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霊鬼兵、犬を拾う
ちぎれていた舌が、ようやく繋がった。叩き折られた歯も、生え替わりつつある。
気管や脛骨もろとも潰されていた声帯も、辛うじて再生を終えた。
どうにか声は出せる。だからエヴァ・ペルマネントは言った。
「……待って……ちょっと、待ちなさい……ステイよ、ステイ……」
言葉と共に、口からごぼごぼと血が溢れ出してくる。息も苦しい。肺が、まだ破けているのであろうか。
頭部の上半分は無事だ。眼球それに脳だけは、守り抜いた。状況を、視認する事は出来る。
エヴァが行動拠点として勝手に使用している、廃ビルの屋上。ここで、戦闘訓練を行っているところである。
訓練相手が鎖でがんじがらめに縛り上げられ、獣のように唸っている。
魔女結社の本拠地にたゆたっていた怨霊たちを原料として、作り上げた鎖だ。普通の鎖では、簡単に引きちぎられてしまう。
幾重にも巻き付いた怨霊の鎖。その間から、たくましいほど豊かな胸の膨らみが押し出されている。
むっちりと力強い左右の太股が、絡み付く鎖をちぎってしまいかねない勢いで暴れ続ける。
凹凸のくっきりとした肉体が、豊麗な尻を激しく振りながら、芋虫のようにのたうち回った。
「がふうぅっ! ぐるるるるる、ぎゃうッ! がうっ! ぐぁあああああう!」
形良い唇をめくって牙を剥きながら、囚われの牝獣は吼え続ける。
その全身を怨霊鎖で縛り上げるのに、エヴァは辛うじて成功した。
顔面を粉砕され、首を折られ、右脚を引きちぎられ、腹を掴み裂かれながらだ。
もはや戦闘訓練と言うより、殺し合いであった。どちらが勝ったのかは、わからない。
再生能力のおかげで、どうにか生きていられる。それを勝利とは呼べないだろう、とエヴァは思う。
この牝獣と初めて戦った時も、そうであった。
鎖で、捕縛する事は出来た。
だがエヴァの肉体も、猟奇殺人同然に破壊された。
再生能力を卑下するつもりはない。生体兵器として、むしろ誇るべき特性である。
だが。このままでは自分は、再生能力に頼った戦い方しか出来なくなってしまう。
傷1つ負う事なく、この牝獣を取り押さえる。それが出来るようにならなければ自分は、霊鬼兵としては終わりである。再生能力以外には何の取り柄もない、歩く弾除けとして、いずれどこかの戦場で使い捨てられるか。あるいは、身体を切り刻むような実験の材料にされ続けるか。
とにかく自分は、強くならなければならない。
霊鬼兵としての能力を、向上させる。怠りなく、それに努めなければならない。
そのための戦闘訓練であるのだが。
「……ユーは……本当に、ケダモノね……その馬鹿力、素早い動き、読めない攻撃……対処のコツが、全く掴めないわ」
溢れ出した小腸を、己の腹の中に押し込みながら、エヴァは苦笑した。
「だからこその戦闘訓練、なのだけどね」
「がぁう! がふッ! ぐるるぁああああああ!」
拘束されたまま、牝獣が吼える。怒りの咆哮だった。
「何をそんなに怒って……ははん。あの人魚姫が、いなくなっちゃったから?」
魔女結社から奪い取った戦利品は、2つ。
この牝獣と、氷漬けの人魚姫である。
今度こそ宇宙人に拉致されたのだ、などと噂されていたオカルト系アイドルが、宇宙人ではなく魔女結社に拉致され、人魚に変わりながら凍り付いていたのである。
虚無の境界の盟主が、彼女のファンだった。
だからエヴァは、棺のような氷に閉じ込められた人魚姫を、そのまま盟主に献上した。
牝獣の方は、手元に残した。
戦闘訓練のため。それもある。
だがエヴァの任務は、拉致されていたアイドルを盟主に捧げて終わり、ではない。
魔女結社の、全ての秘術と研究成果を、虚無の境界へと献上させる事。それがエヴァの、本来の任務だ。
無論、魔女たちがそれを肯んずるわけはないから、強奪する事になる。魔女たちと、戦う事になる。
今少し、魔女の力というものを知っておく必要があるのだ。
そのためには、魔女の秘術の産物である、この牝獣を、もっと調べてみなければならない。
「調べてみて、わかった事……ユーは、とにかくケダモノ。今のところ、それだけよ」
ちぎれた右脚が、ずいぶんと離れた所に転がっている。
這って、取り行くしかなかった。
ここ日本では、入浴という行為は1つの文化であるらしい。単に身体を洗うだけの作業ではないのだ。
「裸のお付き合い、というやつかしらね……ほら、大人しくなさい野良犬!」
「ぎゃう……くふぅん……」
泡まみれのまま逃げ出そうとする牝獣を、エヴァは無理やり押さえつけた。浴槽に沈める感じにだ。
この廃ビルは元々、ホテルであったらしい。倒産後、解体費用の問題で放置されているのを、エヴァが勝手に隠れ家として使っている。水と電気が通っているのは、少しばかり違法な裏技によるものだ。
この牝獣を、入浴させる。
それはIO2の1級エージェント複数を相手に戦うよりも、難儀なミッションであった。
初日はそれこそ死闘で、エヴァの臓物が浴槽内にぷかぷかと浮かぶ羽目になった。
最近はいくらか、コツのようなものを掴めてきた。
戦闘訓練で、この獣をねじ伏せるコツは一向に掴めないのだが、風呂に引きずり込むのにはそれほど苦戦しなくなった。
「まったく……躾のなっていないペットを飼うようなものかしらね」
牝獣の長い髪に大量のシャンプーをぶちまけ、引っ掻き回しながら、エヴァは言った。
「あっちこっちにマーキングをしくさって! ここはね、今は私の家なのよ。ユーの縄張りじゃあないの、わかる? 仔犬ちゃん仔猫ちゃんのお漏らしはまあ笑って許せるけど! 人間の女の粗相なんてものはね、本当に一部にしか需要がないんだから!」
「きゃうん……きゃふうぅ……」
「あら、なあに? シャンプーが目にしみる? 残念、シャンプーハットなんて子供っぽいもの私は使ってないの。我慢なさい、大人なんだから。ま、ユーの年齢なんてわからないけど。いくつだろうが、この頭の中身は赤ちゃん以下!」
成人女性であろう、とは思える。ただ、セーラー服やブレザーを着せても違和感はなさそうだ。
年齢はわからない。名前も当然、わからない。
1つ、わかった事がある。
この娘は、人間としての名前を魔女に奪われ、名無しの牝獣と化したのだ。
人間と獣の違い。それは名前の有無である、とエヴァは思っている。
野の獣は、名前など必要とせず、したたかに生き抜いている。
だが人間社会においては、名前のない人間など、下手をすると人間として認識すらされない。
「ポチとかタマ、で良ければ私が付けてあげてもいいけれど……ねえ?」
牝獣の頭にお湯を浴びせながら、エヴァはふと気になっていた事を口に出した。
「ユー……綺麗な髪を、しているわね」
いくらか不潔にしていた程度では損なわれない何かを、この娘は確かに持っている。
このような獣になる前は一体、何者であったのか。
「魔女に名前を奪われた……その結果、ユーは色々なものを失った。そのせいで、だけど元々持っていた何かが目覚めてしまった、とも言えるのかしらね。ふふっ、興味深いわ」
まるで犬を愛でるように、エヴァは牝獣の頭を撫でた。
「とりあえず、ユーの名前を奪い返してあげるわね野良犬ちゃん。魔女の施した呪いを解く、それは盟主様が欲しておられる魔女の秘術を解析する事にもなるわ。そして私は……解析した魔女結社の力を手に入れて、もっと強くなる。霊鬼兵として、さらなる高みに達するのよ。わかる? ユーはね、そのための実験台」
牝獣はしかし、エヴァの話など聞いてはいない。
俯き、どうやら涙ぐんでいる。シャンプーが目にしみた、わけではなさそうだ。
「…………くぅん……」
「……そう。あの人魚姫がいなくなって、寂しいのね」
お湯と泡と涙にまみれた牝獣の顔を、エヴァはそっと撫でた。
「大丈夫、あの子は盟主様がきっと元に戻して下さるわ。ユーと一緒に可愛がって下さるよう、私からもお願いしてあげるから」
「わおぉーん!」
月に向かって吼えるかのように、牝獣は啼いた。
それは浴室の中で、寂しげに悲しげに反響した。
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