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<東京怪談ノベル(シングル)>


夢見る屍人形


 職業柄、死んだ人間がどうなるのかは何度も目の当たりにしてきた。
 生きた人間は、死体に変わると手足が固まって動かなくなる。
 四肢がおかしな方向に曲がったまま硬直し、棺桶に入れるのも一苦労という事が珍しくはない。
 筋肉は固まっているくせに穴は緩み、様々な体液や汚物が垂れ流しになる。
 腐敗が始まる前に、汚れて悪臭が発生する。それが死体というものだ。
 イアル・ミラールの身体は、少なくとも今のところは、そのような状態ではない。
 手足を柔らかく曲げる事が出来るので、あちこち念入りに洗ってやるのが楽ではあった。
「イアル……」
 茂枝萌は語りかけた。イアルは応えない。
 唇を開かず両目を閉ざしたその美貌は、寝顔なのか、死顔なのか。
 柔らかな肌は血色を失って青ざめ、なおかつ貝類の生臭さとコールタールの臭いを発していたが、それも綺麗に洗い落とせたところである。今は、ボディーソープの匂いしか感じられない。
 巨大な真珠玉であったイアル・ミラールを、IO2の研究施設で人体に戻し、蘇生のために様々な施術を試みた。
 だが、イアルが目を開く事はなかった。
 目覚めぬイアルを、萌はこうして宿舎の自室へと運び込み、入浴などさせている。
 理由は特にない。強いて言うなら、悪臭がひどかったからだ。
「イアル……ねえ、目を覚まさないの?」
 答えてくれないイアルに、萌は構わず問いかけた。
「目を覚まさないと、私……このまま貴女に、何をするかわからないよ?」
 幼い女の子が、お気に入りの人形にでも語りかけているかのようだ、と萌は思う。
 そう。今のイアルは、死体と言うより人形であった。
「お人形遊び……しちゃうよ? イアル……」


 その女人像が、王宮の中庭にいつから立っているのか、どこから持ち込まれたのか、知る者はいない。
 豪奢なドレスの、柄、うねり、皺に至るまでが克明に彫り込まれた石像。
 どこかの姫君を捕えて石化したもの、などという噂もある。
 茂枝萌は今、この王宮に勤める侍女であった。
 ここが夢の中である事はわかる。
 自分が何故、こんな夢をに見ているのか。それを追究する事に意味はない。夢とは、わけのわからないものであるからだ。
 ただ、気になる事が1つある。
 その女人像が、萌の知る誰かと瓜二つなのだ。
「イアル……」
 貴婦人の装束をまとったイアル・ミラールが、石像と化している。萌には、そうとしか思えなかった。
「貴女は、本当に……真珠にされたり、石にされたり……」
 石像の台座に、萌はそっと身を寄せた。
 そして、石で出来たドレスの裾に、軽く唇を触れる。
 台座の上で、石像がよろめいた。
 倒れ、落下して来る女人像を、萌はかわさず両腕で抱き止めた。
 それが、すでに石像ではなくなっていたからだ。
 石ではない、生身の女体の下敷きとなる格好で、萌は中庭に尻餅をついていた。
「あ……ご、ごめんなさい……」
 つい今まで石像であった姫君が、慌てて立ち上がろうとする。が、長らく石化していた身体である。
 よろめき、転びそうになった姫君を、萌は両腕で抱き支えた。そして名を呼んだ。
「イアル……」
「……それが、私の名……なのですか? それを知る貴女は、一体……誰……?」
 記憶が、失われているのか。思い出させる事は、出来るのか。
 萌がそんな事を思っている一瞬の間に、そこは王宮の中庭ではなくなっていた。
 腕の中の、イアルの感触も消え失せていた。
 萌は、豪奢なカーテンの陰にいた。
 グラスの載った盆を、手にしている。
 侍女として、貴人のもとへ飲み物を運ぼうとしているところ、であるらしい。
 その貴人が、怒り狂っている。
「何……何なの、あの女! 石くれの分際で、私より……」
 この国の、王妃である。
「私より……美しい、なんて……ッ! 国じゅうの男たちが、陛下までもが! あのイアル・ミラールに骨抜きにされて!」
「どうか、お気をお鎮め下さいませ。石くれは、石くれに戻すだけの事でございます」
 黒衣に身を包んだ女が、傍に立って王妃に囁きかける。
 昨年頃から、であろうか。王妃が、無聊を慰める話し相手として傍に置くようになった女だ。
 顔は、よく見えない。声だけでは、若い女なのか老婆なのか判然としない。
「万事、この私にお任せ下されば良いのですよ王妃様……」
 萌にはしかし、その女の正体がわかった。
 全身から溢れ出す邪悪な魔力は、黒衣などで隠せるものではない。
「魔女……!」
 魔女結社の関係者か。
 いや。そもそも今この時代に、魔女結社が存在しているのか。
 そんな事を思いながら萌は、カーテンの陰で声を発してしまった。
 魔女が、こちらを向いた。
「……誰だね、そこにいるのは」
 黒衣のフードの下で、眼光が禍々しく輝いた。
 その光が、萌を撃ち抜いた。
「貴人の部屋で盗み聞きとはね……まあ、したくなる気持ちもわかるが。ばれたら死ぬ覚悟くらいは、してもらわないとねえ」
 萌の身体は、砕け散っていた。


 気がついたら、萌は萌ではなくなっていた。
 肉体を粉砕され、吹っ飛ばされた魂が、別の肉体に入り込んだ。そんな感じである。
 イアル・ミラールの肉体だった。
 いや、もはや肉体とは呼べぬ状態である。
 その美貌も、艶やかな長い髪も、豊麗な胸の膨らみと綺麗に引き締まった脇腹も、白桃を思わせる尻も、しなやかに伸びた手足も、全てが石に変わっている。
「生身に戻って、男どもにちやほやされて……その得意の絶頂からもう1度、石くれに戻った気分はどうだい。イアル・ミラール」
 魔女の、声だけが聞こえる。姿は見えない。
「ここはね、私の造った地下迷宮さ。ああ大丈夫、寂しくはないよ。お前をちやほやしてくれる連中は、ここにもちゃんといる。ほぉら」
 石像と化した萌、いやイアルに、あらゆる方向からにじり寄って来る者たちがいる。
 人間、いやオークであろうか。脂ぎった肥満体を揺らしながら全員、何やら興奮しているようだ。
「私が作り出した下級の魔物どもさ。石化した女にしか欲情しない、かわいそうな連中だよ……さ、悦ばせておやり」
 魔物たちがイアルに向かって一斉に、ドピュドピュッと汚物を噴射する。
 萌は悲鳴を上げようとしたが、唇も舌も石に変わって動かなかった。


 汚物にまみれ苔生した石像として、イアルは約半世紀、迷宮の奥に放置された。
「そろそろ……かねえ。うっふふふ、お前の心を徹底的に破壊してあげるよ。そうすれば、鏡幻龍の力は私のものさ」
 魔女が、黒衣の中から枯れ枝のような五指を伸ばし、印を結ぶ。
 石化が、解除された。
 だが、半世紀分の汚れまでもが解除されたわけではない。
 魔物たちに浴びせられた汚物が、そこから生えた生臭い苔が、生身のイアルの全身に付着している。
 萌は悲鳴を上げた。いや、それはイアルの悲鳴だった。
 鏡の中で、イアルが悲鳴を上げ続けている。
 それを眺めながら、萌は訊いた。
「……一体、どういうつもりなの」
 鏡だけがある巨大な空間、としか表現し得ない場所である。
 そこに萌は今、鏡と一緒に、立っているのか浮いているのか。
「これは、イアルの……過去? どうして、そんなものを私に」
『体感してもらった。イアルと魔女結社との関わり、その始まりを、お前に知って欲しかったのだ』
 鏡が声を発した、のであろうか。
『お前が人形のように扱っているイアルはな、死んだわけではない。私の力で、仮死の状態を保ってある……まだ、元に戻すわけにはいかん。魔女たちを、油断させなければ』
「イアルは死んだ……魔女結社の残党に、そう思わせればいいのね」
『出来るのか? 茂枝萌』
「私を、誰だと思ってるの」
 萌は言った。
「私はNINJA……直接戦闘だけじゃなく情報戦もこなさなければ、務まらない仕事よ」