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<東京怪談ノベル(シングル)>


鏡幻龍と調教師


 馴染みのある臭いだ、とエヴァ・ペルマネントは思った。
「あの牝犬ちゃんが……マーキングしまくってるみたいねえ、相変わらず」
 臭いで、わかるようになってしまった。エヴァとしては苦笑するしかない。
「さあ出てらっしゃい野良犬ちゃん。いるのは、わかってるのよ?」
「野良犬じゃあない、私らの飼い犬さ」
 とある高級ホテルの地下。下水道であろう。あちこちを汚水の川が流れる、石造りの迷宮である。
 いくらか距離を隔ててエヴァと対峙しているのは、1人の魔女だ。
「あの子にはね、イアル・ミラールという、ちゃんとした名前があるんだ。わかるかい? 私たちが名前を奪い、返してやった……与奪の権は全て、私たちが握っているという事。あの子は完全に、私たちのものなのさ」
 1人であるはずがない、とエヴァは思っている。
 ここは魔女結社の拠点なのだ。姿を見せている魔女は1人だけだが、姿を見せていない敵が、周囲いたるところに潜んでいるのは間違いない。
「そう……名前を返してあげた、というわけ」
 誰かが彼女の事を思い出したのだろうか、とエヴァは思った。
 だとしたら、その誰かは今頃、いなくなったイアル・ミラールという娘を心配しているのだろうか。
(……でも駄目よ、ユーには返してあげない。あの牝犬ちゃんは、私のものなんだから)
 ここにはいない誰かに心の中で語りかけながら、エヴァは片手を伸ばした。そして掴んだ。
 この下水道に……否、ホテル全域に漂いたゆたっている、目に見えないものを。
「私の好きなようにしていい、と盟主様はおっしゃった。それはね、つまりユーたちを皆殺しにする許可をいただけたという事」
 怨霊、である。
 魔女結社に命を奪われ、それを怨み、だが自力で魔女たちに復讐する事は出来ぬまま、悶々と弱々しくこの世に存在し続ける者たち。
 その一部が、エヴァの優美な五指によって、空間から掴み出されたところである。
「与奪の権とか言っていたわね。それは愚かな思い上がりというもの……私に今、生殺与奪の権を握られているのはユーたちの方」
 骸骨だった。
 学校の理科室にでも立っていそうな、一揃いの人骨。その頸部を右手で掴んだまま、エヴァは言い放った。
「私の牝犬ちゃんを、大人しく返してくれるのなら……死に方くらいは、選ばせてあげるわよ?」
 言いつつ、その白骨死体を振り回して石壁に叩き付ける。
 骸骨が、砕け散った。
 無数の骨が、人型ではない形に組み上がってエヴァの右手に握られ、ギュイィーン! と轟音を発する。
 それは、人骨で出来たチェーンソーだった。
 自分では怨みを晴らせない非力な怨霊が、霊鬼兵エヴァ・ペルマネントの力によって、物質的な力を有する武器として実体化を遂げたのである。
「虚無の境界のガラクタが……解体して、もっとマシな人形に作り変えてやろうか!」
 魔女の叫びに応じて、水飛沫が散った。
 汚水の川の中から、おぞましい生き物たちがシャチのように飛び出し、あるいはワニの如く這い上がって来てエヴァを襲う。
 牙を剥き、あるいは触手を蠢かせる、醜悪な怪物たち。魔女結社が作り出した、あるいは召喚した、人ならざる兵団。
 エヴァは、人骨のチェーンソーで迎え撃った。
「さて……解体されるのは、どちら? かしらねえっ」
 左右の細腕が、轟音を立てる巨大な得物を振りかざし、あらゆる方向に叩き付ける。
 死者の絶叫、のような音を発しながら猛回転する刃が、怪物たちを伐採してゆく。
 様々なものが飛び散り、ぶちまけられ、下水と一緒に流れて行った。
 怪物たち、だけではない。迷宮のあちこちで炎が燃え盛り、電光が荒れ狂い、吹雪が発生している。
 それら全てが、エヴァを襲う。
 物陰に潜む魔女たちの、攻撃魔法だった。
「ウェイク……」
 呟きながら両眼を赤く発光させるエヴァの周囲で、炎が、電光が、吹雪が、打ち砕かれて飛び散り、消えてゆく。
 人面が2つ、浮遊・旋回していた。
 苦痛・憎悪の形相を刻んだ、人面の楯。怨霊を材料として作られた防具が、人工衛星のように飛び交いながら、魔女たちの攻撃魔法をことごとく弾いて粉砕する。
「……ゲシュペンスト・イェーガー!」
 エヴァの叫びに応じて、またしても怨霊たちが実体化を遂げた。
 非力な残留思念たちが、集められて練り固められ、複数の人型を成し、強靭な怪物の群れとなって迷宮内を疾駆・跳躍する。
 ゲシュペンスト・イェーガー。即席の霊鬼兵。
 その軍団が、物陰に潜む魔女たちをことごとく引き裂き、叩き潰してゆく。
 超高速の殺戮が、迷宮の各所で繰り広げられた。断末魔の悲鳴が、おぞましく響き渡る。
「さあ! さあさあさあさあ出てらっしゃい牝犬ちゃん! ユーにはね、お掃除をしてもらわなきゃいけないんだからっ!」
 襲い来る怪物たちを切り刻み、その肉片を蹴散らしながら、エヴァは叫ぶ。
 応ずるかのように、その時、獣臭い風が吹いた。
 ゲシュペンスト・イェーガー数体が、砕け散った。
 不可視の攻撃を感じ取ったエヴァが、反射的にチェーンソーを振り上げる。
 衝撃があった。
 人骨のチェーンソーが粉砕され、弱々しい怨霊の破片に変わりながら消滅する。
「くっ……」
 呻くエヴァと対峙する格好で、獣臭さの塊が、そこに着地していた。
「がふぅうう……るるる……」
 汚れた美貌が凶悪に歪み、形良い唇がめくれ上がって牙が剥き出しになっている。
 まさしく獣の牙だった。肉体の外見も、完全な肉食獣に変わりかけている。
 べとべとと汚れた髪をまとわりつかせた全身は、魅惑的なボディラインを辛うじて維持しながらも、獣の筋肉を躍動させている。
 牝獣が、イアル・ミラールという名前を取り戻しながらも、今や本物の獣に変わりかけていた。
 痺れの残る片手で、エヴァは懐からコンパクトミラーを取り出し、開いた。そして語りかける。
「で……これ、どうにか出来るのかしら? 元の飼い主さんとして」
「私は、飼い主だったわけではないよ」
 鏡に映ったエヴァ・ペルマネントが、そんな事を言っている。
「しかし、これは……今のイアルは、魂までもが完全な獣と化している。魂に合わせて、肉体も……」
「その通り。この子はねえ、人間の心とか尊厳とか……獣になるのに不必要なものは全部なくしちまってるのさあ」
 魔女が笑っている。
「だから名前を返してやっても人には戻れない。牙や爪だけじゃあない、身体の中身も犬のはらわた……チョコレートとか食べたら、死ぬよ?」
「ぐぅるるるるる……」
 唸り牙を剥くイアルに護衛されたまま、魔女がなおも言う。
「そこにいるんだね、鏡幻龍……さあ、いいかげんに悪あがきはやめて私たちのものにおなり。そこのガラクタ人形を叩き壊して今、解放してあげるよ!」
 その言葉を号令として、牝獣が襲いかかって来る。
 人面の楯が2つ、その襲撃を正面から受けて砕け散った。
 イアルの、体当たりか、爪の一撃か、それとも蹴りか。もはやエヴァの目をもってしても、捉えられる動きではない。
「がふぅぁああああああッ!」
 咆哮と共に、獣臭い暴風がエヴァの身体をかすめる。
 それだけだった。それだけで、エヴァの身体は真っ二つになっていた。
「ぐぅ……え……ッ」
 上半身だけになりながらエヴァは倒れ伏し、体液を吐いた。
 下半身は、少し離れた所で尻餅をついている。
 両断された霊鬼兵を、さらにズタズタに引きちぎるべく、牝獣イアルが襲い来る。
 エヴァは叫んだ。
「ステイ!」
 イアルの身体がビクッ! と停止した。飼い主に叱られた犬のように。
「な……何をしているイアル・ミラール、さっさとそいつをズタズタにしておしまい」
 いくらか狼狽している魔女に、エヴァは倒れ伏したまま人差し指を向けた。
「無駄よ……ユーたちはね、この牝犬ちゃんを……ただ一方的に辱めて、屈服させたつもりになっているだけ……だけど私は、こうして自分の全てを……はらわたまで晒してねえ……命懸けで、この子を調教してきたのよ。だから……この子の飼い主はね、私なの」
 エヴァの人差し指に従うかの如くイアルが、四つん這いの身体ごと魔女の方を向く。そして牙を剥く。
 ごぼっと体液を吐きながら、エヴァは命じた。
「ゴォ……アヘーッド!」
「ぐぅ、ぅあああああうッッ!」
 獣臭い暴風が、血生臭い暴風に変わった。
 滑稽な悲鳴を上げながら魔女が、イアルに引き裂かれ、食いちぎられ、叩き潰されて原形を失う。
 屍の破壊に没頭する牝獣を、生き残ったゲシュペンスト・イェーガーたちが取り囲む。5体。
 これしきの数で、イアルを捕縛するのは不可能であろう、とエヴァは思ったが、
「よく頑張ってくれたエヴァ・ペルマネント。後は私に任せてもらおう」
 近くに投げ出されたコンパクトミラーが、声を発した。いや、声だけではない。
「お前の有する、怨霊の力……借りるぞ」
 赤、青、黄、緑と紫。5色の光がコンパクトミラーから溢れ出し、ゲシュペンスト・イェーガー5体を眩く照らす。
 即席の霊鬼兵たちが、イアルを取り囲んだまま歪み、捻れ、細長く伸びてうねった。まるで蛇のように。
 否。それは龍であった。
 5匹の龍、5色の龍が、イアルを取り巻いて激しく渦を巻く。
 5色の光の中で、牝獣は硬直した。
 硬直したイアルの肉体が、そのまま石化してゆく。
 5色の光は、消え失せた。
 龍と化したゲシュペンスト・イェーガーたちの姿もなく、そこには凶暴な躍動感を有する牝獣の石像だけが残された。


「なるほど、これが……鏡幻龍の力、というわけ」
 石像にシャワーの水を浴びせながら、エヴァは呟いた。
 ちぎれた身体はどうにか繋がったが、消化器官の一部がまだ断裂しているので食事は出来ない。
 空腹に耐えながらエヴァはどうにか石像を隠れ家に運び込み、今は洗浄をしているところである。
 手間はかかるが、生身の状態で入浴させるよりは遥かに楽だ。
「まったく、手のかかる牝犬ちゃん……ふふっ。イアル・ミラールなんて、オシャレな名前だったのねえ。ポチとかコロとかで充分なのに」