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<東京怪談ノベル(シングル)>


ふかふかの夜
「お嬢さん。お逢いできて光栄だ。あとは俺の手の中でゆっくり眠ってくれればありがたいんだがな」
 草間さん――草間興信所の所長さん、草間・武彦さんです――がよれよれのコートをばさぁっ! と翻して“お嬢さん”に言いました。
 今日もクールです。ハードボイルドです。お腹がぐうって鳴っています。「俺、そろそろ仙人になれるんじゃねぇかな」って、ごはんを食べずに煙草を吸っていましたけれど、霞と煙、やっぱりちがうんでしょうか。
「海原! そっちからお嬢さんを追い立てろ! ゆっくり急いで正確にだ」
「あ、はい!」
 いけません。あたし――海原・みなもは今、草間さんのお仕事のお手伝いで、あるお家から逃げてしまった子犬探しの最中なのでした。
 あたしはゆっくり急いで正確に、三日かけてやっと見つけた“お嬢さん”の逃げ道を塞ぎます。
“お嬢さん”は近づいてくるあたしを見て、向こうで待ち構えている草間さんを見ました。ここはビルとビルの間の、通路ですらない細い狭間です。もう逃げられませんよ。彼女は困って、困って、困って。
「グォオン!」
 草間さんに跳びかかったのです。
 あたしよりも草間さんのほうが弱そうに見えたのでしょうね。
 だってあたしは、数多の怪事件を解決してきた南洋系人魚の末裔。ただの女子中学生ではありませんから。
 もっとも草間さんだって、普通の人間かと言われたらご本人も首を傾げられるでしょうけれど。
 ですので、あたしより弱そうな草間さんはあっさり“お嬢さん”の牙を避けて、その体を捕まえて……。
「よし。お嬢さん捕獲完了」
 草間さんの腕の中で暴れる“お嬢さん”は、見目麗しい子犬さん。キリっとした顔にしっかり太い脚、固めの灰毛。将来は狼さんみたいな凜々しい女子になりそうですよ。
「っておい、暴れんな! 痛っ、噛むな引っ掻くな! 海原、押さえるの手伝え! お嬢さんがまた逃げちまう!」
 いけません。いけません。あたしは我に返って草間さんに駆け寄って、“お嬢さん”を抱っこしようと――がぶ。
「がぶ?」
「海原ぁぁぁあああ!?」
 小指の先を噛まれてしまいました。
「おい海原大丈夫かおい海原ぁ!?」
 ものすごい勢いで草間さんがおろおろしてくださいます。ハードボイルド、忘れていますよ?
 あたしは「失礼します」と断ってから、“お嬢さん”のお口を上と下からそっとつかんで閉じました。申し訳ありませんけど、お家に帰るまではこのままで。
「草間さん、すぐ依頼主さんのところにお連れしましょう」

 と。
 いうことで。
 あたしはようやく自分の部屋に帰ってきました。
“お嬢さん”を送り届けた後、草間さんはあたしを病院に連れて行ってくださいました。
 お医者さんは生暖かい目で、あたしの指に消毒薬を塗ってくださいましたよ。それはそうです。ほんの少し皮が切れただけで、血もほとんど出ていませんでしたから。あ。検査もしました。狂犬病始め、感染症の恐れは一切なしとのことでした。
 帰り際、すごい勢いで煙草をふかす草間さんに「ちゃんとごはん食べてくださいね」と念を押してきたのですけれど……心配です。明日の朝、様子を見に行かなければ。
 ですので今日は、おやすみなさい――

 ――むう、眠れません。
 いえ、一度はうとうとしたのですが、目が覚めてしまったのです。
 原因は熱っぽいだるさと関節の痛み。これはまさかの成長期? いろいろと豊かな感じになってしまうのでしょうか? それはそれで悪くありませんね。それどころか。
「最高でしょ!」
 と。あたしは大きな声を出してしまいました。
 ん? なんでしょうね、この、いつにない気持ちは。漲るというか、上がるというか。そういう「ワイルド」な感じが心の底の隅のほうから、じわじわ染み出してきます。
 先ほどより体が熱いです。
 先ほどより体が痛いです。
 あたしの体を構成するおよそ70パーセントの水が……あたしの中に流れる人魚の血が全力で教えてくれます。これは成長期なんかじゃなくて、侵食だって。
 強い痛みのある指先を見ると、厚く尖った爪が伸び出して、まわりをゴワゴワの長い獣毛が包み込み始めています。それはつま先も同じこと。さらに肩口からも肘からも膝からも、ついには体中から獣毛が生えてきました。
 どうやら“お嬢さん”は子犬さんではなく、人狼さんの子どもさんだったようです。だとしたら今日のお仕事は人狼さんのお子さん捜し。
 草間さんにはめずらしい普通の依頼かと思ったのですが、実際はいつもどおりの怪事件だったんだなぁ。
「う、うう、ううう」
 喉の奥からなにか出そうです。あたシはがまんできなくて、小さく吐き出した。
「うぉふ」
 鳴き声だ。犬じゃないからワンじゃない。んー、ちょっと新鮮。
 まだ体は痛いけど、あタシはヘッドスプリングなんかして起き上がった。今なら太郎ちゃんと出くわしても、残像つきで緊急回避できそう。
 ――そんなことより!
 アタシはじっと手を見る。石川啄木先生リスペクトってわけじゃなくてね。
「にくきゅう」
 あるある、あったよ肉球。おお、ふっかふかでピンク色だぁ。
 ここであらためて、アタシは自分の体を見回した。パジャマの下の体は完全に人狼。顔も狼。青毛をキープしてるのは、さすがアタシ。
 まあ、これで確定。アタシは人狼因子に感染したんだ。そりゃお医者さんもわからないよねぇ、菌じゃないんだもん。呪い師さんとこに行くべきだったなぁ。
「人魚の人狼って、なんて言えばいいんだろ? 人魚狼? 魚人狼?」
 悩ましい。
 ってゆうか、狼の口、しゃべりづらい。
 ……ちなみに。アタシがちょっとのんきにしてるのは、身も心も人狼化したからじゃないよ? まあ、引きずられてるとこはあるけどねぇ。
 アタシの根っこはやっぱり人魚だから。その力がほんのちょっとずつ、狼因子を押し返してるのがわかるから。
 多分、アタシが人狼でいる時間、そんなに長くない。
 だとしたら急がなくちゃ。
 狼の本能がうずうずウキウキささやくんだ。今夜は満月だぜーって。
 夜はあと何時間かで明けちゃう。その前に思いっきり遊ぼう。せっかく最高の環境で人狼体験できるんだから、ムダにしちゃったらもったいないもんねぇ。

 夜の街、そのいちばん暗いところを選んでアタシは歩く。
 いつもどおり生きている服を着てるけど、足は素足。でも、ふかふかの肉球がアスファルトの固さをシャットアウトしてくれるから問題ないし、足音が出ないから近くの人にも気づかれる心配なし。すごいね肉球。
 それに、いつもは気づかないけど、夜っていろんなにおいがするんだなぁ。鼻が濡れてるから敏感なのかな? アタシはちょんと自分の鼻をつついてみて――
「っ!」
 ビリっときた。反射的に舌でぺろっと鼻を舐める。なるほど、鼻はほんとに弱いんだ。
 と。誰かが話してる声が聞こえた。このへんじゃなくて、遠くのほう。耳もいいんだね。
 ――人魚はいろんな水を媒介して情報を感じ取るけど、人狼っていうか犬科は自分の五感で情報を収集する。ちがい、あるよねぇ。
 よし。次はフルパワーでダッシュ!
 アタシは短距離走の構えで飛びだした。
 うーわー! なにこれ!? 速いし楽しい! 走ってるだけで笑えてくるよ!
「うぉふ」
 ご近所の迷惑にならないよう、小さな声で笑いながら、アタシは本能のささやくままに走り続けて――たどりついたよ、川縁のドッグランに。
 犬じゃなくて狼なんだけどね。親戚のにおいに誘われちゃったかなぁ。ともあれ、このへんは夜誰もいないし、思いっきり遊べそうだね!

「そーれーっ」
 アタシは石をひょいっと投げた。たったそれだけなのに、人狼パワーは石を百メートルもぶっ飛ばす。
「いけーっ」
 次に、自分で投げた石を自分で追っかける。三歩で最高速まで加速したアタシは、石をかるーくキャッチして、また投げる。で、また追っかける。
 走るだけでも楽しいのに、石いっこでもっと楽しくなるねぇ。あなどれないなぁ、犬科ライフ。

 いちおう川でも泳いでみた。
 犬かきになるかなって思ったけど、体のつくりは人間だから普通だね。平泳ぎもクロールもできる。ただ、毛皮が水を弾くから、体は濡れないんだよね。川から上がってブルブルすると、水気は綺麗に飛んでった。人魚的には残念だけど、これはこれでおもしろい。

 あと、これ。これはやっとかないとダメでしょ。月に向かって遠吠え!
「ウォーン」
 音量控えめでお届けしたんだけど、どこからともなく「ワンワン」、「ワオーン」ってお返事が来たりして。ついついうれしくなっちゃってボリュームアップ。おかげで誰かに通報されて警察の人が見に来たりして、アタシはドッグランから逃げ出すはめになった。

 その途中で人助けもした。
 ベロベロに酔っ払って道で寝てたお姉さんに迫る強盗の手!
 アタシは音もなく駆け寄って強盗に膝かっくんした後、こっち向かせて連続肉球パンチ。やんわりノックアウトした。
 ついでにお姉さんはお姫様抱っこ。安全な場所へ運んであげる。
「ん……んー、いぬ?」
 お姉さんが寝言みたいにそう言ったから、狼の誇りを込めてお返事しといた。
「うぉん!」
「やっぱ、いぬだ……」
 解せぬ。なんだか日本人なのに中国人だって言われたみたいな感じ。狼と犬は似てるけどね。でもね。やっぱりね。

 なんだかんだで夜は過ぎてって。
 アタシは夜空の端っこににじみ出してきた朝日の気配にちょっと寂しい気持ちになる。うずうずもウキウキも、もうすぐ終わりなんだなぁって。
 これ、薄くなりかけてる狼因子の気持ちなのかな。こうやって思えるのも、結局はアタしが人魚で、人狼化がほんとに危険な状況じゃないって無意識にわかってたからなんだろうけど。
 ――とにかく帰ろう。どのみち朝が来れば、この狼の体は晒しておけなくなるんですから。
 こうしてアタしは短くなってきた狼毛に風を受けて、ラストランへ。
 景色を、においを、夜を、全部置き去りにして、アたしは日常へ帰るのです。

 とりあえずシャワーを浴びてから、アたしは二度寝に入りました。
 今夜はよく運動したので疲れていましたし、今眠ればいい夢が見られそうでしたから。結果的には、夢なんか見ずに眠りこけてしまったわけですけど。
 そして。
 目が覚めると、アタシはあたしに戻っていました。
 人狼パワーはすっかり消えて、今は漲る人魚パワー。完全完璧、いつもどおりのあたし。
「……草間さんに連絡しておかないと」
 繰り言になりますが、狼因子はあたしの内の水に自浄されて、今はひとかけらも残っていません。でも、バイトとはいえ報連相は社会人の鉄則だと教わりましたし、ボスである草間さんにはきちんと申し送りしておかなければ。
 草間さんの携帯電話をコールすると、最初の呼び出し音が切れる前に草間さんが出られました。いつもでしたらまだ眠っていらっしゃるはずなのに。
「朝早くに失礼いたします。海原と申します」
『海原!? おまえ、カラダ大丈ウォン!?』
 実にわかりやすい状況に陥っていました……。
 でも、これはしかたありませんね。草間さんはいろいろと常識の範疇を超えていますけれど、体は普通の人なわけですし。
 あたしは草間さんに断って一度通話を切り、携帯電話の電話帳を開きました。……人狼祓いのできる呪医さんって、何時から営業しているのでしょうか?