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<東京怪談ノベル(シングル)>


処女受胎


 教師という職業に、誇りを持ってはいる。
 もちろん楽しいばかりの仕事ではないが、辞めたいと思った事はない。
 だが、その一方で憧れている言葉がある。
 寿退職、である。
 結婚と仕事を両立させている女性は、少なくない。だが自分には無理だと響カスミは思っている。
 結婚となれば、この教員という仕事は辞める事になるだろう。仕事を辞めてでも一緒になりたい、と思えるような人に巡り会えたらの話だが。
 そんな運命の人と結ばれて、子供を産む。
 優しい夫と、可愛い子供。見果てぬ夢である。
 その夢が、半分だけ叶ってしまったのだろうか。
 呆然と、カスミはそんな事を思っていた。
「いろいろ考えたのだけど……貴女しか、いないと思って」
 申し訳なさそうに、その少女は言った。
 神聖都学園にも関係者の多い、IO2という機関で働いている少女である。
「イアル・ミラールの帰る場所……それが貴女よ、響カスミ先生。そうでしょう?」
「いや……そうだけど、でも……」
 イアルが、ようやく帰って来てくれた。
 どこかに捕まっていたようだが、この少女が助け出してくれたのだろう。
 まずは、感謝をしなければならない。
 感謝する前に、しかしカスミの頭の中は真っ白になっていた。
 言語中枢が麻痺して、ありがとう、という言葉すら思い浮かべる事が出来なかった。
 少女が押している大型のベビーカーから、イアルの豊麗な肢体はもちろん大部分がはみ出している。
 育ち過ぎた白桃のような尻だけが、辛うじてベビーカーに収まっていた。
 すらりと格好良く伸びた手足を、わたわたと動かしながら、イアルはカスミを見つめている。
 澄んだ、綺麗な瞳。
 まさしく赤ん坊の目だ、とカスミは思った。
「お……お帰りなさい、イアル……」
 カスミは言った。イアルは、応えない。その口に、おしゃぶりを咥えている。
「念のため、言っておくけれど……悪ふざけをしている、わけではないのよ」
 俯き加減に、少女は言った。
「イアルは、本当に……」
「……わかっているわ。冗談で、こんな事をするイアルではないし」
 これは夢ではない。
 それを認識するのが、カスミは精一杯であった。
「一体どうして……こんな、事に……?」
「ごめんなさい……私たち、IO2のミスよ」
 少女が、深々と頭を下げた。
「イアルの中で、もう1つの人格が……とても危険な人格が、目覚めていたの。私たちはそれを、眠らせようとして」
「人格……って、イアルが……二重人格? みたいなもの?」
 もし、そうであるとするならば。
 イアルの、もう1つの人格とも会ってみたい。カスミはふと、そんな事を思った。


 人為的に「幼児退行」を起こし、肉体はそのままに精神年齢のみを引き下げる。
 IO2には、そんな技術があるらしい。
 精神のみ幼児または赤ん坊となった人間に対し、適切な人格形成を行った後、本来の精神年齢に戻す。
 成功すれば確かに、例えば凶悪犯罪者を更生させたりといった事も可能であろうが、そんな都合の良い事が出来るのか、とカスミは思ってしまう。
 案の定、イアルの場合は失敗し、ベビーカーに収まりきらない巨大な赤ん坊が誕生してしまった。
 魔女結社による記憶の上書きが、予想外の形で作用した結果。
 IO2の少女は、そんな事を言っていたが、言われたところでカスミに理解出来る事ではない。
 とにかくイアルは、魔女にさらわれていたらしい。
 救出され、帰って来たイアルが、赤ん坊になっていた。
 カスミにとっては今は、それが全てである。
「ばぶぅ……ふぇえええん、うええええええ! あうっ、あう!」
 泣き喚きながら、イアルがしがみついて来る。
 抱っこを、せがんでくる。
 女の細腕で受けきれるわけもなく、カスミは押し倒されていた。
「ちょ……っと、待ってイアル……」
 そんな言葉が、今のイアルには通じない。
 まずは言葉を覚えさせなければ、とカスミは思った。
 もちろん、言葉以前にも身につけさせなければならない事はある。
 まずは、トイレだ。
 イアルの、むっちりと豊満な尻周りには今、おむつが巻き付いている。
「うぇえうぅ……ばぶうぅ……」
 泣きじゃくる巨大な赤ん坊を、カスミはとりあえず抱き締めるしかなかった。
 仕事は、休ませてもらっている。やはり教職との両立は、自分には無理だ。
 教え子や、親しい教員たちの中には、少なからず事情を知っている者もいる。彼ら彼女らが、いろいろと手回し後押しをしてくれているのだ。
 大勢の人が、自分を支えてくれている。それをカスミは実感していた。
 だが今、誰の手も借りず自力で乗り越えなければならない危機が、カスミを襲っていた。
「え……こ、こらっ! ちょっとイアル駄目、それは駄目!」
「ま……んま……まんまぁ……」
 イアルが、カスミの胸を欲しがっている。
 赤ん坊には美味しそうに見えるらしい膨らみを包み隠すブラウスが、赤ん坊イアルのたどたどしい手つきで、ゆっくりと脱がされてゆく。
 いくらか少女趣味な桃色のブラジャーが、露わになった。
「出ないから!」
 カスミは悲鳴を上げた。
「イアルあなた大人だから! 母乳じゃなくて、離乳食でもなくて、ふつうの物ちゃんと食べられるからぁ!」
 だが今のイアルは、母乳しか欲しがらない赤ん坊である。
 そしてカスミが、力で抗える相手ではなかった。


 出ない母乳の代わりに、体力を吸い取られた。そんな気分である。
「無理……教師やりながらなんて私、絶対無理……」
 げっそりと体重が減った、かも知れないとカスミは思った。だとしたら、この育児という苦行の果てにある唯一の御褒美、とは言える。
「はい、両立は不可能です……本当に結婚出産する前に、気付かせてくれて……まあ、ありがとうねイアル」
「ばぶ?」
 イアルが無邪気に首を傾げる。カスミはただ、弱々しい微笑みを返した。
 トイレトレーニングは、何度か床を汚す覚悟で。
 物の本にそう書いてあったので、おむつを取ってみたのだ。
 床だけではなく、壁も汚れた。柱も汚れた。窓も汚れた。テーブルも汚れた。
 赤ん坊の粗相と言うより、動物のマーキングに近かった。
 全て掃除し終えてから、イアルを連れて風呂に入ったところである。
 浴槽の中でカスミは、イアルにじゃれつかれて溺死しかけた。
 我が子に、殺される。
 母親になるには、その覚悟が必要なのだとカスミは思った。
「でもまあ、何とか生き延びたわね私……お祝いに1曲、付き合いなさいねイアル」
 カスミはギターを爪弾き、歌った。
 ぼんやりと聞いていたイアルが、たどたどしく歌詞を真似てくる。
「……ぽかぽか……おひさま……」
「そう。いいお天気なのに誰もいないの。何故かしら〜」
 言葉さえ覚えてくれれば、とカスミは思う。そこが突破口となり、イアルは大人としての自分を思い出してくれる。
 響カスミは、国語教師ではなく音楽教師だ。言葉は、歌で教えるしかない。
「てんぐさ……てんぐさ……」
「海の生まれで退屈知らず、何億年でもグダグダ出来るの。うらやましいわ〜」
 陽気に歌いながら、カスミはギターを掻き鳴らした。
 イアルが、はしゃぎ始める。
「もぎたて、とまと!」
「そうよ、うふふ。人間のいない地球って、気持ちいいでしょ?」
 イアルと一緒に、歌っている。
 死にかけるほどの疲労が吹っ飛んで行くのを、カスミは感じた。


 おぞましい生き物が、映っている。
 気味が悪いほど、自分イアル・ミラールにそっくりだ。
 そんな生き物が、口におしゃぶりを咥え、腰におむつを巻き、豊かな胸をぷるぷる震わせながら泣き喚いているのだ。
「なっ……何よ、これ……出来の悪いミラー・イメージかドッペルゲンガー!?」
「ドッペルでもアバターでもないのよねえ。CG加工一切無しの……貴女よイアル。1週間前のね」
 楽しそうに笑いながらカスミが、タブレット端末を見せつけてくる。
「ほらほら、ちゃんと見なさい。受け入れなさい」
「やめて、やめてよちょっと何で! こんな画像が!」
「それはもちろん撮るわよ。撮らないわけが、ないじゃない」
 カスミが、にこにこと聖女の笑みを浮かべている。おぞましい生き物の画像を、イアルに突きつけながら。
「ああ大丈夫、心配しないで。ネットに流したりはしないから……私が、個人的に楽しむんだから。ほらほら、イアルも楽しみなさい」
「カスミのバカー!」
 十字架から逃げ回る吸血鬼のような悲鳴を、イアルは発していた。