。
「麓の池に祠があってな。そこの管理者からの依頼受けてんだよ。ずっと雨降ってて点検に行けねぇからってさ」
「それね、きっとアヤメちゃんのご機嫌が悪いからよ」
千影を横抱きにしたままであったナギは、そこでゆっくりと彼女を地面へと降ろしつつ「なるほど」と理解の言葉を示した。
名前のような響きを耳にしても疑問にならないのは、千影の性格を知り尽くしているからだ。
『お友達』と判断した存在には、名前を呼ぶ。相手にそれが無ければ愛称を付ける。それが彼女なりの愛情表現の一つであり、良さでもある。
「コイツらはその『アヤメちゃん』の眷属か」
「うん、お友達だよ。心配してるんだって」
「要するに、自分たちの手に負えねぇってワケか」
自分たちの周囲をクルクルと飛び回る気配を見やりつつ、そんな会話を続ける。
そういう経緯の末に自分の元へ依頼が来たのか当たりをつけたナギは、「んじゃぁ、解決しに行くか」と一歩を踏み出すと、千影が元気よく「はーい!」と答えて後をついてくる。もちろん、彼女の後ろに続くのは小さな物の怪たちだ。
「しかし、アヤメちゃんってことは、女か?」
「アヤメちゃんはお姫様で神様なのよ」
「俗にいう姫神ってやつか……池の神だと蛟だなぁ。何が原因で引きこもってんだか」
「うーん……チカが前に遊びに行った時には、元気だったのよ。雨も降ってなかったし……」
ダルそうに歩きながら千影の少し前を進むナギ。
千影は彼の言葉にいつもどおりの返事をしつつ、右手を静かに差し出した。
「……ん、悪ぃ、歩くの早かったか」
ナギはパーカーのポケットに差し込んでいた左手を出し、後ろ手に彼女の右手を握る。
伝わる温もりに、千影は安心したようにふわりと微笑んで、距離を詰めてきた。
呼べはいつでも来てくれる。何処にいても。
そんな間柄ではあるが、それでも千影はどこかで、彼の存在を儚く感じているのかもしれない。
だからこそ、傍にいる時は出来るだけナギの温もりを感じていたいと思うのだ。
『おやおや、睦まじいのう』
『アツアツというやつだナ』
『千影殿に無礼を働くなよ鼬風情が!』
小さき物の怪と神たちが、次々とそんな言葉を振らせてくる。
ナギはそれらを半ば呆れ気味に受け取りつつ、「ハイハイ」と適当な返事をしてひらひらと開いている片手で振り払った。
千影のほうは、言葉の意味を理解しきれていないのか小首を傾げるのみだ。
「あー、こっからだと歩きじゃもうちょい時間掛かるな。飛んだほうが早いか」
「じゃあ、チカが連れて行ってあげる」
ナギの言葉を受けて、千影が得意気にそう言いながら、彼の手を引いた。
彼らはそこから目についた路地へと入り込み、人の気配が周囲にないことを確認してから、地を蹴った。
千影がその瞬間に本来の姿の黒獅子へと戻り、ナギと物の怪たちを連れてさらに上昇する。
「相変わらず、あっという間だなぁ。俺は飛び上がるしか出来ねぇからなぁ」
鷹の翼を持つ獅子の背中に乗ったナギが、眼前に広がる夜景を眺めて感心するようにそう言った。
ビルの屋上から眺めるものとは、やはり違った雰囲気があるのだろう。
『じゃあ、進むね』
千影はそう告げて、背中の翼を大きく羽ばたかせる。
すると次の瞬間にはあっという間に景色が変わり、人工の光が線を描くように流れていく。
何度も目にした光景でもあったが、それでも見るたびに新鮮に思えてナギは満足そうな表情をしていた。
そうして、たった数秒ののちに、目的地である山の麓までたどり着いた。
「うおっ、本当にここだけ雨降ってんのな」
「アヤメちゃんの領域内だけだから、不思議だよね」
麓の池と傍にある祠。それらを囲むようにして円が描かれ、内側だけで雨が降り続いている。
畔には菖蒲の群生が見事に咲き誇っていたが、この雨ではやがて傷んでしまうと考えつつ、元凶であるらしい姫神の名前の由来もこの花なのだろうと推測する。
千影は地に降り立った瞬間には再び少女の姿になり、ナギの隣に立っていた。
「結界とかは?」
「大丈夫、このまま祠に行けるよ」
「んじゃ、濡れねぇようにな」
取り敢えずは、と彼らは先へと進む。その際、ナギが己の能力を発動させて、得意のシールドを傘のように見立てて頭上へと持って行った。雨は見事に彼らを避け、それこそ不思議な光景がその場に生まれていた。
『――誰ぞ、我の神域へと入り込む輩は』
暫く歩いていると、祠の奥からそんな声が聞こえてきた。
響きからしても、あまりいい色とはいえないものだった。
だが、それを気にしないのが千影である。
「こんばんは、アヤメちゃん。チカだよ」
彼女がそう言うと、雨が少し弱まったように思えた。
それを確認しつつ、ナギは周囲を見回す。怪しい気配などはなく、どちらかと言うと焦燥や悲しみの念が漂っている。怨恨などではなく、もっと単純な理由なのかもしれないと彼は思案した。
『千影どのか……その隣の輩はペットか何かか? 獣の気配しか感じられぬが』
「ううん、違うよ。ナギちゃんはチカの大切な人。今日はアヤメちゃんの悩みを解決できないかなって思って、ここに来たのよ」
「……千影」
アヤメ――もとい姫神の言葉に対して別段反論する気もなかったナギだが、千影の返事には過敏に反応してしまい、思わず頬が熱くなる。
千影の言葉の意味にはもっと広いものがあると解りきっているのに、それでも嬉しかった。
『なるほどのぅ、千影どのにもいつの間にかそのような存在が……これも時間の流れ故なのかのぅ……。それに比べて我は……』
姫神はしみじみと言葉を繋げた後、最後にはまたさめざめとした響きへとそれが変わった。
「なぁ、何があったか聞いてもいいか?」
雨脚が強くなったことを気にしつつ、ナギがそう促すと、姫神はまた言葉を紡いだ。
『我は老いたのだ。この場を次の世代に託さねばならぬ。……だが、それが出来ぬのだ』
「どうして?」
『……只ならぬ感情を抱いてしまったからだ。浅ましい気持ちが、我の心をかき乱す』
「うーん……?」
姫神の言葉を聞いて、ナギが首を傾げた。何か、引っかかるものがあったらしい。
思考を巡らせ、何度が唸った後に「あ」と声を繋げた。
「俺の依頼人だな。……アンタ、ここの管理者とそういう関係なんじゃね?」
「えっ、そうなの、アヤメちゃん!?」
ナギの隣で、千影がそんな声を上げた。この展開は予想にも出来なかったようだ。
姫神は答えない。
たが、雨が小降りとなった。
この雨は、彼女の心情を表しているのだ。
「年数とか、寿命とか、そう言う古臭いモンに縛られてんじゃねぇの」
『年端も行かぬ輩に、何がわかるか』
「それを言うなら、俺の依頼人のあいつは、ただの人間だぞ。それでも、アンタをすげぇ心配してる感じがした」
『…………』
ナギにそう言われて、姫神はまた押し黙る。
やはり彼の言うことに間違いはないのだろう。菖蒲に囲まれた祠を守る姫神は、人間の青年に恋をしているのだ。
「アンタから見りゃ、俺だってまだまだのガキだろうさ。でも、ヒトから見りゃ俺も立派なジジィだぜ。そんなんでも外見はこんなナリでさ、今は隣に大事にしてぇ子がいる。……そう言う雰囲気じゃ、ダメか?」
『……彼の者はいずれ我を置いてゆく』
「それまでの時間を、ヒトになりきって過ごしてみたって良いだろ。幸い、世代交代ってのを迎えたんだ。アンタをここに縛り付けるモンもなくなる。今まで我慢した分、自分に正直になってみたって、いいんじゃねぇの」
ナギが珍しく、多弁になっていた。自分でもどうしてこんなに熱くなっているのか、と思えるほどだ。
千影はそんな彼を、黙って見上げたままであった。ただ、握った手のひらが僅かに湿っていることが、不思議と不快とは感じられなかった。
『……出来るのだろうか、我に』
「それはアンタとあいつ次第だと思うぜ。取り敢えずさ、この雨そろそろ止ませてくれるか? ここの綺麗な花が参っちまう」
『そう、だな……』
姫神はナギの言葉を全面的に受け入れ、数秒後には雨が上がった。
湿った空気が蒸気を生み出し、霧のような光景を生む。その後、祠の前にゆっくりと影が現れ、ヒトの形を作り出したそれは、一人の女性の姿であった。
漆黒の艶髪と紫色の瞳が印象的の、絶世の美女である。
「うお……すっげぇ美人。あいつが惚れるのも分かる気がするぜ」
ナギが思わずの本音を漏らした。
すると、千影が自然と頬をふくらませる。その感情の意味をまだ理解しきっていない彼女でも、本能で感じるものがあったようだ。
「ねぇナギちゃん、チカは?」
彼の袖口を軽く引いて、そんな問いかけをしてしまう。
すると、ナギは間を置かずにすぐに返事をくれた。
「ん? そんなの、千影が一番可愛いに決まってんだろ」
彼はそう言いながら、身を屈めて千影の額に自分のを重ねてくる。獣同士が信頼の証で示す行為でもあるが、彼のそれは少しだけ意味が違った。
千影がそれを理解しているかは、考えてはいない。
今は、彼女を安心させる言葉と態度を、示し続けるだけなのだ。
「えへへ。ナギちゃん大好き」
千影はそう言いながら、ナギに抱きついてきた。
その行動は、まだまだ子供のそれだ。
『……お主らは我を忘れてはおらぬか』
畔に立ち続ける姫神が、呆れ口調でそう言ってきた。
ナギはそれに苦笑で応えてから、口を開く。
「雨は上がったって、アイツに伝えとく。明日にはきっと会いに来るぞ。……後は自分たちで何とかしろよな」
『心得ておる。……千影どのにもお主らにも、迷惑をかけたな』
姫神の周囲には、いつの間にか物の怪たちが集まってきていた。彼女を心配していた存在たちだ。
この場はもう、大丈夫なのだろうとナギも千影も同様に感じていた。
『詫びにもならぬが……花を好きだなけ持って行くと良い』
「ありがと、アヤメちゃん! 主様へのお土産にもらっていくね!」
「んじゃ俺も、上司に報告がてらに一輪貰うな」
二人はそう言いながら、それぞれに菖蒲を手にした。千影は「主様と、ママ様の分!」と付け加えて片腕に収まるほどを。ナギは言葉通りに一輪だけを貰って、もう一度姫神を見る。
彼女は穏やかな笑みを湛えていた。飛び回る眷属たちにそれぞれ何か言葉をかけ、落ち着きを見せている。
「アヤメちゃん、幸せになれたら良いね」
「俺達が橋渡ししたんだ、きっとなれるさ」
千影とナギはそんな会話をしながら再び手を繋ぎ合って、その場を後にする。
偶然ではあるが一つの依頼を一緒にクリア出来た彼らは、満足そうに笑い合っていた。
そんな二人の後ろ姿を見送るのは、美しい姫神と小さき物の怪たちであった。
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