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<東京怪談ノベル(シングル)>


導きの鏡


 獣臭い。
 イアル・ミラールはまず、そう感じた。
(これ……私の、臭い……)
 自分でも感じられるほどの悪臭が、全身から溢れ出している。
 一体どれほど長い間、身体を洗っていないのか。
 野生の獣は、入浴などしない。
 獣の臭いを振りまきながら、イアルは歩いていた。人の身体で、獣のような四足歩行をしていた。
 牝獣の脚力が漲る左右の太股を踏ん張らせ、たくましく豊麗な尻を突き上げている。
 強靭な両の細腕は、今や前脚であった。戦巫女として楯をかざし剣を振るうためではなく、獣として地を這うためにある。
 その両腕の間では、育ち過ぎた果実を思わせる胸の膨らみが、四足歩行に合わせて揺れ続ける。
 汚れた髪が、汚れた全身にベタベタとまとわりついて、不潔感を引き立てている。
 女の命、と言われてはいる。だがこんな髪なら要らない、とイアルは思った。
「ぐるっ……がふうぅ……ッ」
 口から獣の唸りを発しながらイアルは、心の中で人間の悲鳴を発した。
(私……汚らしい、獣……? いや……こんなの嫌ぁ……っ!)
 誰にも聞こえぬ悲鳴であった。
 獣と化したイアルを、魔女たちが見下ろし、嘲笑っている。
「ふん。いい格好だねぇ、汚らしいケダモノが。そんな樣で、まだ鏡幻龍の巫女のつもりでいるのか?」
「必死にミラール・ドラゴンを隠し持っているようだけど無駄な事、それはもうお前のものじゃあないんだよ牝犬。お前は、鏡幻龍に見放されてしまったのだから」
「さあミラール・ドラゴン、そんな浅ましい野良犬は放っておいて私たちのものにおなり。私たち魔女の方が、そんな汚らしい生き物なんかよりもずっと、お前の力を使いこなしてあげられる」
 魔女たちが何を言っているのかは、わからない。
 ただ鏡幻龍、ミラール・ドラゴンという単語だけが、イアルの心に突き刺さる。
(私は……ミラール・ドラゴンに、見放された……)
 当然だ、とイアルは思う。
 鏡幻龍が力を貸す相手は、純真な心に凛とした闘志を秘めた戦巫女だけである。このような、惨めで薄汚い野良犬ではない。
「どうも、おかしいね……鏡幻龍は本当に、この牝犬の中にいるのかい? まだ」
「私たちのものになっていない、という事は要するにそういう事」
「ミラール・ドラゴンには徹底的に、この牝に対して愛想を尽かさせるしかないのさ」
「獣として振舞う事に、お前の人間としての心が果たしてどこまで耐えられるかな? イアル・ミラール……一時的に、お前の名前と心を返してやった。人間の心を、完全にぶち壊すためにねえ」
 魔女たちが、わけのわからない事を言っている。
 そんな事よりも、とイアルは思う。ここは一体、どこなのか。
 少なくとも、自分の居場所ではない。
 自分の居場所は、どこなのか。
 よく覚えていない。思い出す資格が自分にはない、とも思える。
 誰かが、いた。
 優しい歌を歌ってくれる、音楽教師。
 天下無敵の笑顔で心を癒してくれる、オカルトアイドル。
 2人が、思い出の中から微笑みかけてくる。
 イアルは、頭を横に振った。
 思い出す事など、自分には許されない。あの2人のいる所は、もう自分の居場所ではないのだ。
 自分は、汚らしい野良犬なのだから。
 野良犬の居場所は、どこか。縄張りの中だ。
 縄張りは自分で作るしかない。何故ならば、野良犬だからだ。
 獣の本能に従って、イアルは片脚を上げた。
(やめて……!)
 心の中で叫ぶ。だが人の叫びでは、獣の本能を止められはしない。
(やめて! 嫌……っ、こんなの嫌よ、やめてぇええええええ!)
 誰にも聞こえぬ声で泣き叫びながら、獣の様を晒すイアルを、魔女たちが楽しげに観察し嘲笑う。
「ふふっ、あっははははは躾のなってない牝犬ちゃんだこと!」
「あたしたちが躾てやるよ。飼い犬としてねえ!」
「さあ出ておいでミラール・ドラゴン! こんな糞まみれの駄犬じゃなく、私たちこそが! お前の主にふさわしいのよ!」
(犬……わたしは……い……ぬ……)
 それがイアルの、人間としての最後の思考だった。


『遥か時空の彼方で紡ぎ出される、運命の糸……あなたは信じますか? こんばんわ、今週もまた「前世少女座談会」のお時間がやって来てしまいました!』
 つい先日まで氷漬けの人魚姫だった少女が、どうにかオカルトアイドルとしての名前を取り戻し、番組を進行している。
『さて今回スタジオにお越しいただいたのは、アトランティス最終戦争を戦い抜いた聖なる戦士の皆様です!』
『私は3年前、聖なる風の戦士としての記憶を取り戻しました』
『私は火の戦士……水晶の塔の戦いを、夢で思い出したんです』
『新たな最終戦争の時が、近付いています。だから私は、聖なる鏡の導きにより……大地の戦士としての宿命に、目覚めました』
『私たちのリーダーである、光の戦士の方! どうか目覚めて、聖なる鏡の声に耳を傾けて下さい!』
 テレビを叩き壊してしまいそうになる自分を、エヴァ・ペルマネントは懸命に抑えなければならなかった。
「あの、盟主様……この番組、どこが面白いんですか? はっきり言って、拷問に近いんですけど」
『ふふ、まあ見ていなさい。そのうち、貴女好みの展開になるから』
 電話の向こうで、虚無の境界の盟主が楽しげにしている。
 彼女の命令でエヴァは今、この正視し難い番組を視聴中である。
 大人しく見ている事など、到底不可能であった。
 だからエヴァは、番組をBGMとして部屋の掃除をしている。
 隠れ家として使っている、廃ホテルの一室である。あの牝獣が、とにかく思う存分、汚してくれた。
 左手でスマートフォンを持ち、右手で雑巾を動かしながら、エヴァは言った。
「……まあ、とにかく魔女結社はやっぱり一筋縄じゃいかない相手です。もう少し時間を下さい」
『焦る事はないのよ? 貴女は本当に良くやってくれたわ、エヴァ』
 盟主が褒めてくれた。
 だがエヴァとしては到底、自分を褒める気にはなれない。
 魔女結社を相手に、2度も退却を強いられた。
(最強の霊鬼兵たる、この私が……)
 自分は、最強なのだ。最強でなければ、ならないのだ。
 最強ではない自分になど、存在する価値はない。
(盟主様は、焦る事はないとおっしゃった……たっぷり時間をかけて、ユーたちを皆殺しに出来るという事よ魔女結社)
『お前は、風の戦士ではない!』
 アトランティスの戦士、の生まれ変わりであるらしい少女たちが、テレビの中で乱闘を始めていた。
『この偽物! 聖なる鏡が、お前なんかを選ぶはずがないわ!』
『聖なる鏡は嘘をつかない! お前こそ、偽の聖なる鏡に選ばれた偽物の戦士!』
『あなたたち、さてはアトランティスを滅ぼした悪魔族の回し者ね!? 許せない!』
 殴り合い、髪を掴み合い、物を投げ合う少女たちを、司会者のオカルトアイドルが煽り立てる。
『おぉーっとお、聖なる戦士たちの仲間割れ! これも悪魔族の策略なのか。アトランティスを滅ぼした最終戦争が、この日本で勃発してしまうのかああ!? 事態を止められるのは、もはやリーダーである光の戦士ただ1人! 光の戦士の方、この番組を見ていらっしゃるなら御連絡を!』
『あっははははは、これこれ! 最後は絶対こうなるのよねえ、この番組』
 盟主が本当に、楽しそうにしている。
『この子たちに、擬似超能力でも持たせてみましょうか。案外、本当に最終戦争を引き起こしてくれるかも知れないわ。霊的進化への道が、予定より早く開けるかも』
「……私好みの展開って、これですか」
 溜め息をつきながらエヴァは、壁に掛けられた鏡を拭いた。
 この鏡にも、あの牝獣が思い切り汚物をぶちまけてくれたものだ。
 綺麗になった鏡の中から、エヴァ・ペルマネントが、じっと見つめてくる。
「……お前たち、虚無の境界には頼りたくなかった。だが、もはや他に手段はない」
 鏡の中で、エヴァが言った。いや、エヴァはそんな事を言ってはいない。
「頼む……イアル・ミラールを、助けてくれ」
 鏡の中で、そんな事を言っている自分の姿を、エヴァは睨み据えた。
「これは、まさか聖なる鏡の導き……なわけないわよね。ユーは誰? 私に化けるなんて、命知らずもいいところ」
「私は鏡幻龍。今の状態では、鏡を通してしか、お前たちに語りかける事が出来ない」
「わけのわからない事を……とにかく、イアル・ミラールなんて人の名前は知らないわ。知った事でもない」
 エヴァは、鏡に背を向けた。
 鏡の中のエヴァは、じっとこちらを見つめている。
 振り返らずに、エヴァは言った。
「……私はね、忙しいの。そう、お部屋の掃除なんてしてる場合じゃなかったわ」
『エヴァ、どうかしたの?』
「いえ、何でもありません盟主様……少し、私の好きなようにさせていただけますか?」
『元々そのつもりよ。ふふ、頑張ってね』
 通話が切れた。
 エヴァは、あまり綺麗になっていない部屋を見回した。
「そうよ、この部屋はユーに掃除させなきゃね……待ってなさい、野良犬ちゃん」