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風の明王
蜘蛛の糸である。
鋼よりも強靭で、なおかつ凄まじい粘性を有する物質。
刃物で切断出来るものではない。が、この退魔の小太刀であれば。
「オン……ソンバ、ニソンバウン、バザラウンハッタ!」
俺は降三世明王の真言を唱え、印を結び、そして小太刀を抜き放った。
斬撃が、風のように一閃した。
全身に絡み付く蜘蛛の糸を、俺は綺麗に断ち切る事が出来た。
だが、必殺の斬撃には程遠い。
まだだ。この敵どもに勝つためには、もっと高速の斬撃が必要なのだ。そう、風のように。
風を、己のものにしなければならない。
地水火風それに天。これら五行の力を、俺たち一族は五大明王に無理やり当てはめて修練を積み、退魔の戦技を磨き上げてきた。
あらゆる戦いに、勝つためにだ。
勝たなければならない。勝たなければ、何も守れはしない。
俺は見回した。睨み据えた。
シューシューと糸を噴射しながら牙を剥き、おぞましく節足を蠢かせる生き物の群れ。
俺は小太刀を構えて今一度、真言を叫んだ。風を、念じながら。
実在するかどうかもわからぬ降三世明王に、風を求めながら。
空気が、俺の周囲で渦を巻いた。
疾風、あるいは旋風。
風が、俺の身体を包み込む。俺の身体と、同化してゆく。
風は俺になり、俺は風になる。
風のように動き、超高速の斬撃を繰り出す。そのためには、風になるしかないのだ。
無数の蜘蛛糸が、あらゆる方向から降り注いで来る。
一陣の風が駆け抜けるかのように、俺はその全てをかわした。
かわしながら、踏み込んだ。
小太刀が暴風の如く閃いて、斬撃の弧を無数、超高速で描き出す。
糸を噴く怪物たちが、その弧に触れて縦に、横に、斜めに、食い違ってゆく。
全て、真っ二つだった。
返り血、なのかどうかも判然としない体液が、俺の全身を汚してゆく。
死の汚れにまみれながら、俺は駆けた。
退魔の小太刀を振るい、斬撃の風を吹かせ続けた。
勝たなければならない。
その思いに満ちた俺の心の中で、黒髪がサラリと揺れた。
長い黒髪を舞わせながら、誰かが振り向き、微笑んでいる。俺に、微笑みかけてくれている。
俺の方など、振り向いてくれるはずのない人が。
「…………姫……」
俺は呟いた。決して届く事のない言葉。
それでいい。
俺はただ、戦うだけだ。勝つために。
そして、守るために。
ある種の蜘蛛は、小蝿やゴキブリを捕食してくれる、言わば益虫であるという。
戯言だ、と加賀見凛は思う。
家の中で、この生き物たちを目撃するくらいであれば、ゴキブリに徘徊される方がまだましだ。
「ふおおおおおおおおおおお」
朝の加賀見家に悲鳴を響かせながら、凛は硬直していた。パジャマを脱ぎかけたまま、動けなかった。
種類などわからない。とにかく、蜘蛛である。
8本足を薄気味悪いほど敏捷に動かしながら、畳の上を闊歩している。
蜘蛛糸に絡め取られたかの如く、凛は動けなかった。
恐怖で全身が麻痺している。叫ぶ事しか出来ない。
「あっがががががが蜘蛛がクモが、くくくくくくもがああああああ」
小さなパピヨン犬が、ひょこっと凛の部屋を覗き込んだ。
加賀見家の飼い犬、花である。
とてとてと部屋に歩み入って来た花が、ぱくっと蜘蛛を拾い食いしてしまう。
助かった、にもかかわらず凛は悲鳴を止められなかった。
「ぎゃああああああああ花ちゃん!」
「ああもう、うるさいねえ何やってんの朝っぱらから」
言ったのは花、ではなく母であった。ずかずかと息子の部屋に踏み込んで来る。
「とっとと着替えて朝ごはん食べちゃいな。お母さん仕事なんだから」
「おっおおおおおおお母様、蜘蛛がクモが」
「あんたって昔っから誰彼構わず喧嘩売ってたくせに、蜘蛛だけは苦手なんだねえ。で? どこにいるの蜘蛛なんて」
「はっ、花ちゃんが花ちゃんが」
恩人である飼い犬を、凛は抱き上げた。
「駄目だよ花ちゃん! いや確かにクモってのはカニの遠い親戚で、味も似たようなもんだって話もあるけど!」
抱き上げられ気遣われて、花が迷惑そうにしている。
母が、溜め息をついた。
「……いいから、早く朝ごはん食べて学校行きな。いつまでも花ちゃんにお世話されてないで」
「わ、わかったよ……」
花を解放しながら凛はふと、机に立てかけてあるものを見やった。
鞘を被った、小太刀。
祖母がくれた、あるいは押し付けてきた、銃刀法違反品である。
夢の中で自分は、これを振り回していた、ような気がする。
(退魔の小太刀……ねえ)
ゲーム内で、そんな類のアイテムを手に入れた事なら何度もある。
今、凛が思うのは、それだけだ。
「あー、まったく……変な夢ばっか見るなあ、もう」
学校からの帰り道。
友人数名と別れ、1人とぼとぼと自宅へと向かいながら、凛は呟いていた。
昨夜の夢が、ぼんやりと脳裏にこびり付いて消えてくれない。
それでいて、どんな夢であったのか、はっきりとは思い出せないのだ。
ただ、大量に蜘蛛が出て来たような気がする。悪夢であったのは間違いない。
物心ついた頃から、どうにも蜘蛛だけは苦手であった。
「何でだろうな〜。蛇とかミミズとかは全然平気なのに……うん?」
凛は足を止めた。何やら見過ごせないものが、視界をかすめたからだ。
3歩ほど後退し、路地裏を覗き込む。
凛よりもいくらか年上、高校生と思われる少年2人が、殴り合っていた。
無言でだ。
無言で胸ぐらを掴み合い、拳を叩き付け合っている。
いや、拳だけでは済まなくなった。
1人がバチッ! とナイフを開いた。もう1人も、いつの間にか特殊警棒を手にしている。
「あー……ちょっといいかな」
凛は、声をかけた。
「てめーこの野郎とか、やんのかコラァ! とか声出した方がいいと思う。大声出さないと、何かこう……内にこもった感じの、悲惨なだけのブン殴り合いになっちゃうからさ。あと、さすがに刃物はやめといた方がいいと思うなあ」
「…………」
少年2人は、やはり無言だ。
叫ばず、喚かず、実に冷静に、殺し合いをしようとしている。
否。彼らの目には冷静さ、すらない。何の感情も宿していない両眼が、互いを見ている。
「おい、あんたら……」
声をかけようとして、凛は気付いた。
もう1人いる。少年ではなく、少女。
ブレザーの制服がよく似合う、美しい少女が1人、少年2人の殺し合いを楽しげに見物している。
「けんかをやめて〜♪ ってとこなわけよ今。だからねえ、邪魔しないでくれる?」
その美貌が、にっこりと凶悪に歪む。
「ふたりをとめて〜♪ ……なぁんて嘘嘘、止めちゃいやん。男2人が、あたしを巡って殺し合い! このときめく乙女心、中坊のガキにゃわっかんないかなぁあ」
「あんた……」
凛は見た。
少女が何気なく動かした繊手から、キラキラと微かな光が伸びているのを。
綺麗な五指の先端から、少年2人に向かって伸びた……それは、糸であった。
少年たちは今、糸で操られる人形と化しているのだ。そして、殺し合いをさせられている。
凛は呟いた。
「……蜘蛛の……糸……?」
「……へえ、見えるんだ」
少女の笑顔が、邪悪さを増した。
少年2人が、倒れて気を失った。まさに糸の切れた人形の如く。
つい今まで彼らを束縛していた糸が、少女の繊細な指先から伸びて漂い、キラキラと微かな光を散らす。
「こっちの坊やの方が、面白そう。ね、お姉さんとお人形遊びしよ? 君、お人形の役ね」
「何だよ、あんた……!」
わけがわからぬまま、凛は後方に跳んだ。
上空から、おぞましい気配が降って来たからだ。
それは凛の眼前で、長大な8本の節足を使って軽やかに着地し、牙を剥いている。
小柄な凛よりも一回りは巨大な、蜘蛛であった。
凛の身体が、硬直した。恐怖で、全身が麻痺している。
……否、恐怖ではない。いや恐怖には違いないが、それはこの巨大な蜘蛛に対してのものではない。
(何だ……これは……)
冷たく、それでいて激しく燃え盛るものが、凛の胸の内を満たして荒れ狂う。
かつて自分は、この得体の知れない感情のおもむくままに戦った。
この蜘蛛たちと……そして、彼らを戦力として使役する者たちと。
そんな事を、凛は思った。
心の内で、冷たく激しく燃え盛るもの……それは、殺意であった。
自分は今、殺意に支配されつつある。
凛にとっての、恐怖の対象。それは、蜘蛛ではない。
(殺意を……止められなくなった、俺自身……?)
小さなものが、足元に忍び寄って来る。何やら大きなものを口に咥えた、小型犬。
「花ちゃん……!?」
加賀見家の飼い犬が、可愛らしい上下の牙でがっちりと挟み込み、運んで来てくれたもの。
それは、鞘を被った小太刀だった。
中学生の少年と、小さなパピヨン犬。
両者をまとめて絡め取るべく、大蜘蛛が糸を噴射する。
風のように、超高速で切り刻むしかない。糸も、その発生源たる蜘蛛の巨体も。
頭の中に、わけのわからぬ言葉が浮かんだ。
それを、凛は口にした。
「オン……ソンバ……」
風が吹いた。
風が、自分と同化した。そんな事を感じながら凛は、
「ニソンバウン……」
花を左腕で抱き上げつつ、路面を蹴った。
疾駆。それと同時に、小太刀を抜く。花の口元に、鞘だけが残った。
抜き身の小太刀が、いくつもの弧を描く。
「バザラウン……ハッタ……」
蜘蛛糸が、切断されてヒラヒラと舞った。
大蜘蛛が、真っ二つになりながら体液をぶちまける。まるで、あの夢のように。
「やるじゃない、中坊ちゃん」
少女の、声が聞こえる。だが姿はもう見えない。
「その小太刀、まさかとは思うけど……ふふっ、確かめたいから生かしといてあげる」
「確かめる……って、何を……」
呆然と、凛は問いかけた。答えはなかった。
「俺の……」
両断された大蜘蛛の屍が、急速に腐敗し、崩れ、消滅してゆく。
これを、自分がやったのか。
あの意味不明な夢を自分は今、起きながら見ているのか。
「俺の……正体でも、調べてくれるのか……なら助かる、んだけどなあ……」
左腕には、鞘を咥えた小型犬。右手には抜き身の小太刀。
誰かに見られでもしたら、少し面倒な事になる。そこに思い至るまで凛は、今しばらくの時を要した。
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