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<東京怪談ノベル(シングル)>


石の下に眠る
 逢魔が時。
 響カスミは、パンプスのローヒールでアスファルトを叩いてリズムを――曲を刻む。
 タイトルは『帰路』。家に帰れば足を伸ばし、つつがなく神聖都学園での音楽教師をやり抜いた一日を顧みることができる。その喜びを表わした即興曲である。
「〜♪」
 マンションが近づくにつれリズムが弾み、胸中で紡いでいたメロディが口をついてあふれ出す。あと少し。もう少し――
「顔はいいわね。うるさいのは嫌いだけど、こういうのが一匹いてもおもしろそう」
 ふと、路の脇から聞こえた声。音の甘さと響きの高さから、少女のものだと知れたが――一匹? 猫でも見つけたんだろうか? 柄は? 大きさは?
 カスミが思わず振り向いてしまうと、目が合った。
 黒のロリータドレスに身を包む美しい少女の傍らに立つ、ロングのワンピースとエプロンをとつけた、古式ゆかしいメイドと。
「連れてきて」
 少女が命じると、メイドはカスミに一歩近づいた。
 カスミにはなにが起ころうとしているのか理解できない。
 ただ、この場に一秒留まることが、一生を塗り潰すことになる……そんな気がしてならなくて。
 カスミはメイドの黒い瞳から目線を外して逃げだそうとした。が、一切の光を放つことも照り返すこともなく、深淵のごとくにただただ黒いその瞳から、どうしても目が離せなかった。
 立ちすくむカスミの手をメイドがとる。
「こちらへ」
 カスミは手を引かれるまま、踵を返して歩き出した少女の後へ続いた。

 最初に忘れさせられたのは、やわらかさだ。
 肌を冷たい石に置き換えられた彼女は奏でることを忘れ、心までも固められて歌を、メロディを、リズムを失った。
 次に忘れさせられたのは、時間だった。
 一秒を、一分を、一時間を、一日を見失った彼女は、門の右側に据えられたまま、まばたきもせずに一点を見続ける。
 ――人だったころに備えていたはずの性をすべて失くし、ただ美しいばかりの石像と化した彼女は、雨風に晒され、苔蔦に侵されながら、ただそのときを待つ。

                   *

 カスミが失踪して半年が過ぎた。
 学園でカスミの話題を口にする者はすでにない。警察も今は捜索班を解散し、目撃情報を募るばかり。
 カスミが消え、誰もがそれを受け入れた世界。その中でただひとり、今なおカスミの姿を探し続けている者がいた。
 彼女に救われ、同居人として生活を共にしてきたイアル・ミラールである。
 ――カスミは近くにいる。私とカスミの絆が、そう教えてくれるから。
 イアルにとって、カスミは恩人である以上に、無二の友。
 かならず見つけ出す。
 かならず救い出す。
 その思いだけを胸に、彼女は学園の内外を駆け回り、情報の糸くずを拾い集めてきた。
 そして。
 ついに、カスミへと繋がる糸の端をつかんだのだ。
 この地区に、不可解な条例によって立ち入りが禁止されている私有地がある。
 たったそれだけの情報ではあったが、おそろしく手の込んだやりかたで隠されていたため、探し出すまでに半年もかかってしまった。
 もちろん、それだけであれば無意味な情報の記号でしかない。しかし、今まで集めた他の情報を縒り合わせることで、カスミが誰かとその私有地の方角へ向かったことが浮き彫りになるのだ。だとすれば、カスミは……。
「すぐに行くわ」
 亡国の姫であるはずの彼女が知るはずのない体術を駆使し、イアルは問題の私有地へ急ぐ。
 足音ばかりか気配までもを夜闇に隠し、誰にも見とがめられることなく、私有地への侵入を果たした――はずだった。

 ゴ、オオ!
 石をこすり合わせたかのような、固く濁った音が響いた。
 と、気づいたときにはもう遅い。背中からのしかかられ、そのまま押し倒された。
「くっ!」
 幾度となく硬いもので打たれ、背骨がきしむほどに激しく揺さぶられながら、イアルはなんとか体勢を変え、敵の下から抜けだそうともがく。
 ――こいつ、人間なの!?
 どれほど足音を殺しても、地面に足が接すればかならず気配が立つ。格闘術に秀でたイアルが、襲いかかられるほどの距離まで近づかれて、気づかないなどありえない。
 先ほどから、背中の敵の背後で風が不規則に渦巻く音がしている。
 ――翼? 翼があるというの!?
 仮にそうだとするならば、敵はイアルの警戒が薄い上空から強襲をかけてきた。そんなことを人間ができるものか!
「離せ――!」
 敵の重心が上へ持ち上がった瞬間、イアルは体を横に向けて一気に体を引き抜いた。すかさず襲いかかってくる敵の顔あたりへ蹴りを放った。
「硬い!」
 叩きつけた踵が痺れる。が、それに構わずイアルはさらに踵を押しつけ、敵の顔を踏みつけるようにしてすべり、距離をとった。
「こんなものに守らせるだけのものが、ここにあるというの……」
 体勢を立てなおし、あらためてイアルは敵を見据え。
「え?」、息を呑んだ。
 敵は、蝙蝠の羽と虎の爪牙を与えられた石像だった。
 ガーゴイル。拠点の門番としては定番だが、しかし。
「あ、ああ――」
 苔むし、蔦の根を食い込ませた体を獣のごとくにかがめ、石眼をイアルに向けるこの石像は……魂を結び合わせたイアルにはわかる。これはカスミを模した像などではない。カスミ自身だと。
「カスミ、私は」
 ガロウ。カスミは不可解な音だけを返し、イアルへ襲いかかった。
「や、やめ」
 拳にもつま先にも、力が入らない。イアルはよろめくように後退したが、飛びついてきたカスミに捕らわれ、再び地に組み伏せられた。
「……やけに騒がしいと思えば」
 文字通りに無機質なカスミの顔の上から、女――メイドの冷めた無表情がのぞく。
「あなたがカスミを――! カスミを返しなさい!」
「カスミというのは、今あなたを殺そうとしている、これのことですか?」
「カスミはカスミよ! これなんかじゃ、ない!!」
 カスミに打たれるがまま、目でカスミへ訴え続けるイアル。
 思い出して。私はあなたの――
 その様を見やっていたメイドは小首を傾げた。なにかを疑うように。なにかを探るように。なにかを試すように。
「その情愛の正体を見せてもらいましょうか。心を失ってなお保てるものなのか、それともあっさりと忘れ去ってしまえるものなのか」
 ひどくやさしい顔をして、メイドがイアルの頭に手を添えた瞬間。
 イアルの意識は白く弾け、塵と化して崩れ去った。

                   *

 果たしてイアルは目覚めた。
 違和感があった。しかし違和感の正体がわからない。
「ガ、アア」
 言葉だ。言葉を発することができない。口をついて出るものは、意味を成さぬうなり声ばかり。
 それどころか、強く念じていなければ自分の内の「イアル・ミラール」が心からちぎれ飛んでいきそうだ。その恐怖から、彼女は前足でぎこちなく胸を抱こうとして、地に顔を落としてしまう。
 前足――ちがう。これは手。手だったはず。しかしこの手――足がなければ、地を駆けることはできない。自分はなにを言っている? 足で立てばいいだけだろう? だから前足をつく。なにもおかしいことはない。
 イアルは前足をつき、力強く前へと踏み出した。
 自分には探しているものがある。それはとても大切で、貴いもの。早く見つけて――それを――それとは――なに? 頭に霞がかかったように――霞――カ、ス、ミ――そうだ。カスミ。カスミだ。
 と、駆け出そうとしたイアルに襲い来る影。
「ガアッ!」
 犬だ。イアルにはすでに認識できなくなっていたが、それはイアル同様、人としての理性を封じられ、野生化させられた少女であった。
 邪魔をするな!!
 叫ぼうとしたイアルの喉が、グォォウ!! 太い咆哮を吐き出した。
 迫る犬の歯を下がるのではなく踏み込んでかわし、逆に首筋へ歯を突き立てる。
「ギャウッ!」
 この程度で鳴くとは。イアルは歯に力を込め、犬を振り回しながら地へ叩きつけた。
 腹を見せて服従を誓う犬を前足で踏みしだき、勝利を示したイアルは心の内で唱え続ける。
 カスミ。カスミ。カスミ。カスミ。カスミ。
 自分がイアルであることを忘れ果てても、あの人の名前だけは――

 そこからイアルの戦いは始まった。
 鉄と煉瓦で固められた塀の内には多数の“犬”がおり、相手を害して優位に立とうと暗がりから牙を剥く。
 同じ人間であった少女たちに、始めはいくらかの憐憫を感じていた。が、生物としての原初的な欲に駆られて襲い来る彼女たちを迎え討つうち、イアルの感情もまたこそげ落とされ、摩耗していった。
 それにつれて純化し、膨れあがる本能が彼女にささやきかけた。
 喰らえ。闘え。
 いやだ。私には大切な――わたしにはたいせつな――
 彩を失くしていく思考。
 イアルは必死でそれにすがりつき、取り戻そうとあがくが、新たな犬の襲撃に、つかみかけたなにかはあっけなく手をすりぬけ、手はすぐに“足”へ戻っていった。

 明るくなり、暗くなり、明るくなる。
 それがどのような意味を持つのかはもう、わからない。
 明るければ獲物に近づき難い。暗ければ獲物に近づきやすくなるが、襲われやすくもなる。
 闇の内で狩った鳥獣をむさぼり喰らいながら、イアルはすり寄ってくる犬どもに威嚇の声を飛ばし、思考の消えた心の奥底から聞こえるかすかな音に気づいてまた不機嫌な唸り声をあげた。

 暗くなるすぐ前の赤い空気の内をイアルはさまよう。
 縄張りと定めた茂みのまわりに己の臭いをなすりつけ、他の犬が勝手に入り込めないようにはしてきたが……本来であれば、獲物の多いあの場所を不用意空けるべきではなかった。わかっている。それはわかっているのだ。しかし。
 自分はなにかをしなければならない。その焦燥が彼女を突き動かし、闇雲に歩かせるのだ。
 自分はなぜ歩く? 探しているものがあるからだ。カ、カス、カ――
 頭が割れるように痛む。
 それでもイアルは思い出そうとあがき。いつしか門の裏にたどりついていた。
 鉄柵の隙間に無理矢理顔を押し込んで見上げれば、左右に石像があるのが見える。片方の石像は、ただの石。もう片方の石像は……頭が痛い。しかし、石であるはずのそれを見ていると、なぜか心が甘く騒ぐのだ。
「ウォ」
 石像は応えない。石の眼を外へ向け、来るはずもない侵入者をただにらみつけるばかり。
 ひどく裏切られた気分になったイアルはその場を離れようとしたが……足が動かなかった。行きたくない。ここにいたい。だってここには――があるから。
 彼女は門の隅にうずくまる。
 失くしたはずの心を揺する石像を見上げ、いつまでも。