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<東京怪談ノベル(シングル)>


真珠は涙を打ち砕く


 冷凍死体も同然であった女教師の肉体に、温もりが戻って来るのを、イアル・ミラールは感じた。
「カスミ……」
 呼びかけてみる。
 返事はない。響カスミは、まだ目を閉じている。
 長い睫毛が微かに震えたのを、しかしイアルは見逃さなかった。
 凍りつき砕けたカスミの身体を、鏡幻龍の力で修復した。今は、人肌による解凍を行っている最中である。
 温もりが戻りつつある女教師の身体を、イアルはなおも強く抱き締めた。なおも強く、胸を押し付けていった。形良く豊かな膨らみが、柔らかく押し歪められる。
 その胸に、鼓動が伝わって来た。
「……カスミ?」
 もう1度、呼びかけてみる。
 カスミの両目が、うっすらと開いてゆく。
 いくらか潤いを帯びた瞳が、じっとイアルを見つめている。
 冷たく青ざめていた唇が、生気ある朱色を取り戻しながら、呟きを紡ぐ。
「…………イアル……」
「カスミ……! 良かった……」
 頬を擦り寄せてゆくイアルを、カスミは抱擁で受け入れてくれた。


 それが、1週間ほど前の事である。
『わかる! あたしもねー、あの臭いには本当まいっちゃって』
 カスミの教え子である少女が、スマートフォンの向こうで明るい声を発している。
『でね、マネージャーさんが探してくれたわけ。そのフレグランス……いい感じでしょ?』
「まあね……お薦めしてくれて、ありがとう」
 魔女結社との戦いの最中、イアルは本当に様々な汚れにまみれた。コールタールなど浴びせられ、ブロンズ像にも変えられた。
 こびりついた悪臭は、もはや日に1度の入浴では拭い落とせない。
 イアル本人は、そう感じている。
 だが今は、体臭など気にしている場合ではなかった。
『カスミちゃん……また、いなくなっちゃったんだって?』
「十中八九、魔女結社の仕業だと思うけど……手掛かりがね、何にもないのよ」
 スマートフォンを持ったまま、イアルは俯いた。
「ゴーストネットOFFの情報網に、頼るしかないの……魔女がらみで、カスミが巻き込まれていそうな怪事件みたいなもの、何かない?」
『カスミちゃんは、何にでも巻き込まれちゃうからねえ……』
 少しの間、少女は沈思したようだ。
『お役に立てるかどうか、わかんないけど……イアルちゃんは知ってる? 最近、学校で起こってる行方不明事件』
 学校というのは無論、神聖都学園の事であろう。
『女の子が何人も、いなくなってるみたい。カスミちゃんみたいに、ね』


 誰もいない学校というのは、ある種の異世界のようなものだ、とイアルは感じた。
 人気のない音楽準備室に、窓から夕日が射し込んでいる。部屋全体が、薄赤く染まっている。
 フランツ・シューベルト。フレデリック・ショパン。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン。滝廉太郎。
 楽聖たちの肖像画が、逢う魔が時の赤みを帯びているのだ。
 授業はとうの昔に終わっている時間帯であるから、イアルはたやすく潜入する事が出来た。誰もいない、神聖都学園の校舎の中に。
 音楽教師・響カスミの、職場でもあり憩いの場でもある、音楽準備室に。
 正確に言うと、誰もいないわけではない。
 窓際で、優美な人影が2つ、絡み合っている。
 1人は女子生徒。神聖都の制服を清楚に着こなした、美少女である。
 もう1人は、人間ではなかった。
 一見、人間の姿ではある。
 あちこち開いた、際どいレオタード系の衣装に閉じ込められた胸。イアルよりも若干、大きい。いささか窮屈そうではある。
 むっちりと溢れ出した尻の膨らみを、軽く撫でる長さに達した茶色の髪。
 この胸に、髪に、顔を埋めて眠った事がイアルは何度もある。
「カスミ……」
 呆然と、イアルは声をかけた。
 響カスミ、の姿をした何者かが、無言で微笑む。
 抱き締め解凍した、あの時と同じ、潤いを帯びた瞳が向けられてくる。
 その瞳は、イアルを見つめている。
 唇は、傍らに立つ少女の、愛らしい頬の辺りに触れているようだ。
 陶然としていた少女の美貌が、硬直した。体温を失いながら、固まってゆく。
 美少女の石像が、そこに出現していた。
「カスミ……何を、しているの……?」
 イアルの呼びかけに応ずるかの如く、カスミが微笑んでいる。
 否、カスミではない。響カスミの肉体を有する、何者かだ。
 カスミの身体にはないものが、その豊かな茶色の髪を割って鋭く伸びている。
 一対の、角。被り物の類ではない事は、見ればわかる。
 魔族の、角であった。
「サキュバス……!」
 イアルは息を呑んだ。
 色欲を司る悪鬼が今、カスミの肉体を乗っ取っている。
 せんだって魔女に捕われ凍らされた際、悪しき呪いが仕込まれたに違いなかった。まるで保険のようにだ。
 潤いを帯びた瞳が、優美に微笑む唇が、すでにイアルの眼前にある。
 踏み込む、走り寄る、と言うほど激しい動きではない。とにかくカスミは、いつの間にか目の前にいた。
 これが、明らかな敵であれば。魔女であれば、あるいは魔女結社に飼われた醜悪な魔物であれば。
 掴んで膝蹴りでも叩き込んだ後、鏡幻龍の剣を召喚して斬殺しているところである。
 だが目の前にいるのは、カスミなのだ。
 イアルは、もはや名を呼ぶ事も出来なかった。
 カスミの唇が、イアルの声を封印していた。
 身体が冷たく固まり、石と化してゆく。
 その前に、イアルの心は硬直していた。


 石化は、すぐに解除された。
 本当は、長い時間がかかった後なのかも知れない。石像と化している最中は、時間の感覚が曖昧になる。
 ともかくイアルは、石像から生身に戻ると同時に、溺死しかけていた。
 そこは水中だった。
 塩辛さが、容赦なく喉を、鼻を、苛んでくる。
 海の中である。
 石像の状態のまま、海中投棄されたのだ。そして石化を解かれた。
 泳げない、わけではない。
 だがイアルは、すでに泳ぐ事も、溺れる事すらも出来なくなっていた。
 海底に、まるで悪しき宗教の本尊の如く鎮座する巨大なもの。
 それが、溺れかけたイアルの身体を呑み込んでいた。
 布団に包まれたかのように、イアルは一瞬、感じた。
 布団ではない。海中でさえ生臭さが感じられる、貝肉であった。
 巨大なアコヤガイの中に今、イアルはいる。
 おぞましい不定形生物の如く蠢く真珠層が、イアルの全身を包んでゆく。
 当然、呼吸は出来ない。なのに感じられる貝の生臭さが、イアルの体内にまで染み込んで来る。
 悲鳴を発する事すら、イアルは出来なくなっていた。


 悲鳴を上げるイアルの表情が、模様となって浮かび上がっている。
 そんな真珠であった。
 赤ん坊ほどもある、巨大な桃色の真珠。
 アコヤガイの中から取り出したそれを、カスミは呆然と抱き上げた。優美な繊手で、そっと撫でた。
「い……ある……」
 名を、思わず呟いてしまう。
 イアル。それは一体、何者なのか。カスミは思い出せない。
 今のカスミは、カスミではない。
 潤いを帯びた瞳が、さらに濡れて揺らめく。
 涙の雫がこぼれ落ち、真珠の表面でキラキラと砕け散った。
 何故、涙が出て来るのか。それもカスミは、わからなかった。