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<PCシチュエーションノベル(グループ3)>


くすしき魔が歌


 臨時休業である。
 だが八瀬葵は出勤していた。休業日にしか出来ない仕事は、いくらでもあるからだ。
 その仕事はしかし全て、店主に奪われてしまった。
 いいから君は、話さなければならない事を全て話して来なさい。
 店主はそう言って葵を客席に座らせ、自身は厨房に引きこもって念入りな清掃をしている。
 そういった作業を店主に押し付け、従業員たる自分はこうして紅茶を啜っている。
 落ち着かなかった。紅茶の味など、わからなかった。
「美味しい……良い紅茶だ。貴女の御主人は、素晴らしい執事になれますよ」
 客人が、手つき優雅にティーカップを保持したまま、店主夫人に微笑みかける。
「ロートシルト家で、雇いたいほどです」
「そうしたら私たちも、オーストリアへ引っ越さなきゃいけなくなりますね」
 店主の奥方が、綺麗な口元で微笑み返しながら、鋭い目で客人を観察している。
「執事さんなら、もういらっしゃるんじゃないですか?」
「あの男は」
 客人が、ちらりと葵の方を見る。
 子供らしく、と言うべきか悪戯っぽい光を湛えた、茶色の瞳。
 その笑顔は、天使を思わせる。冗談抜きで、この世のものではない何かを思わせる。
「今は、彼の執事ですから」
「……やめて下さい」
 何故か見つめ返す事が出来ずに俯いたまま、葵はそれだけを言った。
 客人はただ、天使のように微笑んでいる。
 天使の歌声。そう呼ばれている人物だ。
 さらりとした銀色の髪は、光の当たり方によっては白髪にも見えてしまう。
 白髪の老人であるべき年齢の、しかし少年であった。
 瑞々しい丸みを帯びた幼い顔は、永遠に老いとは無縁なのではないか、とも思えてしまう。
「ニコラウスさん……でしたね」
 店主夫人……弥生・ハスロが、いくらか口調を改めた。客人を、まるで観察するように見つめながらだ。
「オーストリアから、おいでいただいて……お話をする機会を下さった事、感謝いたします」
「お礼を言われる事ではありませんよ。貴女たちに招いていただいたわけでもないのに、私が勝手に来ただけなのですから」
 ニコラウス・ロートシルト。
 音大にいた頃、その名前くらいは聞いた事があったかも知れないと葵は思う。ボーイソプラノとして、世界的に有名な人物なのだ。
「感謝しなければならないのは、私の方です……孫が大変、お世話になってしまって」
 孫。この少年の孫とは一体、誰の事なのか。
 自分、八瀬葵だ。
 20歳の青年と、十代前半の少年にしか見えない欧米人。
 兄弟、になら見えない事もないだろう。
 だが、祖父と孫なのだ。それも養子縁組の類ではない。
 この少年が、とある日本人女性に産ませた子供は、紛れもなく葵の実の父親なのである。
「本当に……お年を召して、いらっしゃらないんですね」
 弥生が、驚愕を隠さずに言った。良くも悪くも、この女性は正直なのだ。
「嘘をおっしゃってる、わけではないのは、わかります。貴方からは本当に……得体の知れない力を、感じてしまいますから」
「人ならざるものと向き合い、時には戦う。そのようなお仕事を、しておられる?」
「昔、ちょっとね」
 弥生が、いくらか不敵に微笑んだ。
「昔取った杵柄を振り回して、ちょっと葵君のルーツみたいなもの、調べさせていただきました。申し訳ないんですけど……ロートシルト家の方々の、あんまり公に出来ないところにアクセスしちゃったかも知れません」
「ほう。何か、ご覧になりましたか?」
「女性の方が、歌っておられました……ものすごい未練を、ね」
 ニコラウスが目を閉じた。
 弥生は、話を続けた。
「聴く人を巻き込みかねない、強烈な未練です。まずは葵君が巻き込まれました。だから私、その人と戦うしかないと思ったんです。思った瞬間……誰かが、助けに来てくれました。同じく、女性の方だったと思います」
 キミを守ってくれている人がいる。弥生は確かに、そんな事を言っていた。
 あの時の事を、葵自身はよく覚えていない。
 自分がどういう状態であったのかは、しかしわかる。
 あの歌を作曲し、歌い、投稿した時と、同じような気持ちに自分は陥っていた。その気持ちが、止められなかった。
 自分はまたしても、あの歌で、誰かを不幸にしようとしていたのではないのか。
 それを止めてくれた誰かがいる、と弥生は言っているようであった。
「和服の女性……茜色の着物を、着ておられました。はっきりと見えたのは、それだけです」
「……弥生・ハスロさん、でしたね。貴女の力は、どうやら本物のようです。いささか失礼な言いようになりますが」
 ニコラウスが、目を開いた。
 茶色の瞳が、翳りを帯びている。闇に近いほどの翳りだ。
 14歳の時から、全く年を取っていない、70歳の老人。
 その本来の年齢が、眼差しにだけ表れている。葵は、そんな事を感じた。
「高らかに未練を歌い上げる、その女性に関して……弥生さんの見解を、お聞かせいただきたいと思いますが」
「あの人は……」
 綺麗な左右の五指をテーブル上で組みながら、弥生は沈思した。
「……昔、独学で魔法を勉強していた時に私、ライン川の妖精について調べた事があるんです。葵君の歌が、あの人を呼び出した時、何故かその事を思い出しまして。感じが似ていた、のかも知れません」
「ライン川の妖精、ですか」
「はい……くすしき魔が歌、を歌う、あの人です」
 なじかは知らねど心わびて……と訳詞された、あの歌なら、葵も音大で歌った事がある。
 妙に馴染む、とは思わない事もなかった。
「くすしき魔が歌……まさしく、私どもロートシルト家のためにあるような言葉ですね」
 眼差しを翳らせたままニコラウスが、天使の微笑を浮かべる。そして語る。
「ライン川に身を投げて妖精となったのは、未婚の乙女です。血筋など残ってはいません。彼女が残したものは、ただ1つ……歌、のみです。この歌は当時、似た境遇にあった大勢の女性たちの心に影響をもたらしました。感化した、と言ってもいいでしょう」
「その女性たちの中に」
 微かに息を呑みながら、弥生が訊く。
「葵君やニコラウスさんの、血筋に連なる方が?」
「いた、とロートシルト家には伝わっています。彼女は、ある男性に恋をしました。ですが、その人と結ばれる事はありませんでした。何故ならば彼女はその時、すでに人妻であったからですよ。ロートシルト家、当主夫人……道ならぬ恋に身を焦がすなど、許されない立場にある人でした」
「道ならぬ恋に、身も心も焦がしながら……その人は、歌っていたのでしょうか? 未練を、高らかに」
 弥生は言った。
「それを、私は見てしまった……」
「歌っていたのでしょうね。ライン川の妖精が遺した、あの歌を」
 ニコラウスの顔から、微笑が消えた。
「くすしき魔が歌を……彼女は、最も禍々しい形で受け継いでしまったのですよ」
「禍々しい、とは?」
「当主夫人でありながら彼女は、夫ではない男性に思いを寄せるあまり……ある行いに出ました。『くすしき魔が歌』を高らかに楽しそうに歌いながら、彼女はそれを実行したのです」
 ニコラウスは息をついた。
「それ、とは何か。かの当主夫人は一体、何をしたのか。残念ながら、詳細は伝わっていません。当時の人々が、ロートシルト家の歴史に記す事を拒むほどの何か。それが彼女によって行われた結果……大勢の人が、死にました。彼女の夫である当主をはじめ、ロートシルト家の主立った人々が、ことごとく惨い死に様を晒したという事です。彼女自身も含めて」
 道ならぬ恋に身も心も焦がした女性が、思い人と結ばれるために……邪魔となる人々を、片っ端から殺害した。そういう伝説なのであろうか。
 思いつつ葵は、頭の中に曲が流れるのを止められなかった。
 悲愴で残酷な、恋の歌。
 この場に機材があれば、作曲に取り掛かっているところである。
(何を……考えてるんだ、俺は! こんな時に!)
 葵は、頭を激しく横に振った。
「葵君……? どうしたの?」
 弥生が、気遣わしげに声をかけてくる。
 ニコラウスが、微笑みかけてくる。
「悲愴にして残酷な、道ならぬ恋の歌……いいじゃないか。聴いてみたいな、私は」
「…………!」
 葵は思わず、睨みつけてしまった。
 沈痛な翳りを帯びた茶色の瞳が、じっと見つめ返してくる。
「我々音楽に関わる者たちの、度し難いところでね。作り上げてしまった曲を、歌を、どれほど禍々しいものであろうと世の中に流さずにはいられない。大勢の人の耳に、届けずにはいられなくなってしまうんだ」
「……流した結果……届けた、結果……何が起こったのか……!」
 貴方はわかっているのか、と葵は怒鳴ってしまうところだった。
 他人に怒りをぶつける事ではない。
 これは、これこそは、葵自身が正面から向き合わなければならない宿命なのだ。
 弥生が、それに力を貸してくれようとしている。
 ニコラウス・ロートシルトも、こうしてヨーロッパから駆けつけてくれた。
「……話を戻しましょう。ロートシルト家の血縁者で生き残ったのは、ただ1人でした。彼女の娘です」
「当主夫妻の、御令嬢……その方のおかげで辛うじて、ロートシルト家の血統は守られたと」
 弥生の言葉に頷きながら、ニコラウスはなおも語る。
「その令嬢は、母親を憎みました。父の仇であり、兄弟姉妹の仇であり、一族の仇である母親を生涯、激しく憎み続けました。道ならぬ恋に溺れて破滅を招いた母親を、決して許しはしませんでした。その憎悪が、以降のロートシルト家に呪いをもたらしたのです……子が親を憎み、親が子を憎む、宿命の呪いです」
「親子で憎み合う……呪い?」
「一代おきに、発現してしまうのですよ。『くすしき魔が歌』を受け継いだ当主夫人の、禍々しい力が」
 葵の父親は、普通の人間だった。
 14歳のまま年を取らぬ祖父と、人を殺す歌を歌う孫の間で、あの父は一体どのような思いでいたのか。
 葵の脳裏で、1つの記憶が蘇った。
 父が、電話をしている。受話器を握り締め、怒り叫んでいる。電話の相手を罵っている。
 貴方は、母さんを捨てたんだ。
 いつまでも年を取らない貴方は、年老いてゆく母さんを捨てたんだ。
 そう叫びながら父は、涙を流していた。
 法廷では冷静沈着なのであろう父が、まるで子供のように感情を剥き出しにしていた。
 父の母、すなわち祖母がいかなる女性であったのか、葵は知らない。物心ついた頃には、すでに亡くなっていた。
 葵は言った。
「父さんは、貴方を憎んでいた。貴方の奥さん……自分の母親であり俺の祖母でもある人を、愛していた。事情は知らない、だけど結果と形だけを見れば……貴方は、彼女を捨てたって事にしかならないよな。父さんの言う通り」
「ち、ちょっと葵君……」
「いや、確かにその通り。弁解も言い訳も、私にはする資格がない」
「言い訳を聞きたいわけじゃあないよ。ただ……俺のお祖母ちゃんは一体どんな人だったのか、それを聞いてみたいとは思う」
「彼女は今も、お前を守ってくれているよ。弥生さんが見た通りに」
「……茜色の着物の人?」
 弥生が言った。
「あの人が、ニコラウスさんの……」
「妻です。恐らく、間違いはないでしょう」
 ニコラウスが、遠くを見つめる。
「子孫を残してはならない私が、この日本で彼女に出会い……結局は、ロートシルト家の呪われた宿命を、息子と孫に押しつける事となってしまった。本来、私がやらなければならない事を、妻がしてくれているのです。守護霊のようなものとなって」
「ニコラウスさんが、やらなければならない事……それはつまり、葵君を守る事?」
 弥生が、ちらりとニコラウスの方を見た。
「そのために、これからも最大限の協力をして下さると。そのような解釈をしても大丈夫ですか?」
「無論です。貴女がた御夫妻への感謝は、言葉にはし尽くせない。行動で、示させていただきますよ」
「……俺なんかよりも」
 葵もニコラウスの方を見た。睨む眼差しに、なってしまった。
「貴方は……父さんに、会うべきだと思う」
「……そう……なのだろうね……」
「葵君。気持ちはわかるけれど、お父様の方が会いたがらないわ。無理に引き合わせたりしても、こじれるだけだと思う」
 弥生が言った。
「……ごめんなさいね。ご家族の事、勝手に調べさせてもらったの。葵君に恨まれても、しょうがないと思うけど」
「いえ……本当は、俺の方から……話さなきゃいけない事、だったかも知れません」
 自分の能力に関して調べるとなれば、家系にも触れる事になる。八瀬家の事情を、まるっきり避けるというわけにもいかないだろう。
「最大限の協力をして下さるなら、遠慮なくお訊きしますね。一代おきに力が発現する、とおっしゃいましたけど……葵君と同じ力を、ニコラウスさんも?」
「私の歌は、葵の歌とは違います。葵の歌は、例えば人の傷を癒したりする事も出来ますが……私の歌は本当に、人に災いしかもたらしません。私の歌はね、人の命を吸うのですよ」
 ニコラウスは苦笑した。
「何故そのような力が備わってしまったのか、根源的な事はわかりません。かの当主夫人より受け継いだ禍々しい力である、としか」
「根源的な事に関しては……その当主夫人ご本人を調べさせていただくしか、ないんですね」
 誰かが自分に微笑みかけている。突然、葵はそんな気がした。
 この場にいない、この世にいないはずの女性が、葵に向かって微笑んでいる。
 音が聞こえた、ような気もした。その女性が発している、音。彼女の歌う、歌。
 これほど禍々しく、これほど美しい歌を、葵は聴いた事がなかった。