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監獄美術館
石像にされた事もある。氷に閉じ込められた事もある。獣に変えられた事もある。
ブロンズ像に変えられる事、それ自体は、だからイアル・ミラールにとって大した事ではない。
問題は、臭いだ。
獣に変えられていた時も無論、臭かった。
だがそれは、入浴をしないのが当然の、野生動物の臭いであった。言ってみれば、生き物の臭いだ。生命の臭いだ。
このコールタール臭は違う。これは生命を死に至らしめる、毒の臭いだ。
イアルの全身から24時間、毒臭が発生し続けている。
そんな己の状態をイアルが把握出来るのは、生きているからだ。
魔法のコールタールに漬けられ固められ、生きたままブロンズ像と化し、展示されている。
記憶はない。が、身体が覚えている。
以前も確か、こんな事があった。
その時も確か、ブロンズ像か石像か、とにかく何らかの像に変えられていた。
そして獣と化した少女たちに、様々なものを浴びせられていた。
動けなくなり、汚物にまみれ、悪臭を発する。
自分の人生はこんな事ばかりだ、とイアルとしては思わない事もない。
そして今回イアルを苛むものは、悪臭だけではなかった。
貴女のせいよ。
そんな声が、どこからか聞こえて来る。
先生が死んだのは、貴女のせいよ。貴女なんかと関わりを持ったから……私は先生を、凍らせて砕かなければならなかった。
私は悪くない。先生を殺したのはイアル・ミラール、貴女よ。
貴女なんかと知り合ってしまったばかりに、先生は……
(やめて……お願い、もう……やめて……)
身体はブロンズ像である。動かず、固まった状態。つまり死体のようなものだ。ガタゴトと、微かに揺れる事くらいは出来る。
屍も同然の、揺れるブロンズ像の中。心は、しかし生きている。苦しむ事の出来る心がだ。
動けない。だから、自ら命を絶つ事も出来ない。
(もうやめて……もう、殺して……お願いよぉ……)
「貴女のせい……貴女のせいよイアル・ミラール。貴女が、先生を殺したのよ」
1人の少女が、ブロンズ像に囁きかけている。
とある美術館の、庭園である。
茂枝萌は気配も足音も殺す事なく庭園を横切り、ブロンズ像に歩み寄って行った。
少女が囁きを止め、振り向いてくる。
神聖都学園の制服を着た、大人しめの美少女。
その細い全身から、制服などでは隠しきれない邪悪な魔力が溢れ出す。
魔女結社の、残党。
隠しようもなく禍々しい正体が、露わになりつつある。
「せっかく生き延びたのだから、大人しくしていればいいものを……」
萌は、まず声をかけた。
「つまらない商売をするから、私たちの目に止まってしまうのよ」
「そう……私たちは、IO2に泳がされていたというわけね」
神聖都学園の女子生徒、に化けた魔女が、暗く微笑む。
「エージェントが、こんな所まで堂々と入り込んで来ている……という事は」
「この美術館は、IO2が制圧したわ。生身の女の子たちを、石像に変えたり絵の中に閉じ込めたりして売りさばく……その商売を上手い事、結社の壊滅後も貴女が引き継いでいたようだけど」
捕らえられていた少女たちは、すでに救出済みである。
後は、館長であるこの魔女の身柄をどうするかだ。
捕えるにしても、大人しく捕らえられてくれる相手ではない。
だが萌は言った。
「私と一緒に来なさい。他の魔女たちの隠れ場所を教えてくれるなら、命だけは助けてあげられるわ」
「隠れ場所なんて知らないわ。私たち、横の繋がりなんてもの全くなかったから」
邪悪な魔力が、炎の如く可視化して揺らめいている。
「知っていたとしても……言われて教えているようじゃ、魔女なんて務まらないのよね」
「意地を張らずに投降なさい。IO2が、貴女の身の安全を保証するから」
萌は、説得を諦めなかった。
「本当に、わかっていないの? IO2よりもずっと容赦のない組織が、貴女たちを滅ぼしにかかっているのよ」
「わけの、わからない事を……!」
揺らめく魔力が、炎に変わった。電光に変わった。氷の粒を孕む、冷気の暴風に変わった。
攻撃魔法の嵐が、萌に向かって吹き荒れる。
萌は左手で、携えてきた小道具を楯の形に掲げた。
5匹の龍で縁取られた手鏡。
『……来て、くれたのだな。茂枝萌』
声が聞こえた。
ブロンズ像の中に閉じ込められた鏡幻龍が、鏡を通じて語りかけてきているのだ。
『イアルの精神は、もはや限界だ……私に出来るのは、この程度』
虹色の光が、鏡から溢れ出し、巨大な楯を形成して萌を防護する。
攻撃魔法の嵐が、虹色の光の楯に激突した。
共に、消えて失せた。激しい相殺が起こっていた。
炎の渦が、電光の束が、氷混じりの吹雪が、虹色の楯もろとも砕け散り、消滅していた。
「充分よ……チャージ」
萌は、戦闘服の腰部に装着されていたサブマシンガンを居合の如く抜き構え、攻撃を念じながら引き金を引いた。
「サイキックアロー!」
念の力を宿した銃弾が、白い光の嵐となって銃口から迸る。
微かに舞い散る虹の破片を蹴散らしながら、白い銃撃が宙を裂く。
魔女の身体が、砕け散った。
大人しめな美少女の、優美な肉体が、一瞬にして原形を失っていた。
「死ねて、良かったわね……ここを先に突き止めたのが、私たちIO2だった事。それが貴女の、せめてもの幸運よ」
たおやかな右手で、くるりとサブマシンガンを回転させながら、萌は言い放った。
「来たのが虚無の境界だったら、貴女……殺してすら、もらえなかったでしょうね」
鏡幻龍に、死者を生き返らせる事は出来ない。
だが、砕けた氷像を修復する事は出来る。
修復された氷像を、解凍すれば良いだけの話であった。
あの女教師が、そのようにして元に戻ったからこそ、イアルはこんなふうに自分の臭いなど気にしていられるのだ。
「く、臭い! 臭い臭いっ、何なのよこれはあッ!」
「コールタールの臭いよ。まあ何度か、お風呂に入れば消えると思うわ」
萌は言った。
ブロンズ像となっていたイアルを回収し、こうして元に戻してやる事は出来た。
ブロンズ像から生身に戻った娘なら、しかしもう1人いる。
彼女の元へ、イアルを伴い向かっているところである。
「……何日もお風呂に入らない、あの臭いよりマシだと思うのだけど」
「ああもう、どっちもどっち。臭いのはもう嫌」
歩きながら、イアルが辟易している。
「まあ、それはともかく……助けてくれて、ありがとうね。私も、それに……」
「先生なら、すぐに意識を取り戻すと思うわ」
萌は立ち止まった。イアルも、立ち止まった。
IO2日本支部、監獄区域の最奥部である。
高圧電流を通された鉄格子の向こう側で、その娘は床に座り込んでいた。
しなやかな細身を、拘束衣でがんじがらめにされている。
そんな有り様で、彼女は微笑んだ。
「私、コールタール臭いわ……ねえ、何とかしてくれない?」
「身体は徹底的に洗浄してあげたはずよ」
「ああいうのじゃなくて、お風呂に入れて欲しいんだけど……ねえイアル・ミラール? ユーと一緒に」
「……やめて」
イアルが、軽く頭を押さえた。
「貴女にはね、いずれ借りを返さなきゃ……それはそれとして、あんまり顔を見たくはないのよ。いろいろ、忘れたい事を思い出しちゃうから」
「つれない事を言う資格が、ユーにはないのよ。私はね、イアルの飼い主なのだから」
「貴女ね……!」
「人が大勢、死んでいる。そう聞いたわ」
会話を断ち切るように、萌は言った。
「各国要人、それに裏社会の顔役、世界的企業の社長や重役……そういった人たちが、原因不明の死に方をしている。虚無の境界でもなければ出来ないような殺し方で、ね」
「どいつもこいつも、私の目の前で……イアルに、あんな事やこんな事をしてやがった連中よ」
殺されたのは全て、魔女結社の得意客であった人々である。
「だからちょっと、ゲシュペンスト・イェーガーの遠隔操作を実験してみただけ……ここからだとコントロールも利かないから、ちょっと殺り過ぎちゃったかもねえ」
「何をやってるの貴女は!」
高圧電流を帯びた鉄格子を、掴んでしまいかねない勢いで、イアルが叫ぶ。
「そんな事をして、私が喜ぶとでも!」
「イアルのためじゃないわ……ふふっ。ユーのためになんて私、何にもしてあげないわよ?」
両眼を赤く禍々しく発光させながら、彼女は笑った。
「私のものに手を出した連中は、生かしておかない。ただ、それだけよ」
拘束衣も、高圧電流の鉄格子も、意味はないのかも知れない。萌は、そんな事を思った。
彼女がその気になれば、このような場所いつでも出て行けるのではないか。
「私を助けてくれた事、元に戻してくれた事……感謝しているわ、ヴィルトカッツェ」
真紅の眼光を、まっすぐ萌に向けたまま、彼女は言った。
「ユーにお礼を言うなんて胸糞悪いから、まあいずれ借りは返してあげる。ここでも、出来るだけ暴れないでいてあげるわ。それはそれとして……お風呂に、入らせてくれない? イアルと一緒に。もちろん、ユーが一緒でもいいのよ」
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