コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ノベル(シングル)>


風の明王


 蜘蛛の糸である。
 鋼よりも強靭で、なおかつ凄まじい粘性を有する物質。
 刃物で切断出来るものではない。が、この退魔の小太刀であれば。
「オン……ソンバ、ニソンバウン、バザラウンハッタ!」
 俺は降三世明王の真言を唱え、印を結び、そして小太刀を抜き放った。
 斬撃が、風のように一閃した。
 全身に絡み付く蜘蛛の糸を、俺は綺麗に断ち切る事が出来た。
 だが、必殺の斬撃には程遠い。
 まだだ。この敵どもに勝つためには、もっと高速の斬撃が必要なのだ。そう、風のように。
 風を、己のものにしなければならない。
 地水火風それに天。これら五行の力を、俺たち一族は五大明王に無理やり当てはめて修練を積み、退魔の戦技を磨き上げてきた。
 あらゆる戦いに、勝つためにだ。
 勝たなければならない。勝たなければ、何も守れはしない。
 俺は見回した。睨み据えた。
 シューシューと糸を噴射しながら牙を剥き、おぞましく節足を蠢かせる生き物の群れ。
 俺は小太刀を構えて今一度、真言を叫んだ。風を、念じながら。
 実在するかどうかもわからぬ降三世明王に、風を求めながら。
 空気が、俺の周囲で渦を巻いた。
 疾風、あるいは旋風。
 風が、俺の身体を包み込む。俺の身体と、同化してゆく。
 風は俺になり、俺は風になる。
 風のように動き、超高速の斬撃を繰り出す。そのためには、風になるしかないのだ。
 無数の蜘蛛糸が、あらゆる方向から降り注いで来る。
 一陣の風が駆け抜けるかのように、俺はその全てをかわした。
 かわしながら、踏み込んだ。
 小太刀が暴風の如く閃いて、斬撃の弧を無数、超高速で描き出す。
 糸を噴く怪物たちが、その弧に触れて縦に、横に、斜めに、食い違ってゆく。
 全て、真っ二つだった。
 返り血、なのかどうかも判然としない体液が、俺の全身を汚してゆく。
 死の汚れにまみれながら、俺は駆けた。
 退魔の小太刀を振るい、斬撃の風を吹かせ続けた。
 勝たなければならない。
 その思いに満ちた俺の心の中で、黒髪がサラリと揺れた。
 長い黒髪を舞わせながら、誰かが振り向き、微笑んでいる。俺に、微笑みかけてくれている。
 俺の方など、振り向いてくれるはずのない人が。
「…………姫……」
 俺は呟いた。決して届く事のない言葉。
 それでいい。
 俺はただ、戦うだけだ。勝つために。
 そして、守るために。


 ある種の蜘蛛は、小蝿やゴキブリを捕食してくれる、言わば益虫であるという。
 戯言だ、と加賀見凛は思う。
 家の中で、この生き物たちを目撃するくらいであれば、ゴキブリに徘徊される方がまだましだ。
「ふおおおおおおおおおおお」
 朝の加賀見家に悲鳴を響かせながら、凛は硬直していた。パジャマを脱ぎかけたまま、動けなかった。
 種類などわからない。とにかく、蜘蛛である。
 8本足を薄気味悪いほど敏捷に動かしながら、畳の上を闊歩している。
 蜘蛛糸に絡め取られたかの如く、凛は動けなかった。
 恐怖で全身が麻痺している。叫ぶ事しか出来ない。
「あっがががががが蜘蛛がクモが、くくくくくくもがああああああ」
 小さなパピヨン犬が、ひょこっと凛の部屋を覗き込んだ。
 加賀見家の飼い犬、花である。
 とてとてと部屋に歩み入って来た花が、ぱくっと蜘蛛を拾い食いしてしまう。
 助かった、にもかかわらず凛は悲鳴を止められなかった。
「ぎゃああああああああ花ちゃん!」
「ああもう、うるさいねえ何やってんの朝っぱらから」
 言ったのは花、ではなく母であった。ずかずかと息子の部屋に踏み込んで来る。
「とっとと着替えて朝ごはん食べちゃいな。お母さん仕事なんだから」
「おっおおおおおおお母様、蜘蛛がクモが」
「あんたって昔っから誰彼構わず喧嘩売ってたくせに、蜘蛛だけは苦手なんだねえ。で? どこにいるの蜘蛛なんて」
「はっ、花ちゃんが花ちゃんが」
 恩人である飼い犬を、凛は抱き上げた。
「駄目だよ花ちゃん! いや確かにクモってのはカニの遠い親戚で、味も似たようなもんだって話もあるけど!」
 抱き上げられ気遣われて、花が迷惑そうにしている。
 母が、溜め息をついた。
「……いいから、早く朝ごはん食べて学校行きな。いつまでも花ちゃんにお世話されてないで」
「わ、わかったよ……」
 花を解放しながら凛はふと、机に立てかけてあるものを見やった。
 鞘を被った、小太刀。
 祖母がくれた、あるいは押し付けてきた、銃刀法違反品である。
 夢の中で自分は、これを振り回していた、ような気がする。
(退魔の小太刀……ねえ)
 ゲーム内で、そんな類のアイテムを手に入れた事なら何度もある。
 今、凛が思うのは、それだけだ。


「あー、まったく……変な夢ばっか見るなあ、もう」
 学校からの帰り道。
 友人数名と別れ、1人とぼとぼと自宅へと向かいながら、凛は呟いていた。
 昨夜の夢が、ぼんやりと脳裏にこびり付いて消えてくれない。
 それでいて、どんな夢であったのか、はっきりとは思い出せないのだ。
 ただ、大量に蜘蛛が出て来たような気がする。悪夢であったのは間違いない。
 物心ついた頃から、どうにも蜘蛛だけは苦手であった。
「何でだろうな〜。蛇とかミミズとかは全然平気なのに……うん?」
 凛は足を止めた。何やら見過ごせないものが、視界をかすめたからだ。
 3歩ほど後退し、路地裏を覗き込む。
 凛よりもいくらか年上、高校生と思われる少年2人が、殴り合っていた。
 無言でだ。
 無言で胸ぐらを掴み合い、拳を叩き付け合っている。
 いや、拳だけでは済まなくなった。
 1人がバチッ! とナイフを開いた。もう1人も、いつの間にか特殊警棒を手にしている。
「あー……ちょっといいかな」
 凛は、声をかけた。
「てめーこの野郎とか、やんのかコラァ! とか声出した方がいいと思う。大声出さないと、何かこう……内にこもった感じの、悲惨なだけのブン殴り合いになっちゃうからさ。あと、さすがに刃物はやめといた方がいいと思うなあ」
「…………」
 少年2人は、やはり無言だ。
 叫ばず、喚かず、実に冷静に、殺し合いをしようとしている。
 否。彼らの目には冷静さ、すらない。何の感情も宿していない両眼が、互いを見ている。
「おい、あんたら……」
 声をかけようとして、凛は気付いた。
 もう1人いる。少年ではなく、少女。
 ブレザーの制服がよく似合う、美しい少女が1人、少年2人の殺し合いを楽しげに見物している。
「けんかをやめて〜♪ ってとこなわけよ今。だからねえ、邪魔しないでくれる?」
 その美貌が、にっこりと凶悪に歪む。
「ふたりをとめて〜♪ ……なぁんて嘘嘘、止めちゃいやん。男2人が、あたしを巡って殺し合い! このときめく乙女心、中坊のガキにゃわっかんないかなぁあ」
「あんた……」
 凛は見た。
 少女が何気なく動かした繊手から、キラキラと微かな光が伸びているのを。
 綺麗な五指の先端から、少年2人に向かって伸びた……それは、糸であった。
 少年たちは今、糸で操られる人形と化しているのだ。そして、殺し合いをさせられている。
 凛は呟いた。
「……蜘蛛の……糸……?」
「……へえ、見えるんだ」
 少女の笑顔が、邪悪さを増した。
 少年2人が、倒れて気を失った。まさに糸の切れた人形の如く。
 つい今まで彼らを束縛していた糸が、少女の繊細な指先から伸びて漂い、キラキラと微かな光を散らす。
「こっちの坊やの方が、面白そう。ね、お姉さんとお人形遊びしよ? 君、お人形の役ね」
「何だよ、あんた……!」
 わけがわからぬまま、凛は後方に跳んだ。
 上空から、おぞましい気配が降って来たからだ。
 それは凛の眼前で、長大な8本の節足を使って軽やかに着地し、牙を剥いている。
 小柄な凛よりも一回りは巨大な、蜘蛛であった。
 凛の身体が、硬直した。恐怖で、全身が麻痺している。
 ……否、恐怖ではない。いや恐怖には違いないが、それはこの巨大な蜘蛛に対してのものではない。
(何だ……これは……)
 冷たく、それでいて激しく燃え盛るものが、凛の胸の内を満たして荒れ狂う。
 かつて自分は、この得体の知れない感情のおもむくままに戦った。
 この蜘蛛たちと……そして、彼らを戦力として使役する者たちと。
 そんな事を、凛は思った。
 心の内で、冷たく激しく燃え盛るもの……それは、殺意であった。
 自分は今、殺意に支配されつつある。
 凛にとっての、恐怖の対象。それは、蜘蛛ではない。
(殺意を……止められなくなった、俺自身……?)
 小さなものが、足元に忍び寄って来る。何やら大きなものを口に咥えた、小型犬。
「花ちゃん……!?」
 加賀見家の飼い犬が、可愛らしい上下の牙でがっちりと挟み込み、運んで来てくれたもの。
 それは、鞘を被った小太刀だった。
 中学生の少年と、小さなパピヨン犬。
 両者をまとめて絡め取るべく、大蜘蛛が糸を噴射する。
 風のように、超高速で切り刻むしかない。糸も、その発生源たる蜘蛛の巨体も。
 頭の中に、わけのわからぬ言葉が浮かんだ。
 それを、凛は口にした。
「オン……ソンバ……」
 風が吹いた。
 風が、自分と同化した。そんな事を感じながら凛は、
「ニソンバウン……」
 花を左腕で抱き上げつつ、路面を蹴った。
 疾駆。それと同時に、小太刀を抜く。花の口元に、鞘だけが残った。
 抜き身の小太刀が、いくつもの弧を描く。
「バザラウン……ハッタ……」
 蜘蛛糸が、切断されてヒラヒラと舞った。
 大蜘蛛が、真っ二つになりながら体液をぶちまける。まるで、あの夢のように。
「やるじゃない、中坊ちゃん」
 少女の、声が聞こえる。だが姿はもう見えない。
「その小太刀、まさかとは思うけど……ふふっ、確かめたいから生かしといてあげる」
「確かめる……って、何を……」
 呆然と、凛は問いかけた。答えはなかった。
「俺の……」
 両断された大蜘蛛の屍が、急速に腐敗し、崩れ、消滅してゆく。
 これを、自分がやったのか。
 あの意味不明な夢を自分は今、起きながら見ているのか。
「俺の……正体でも、調べてくれるのか……なら助かる、んだけどなあ……」
 左腕には、鞘を咥えた小型犬。右手には抜き身の小太刀。
 誰かに見られでもしたら、少し面倒な事になる。そこに思い至るまで凛は、今しばらくの時を要した。