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響かない警鐘
とある森の中に、人であることを忘れてしまった一人の女が居た。
「グルルル……ガァッ!!」
四つ這いになり、視界に入り込む同じような存在を威嚇する。その声にビクリと体を震わせるのは、少女や女性であったものの成れの果てであった。
時には狩り仲間、そして時には戦闘相手。
そんな間柄で構成された女性たちは、この森に放たれた『番犬』である。
「いいザマね、イアル・ミラール」
そう言いながら鈴のように笑うのは、魔女であった。森のほぼ中央にひっそりと佇む古い洋館。その一室の窓から、血のように赤い葡萄酒が注がれたグラスを片手に、目を細めている。
彼女はこの洋館の主であり、森で四つ這いになっている女――イアル――の主でもある。
数ヶ月前、イアルを罠に陥れた本人だ。
彼女はイアルに、特別な感情を抱いていた。好意などではない、怨恨のそれである。
見た目は可憐な少女であるその魔女には、誰よりも愛していた姉がいた。魔力も容姿も完璧な、上位の魔女であった。常にそうではならなかったはずの現実を壊したのは、イアルそのものであった。
洋館に呼び寄せられた親友を救うため、イアルはこの場で戦った。
その戦いに敗れたのが、この魔女の姉であったのだ。
「こんなのじゃ済まされない……アタシのお姉さまを奪った罪は、どんなことをしたって贖え無いのよ、『犬』……」
一度は真名で呼んだものの、魔女はイアルを犬と呼び改めて、そんな独り言を漏らした。
すると、窓の外にいたイアルが高く遠吠えをする。それに釣られるように、周囲にいる少女や女性たちも本当の犬のように鳴き声を上げた。
「ウフフ……アハハハハ……!!」
魔女は楽しそうに笑った。
この状況が、彼女にとっては何より幸せなのだろう。
「犬……犬……! ここに戻ってきてアタシの足を舐めなさい!!」
「アォー……ン」
犬と呼ばれたイアルは、誰よりも早く地を蹴った。そして誰よりも早く魔女の元へとたどり着き、頬を染めながら舌をへろりと出し、主の足を靴の上から舐めた。
「ウフフ……ほんっとに、良い眺め……」
「随分と素直に野生化したものだな」
イアルの行為に悦に入り浸っていると、その背後から別の声がした。
紫のオーラを持つ魔女であった。
「あら、東のお姉さま。いらっしゃい」
少女の姿の魔女は驚きもせずに、肩越しに振り向いただけでそんな言葉を発してから、また視線をイアルの方へと戻す。同格であるのか、そこに礼儀などは存在しなかった。
「全くお前は、欲に忠実だな」
紫の魔女も特に気にしてないのか、呆れ口調ながらも足元のイアルを見て楽しそうな表情をつくり上げる。
「この女の堕ちた姿は幾度と無く見てきたが……その度に新鮮さがあって、良いな。そして、今回は名を奪うことで堕ちる速度も早かったようだ」
「だから言ったじゃない、そうしたほうが早いって。ぜひ、今後に活かしてよね」
「そうしよう」
そんな言葉を交わして数秒後、紫の魔女はその場から姿を消していた。
イアルの状況を確かめに来ただけのようで、少女の魔女もそれを知っていたかのような態度であった。
「……土産くらい持って来なさいよね。相変わらず、感じ悪い……」
魔女はそんな言葉を漏らした。
どうやら、魔女同士でも少なからずの確執などはあるようだ。
「ちょっと、何ジロジロ見てるのよ! まだ教え足りないのかしら!?」
魔女はそう言いながら、自分を見上げてくる足元にいたイアルを蹴り上げた。
すると、キャン、とか弱い声を絞り出しつつ、イアルは廊下に数メートル転がる。
遠巻きに見ていた他の少女たちが、地面に沈んだイアルを取り囲んだ。
「……そうね、これはおしおきだわ。お前たち、ソレを汚しなさい!」
魔女の命令に、集まった少女たちは素直に従った。
思い思いに噛み付いたり、縄張りの意味でのマーキングや粗相などをその場で平気で行う。
これは今までも繰り返し行われてきた事でもあり、イアル自身も自然と積み重ねた行為だ。
「ふふ……姫より犬のほうがよっぽどお似合いよ。そのままどんどん穢れていきなさい、私の忠実なる下僕……」
「クゥン……」
魔女の言葉に、イアルはそんな言葉しか返せなかった。
人の言葉など、随分前に忘れてしまった。だから今は、鳴くことで意思表示をする。
文字通りの犬になってしまった彼女には、魔女の真意も憎悪も読めないままだった。
イアルの消息が途切れて、既に数ヶ月が過ぎた。
護衛を買って出たはずなのに、あっさりと覆された状況に、萌は珍しく感情を乱していた。
「あの時、わたしが……ちゃんとエージェントとしての役目を果たしていれば……」
イアルの足跡を調べ集め、それらの殆どが空振りである内容に眉根を寄せつつ、彼女はそう言う。
――必ず戻るから、お願いよ二人とも。
その言葉を信じて、イアルを見送ってしまった。例えそこで離れてしまっても、自分は身を潜めて彼女を守らなければならなかったのに。
「ねぇ、萌。悔やんでもどうしようもないわ……それに私だって……」
そう言うのは、IO2の庇護下にあるあの令嬢であった。
彼女も同様に、イアルを見送った存在であり、萌と同じくらいに後悔の念を抱いているのだ。
「――お嬢様」
「!」
萌と膝を突き合わせた状態で座っていた令嬢の傍に、そんな声が降ってきた。懐かしい声であった。
令嬢がゆっくり顔を上げると、そこには見覚えのある過ぎる姿が静かに立っていた。
彼女に仕えていてくれた、元メイドの魔女だ。
「あ、貴女……どうして!?」
「遠くから見守っておりましたが……お困りのご様子でしたので」
元メイドは静かな口調でそう言いながら、一枚のメモを令嬢に手渡した。
彼女は、少しだけ焦っているかのようであった。
「あなた……自分の立場を危うくしたんじゃないの?」
目の前のやり取りを見ていた萌が、そう言う。
すると元メイドは、薄く笑って瞳を閉じるのみだった。肯定も否定も見せずにいるというのは、最終的にはやはり不利な立場に置かれているという事なのではないのか。そんなことを考えてしまう。
「これでも魔女の端くれです。己の身を隠すことくらいであれば、大丈夫ですよ。……ただ、長居は出来ません。お許しを、お嬢様、萌様」
彼女はそう言って二人に頭を下げ、その姿を消した。
ろくな言葉すら交わせなかったが、令嬢は嬉しそうであった。そんな彼女が手にしていたメモには、住所が記してあった。
「……これは……イアルの居場所?」
「ちょっと待って……照合してみる」
萌はそのメモを覗き見ながら、端末をいじり始めた。住所を入力すると、地図にはない場所が浮かび上がってくる。広い森と、古い洋館。
そこにはあの音楽教師が過去に関わったと記されていて、やはり魔女結社との繋がりは根深く、簡単には断ち切れないものなのだと改めて痛感させられた。
「あのメイドさんに、感謝しないと。だね……」
「そうね、彼女は優秀だからね」
萌がそう言うと、令嬢は誇らしげに返事をしてくる。
そして二人は視線を合わせて静かに笑い、立ち上がった。
萌と令嬢は二人揃って、その場へと辿り着いた。
辺りは異様に静まり返っており、萌は気配を読みつつ背中のブレードへと手を伸ばした。
「私が住んでた洋館とは、少し雰囲気が違うわね……なんていうか、幽霊屋敷みたいな……」
令嬢が独り言のように、そんな言葉を発した。
萌は彼女を本部へと置いてくるつもりであったが、令嬢自身が当然それを否定したので、したいようにさせている。
戦闘スキルは皆無だが、それでもイアルの為に彼女も何かしたいと思っているのだろう。
「……何が起こるかわからない……わたしから、離れないでね」
「ええ……」
萌は令嬢を背後に庇いつつの歩みを開始させる。
すると、数秒後には眼前が霧に包まれ、視界が悪くなった。
「……ッ」
本能的に、二人はその場で背と背を重ね合った。
そしてゆっくりと辺りを見回し、じわりと近づいてくる恐怖に冷や汗を浮かべる。
「萌、アレを見て!!」
令嬢が背後で声を張り上げた。
その方向へと視線をやると、令嬢が人差し指を霧の向こうに向けている。その先にぼやけた影があり、それがハッキリとしたものになるにつれ、心に不安が広がった。
嫌な予感がする。
「……、イアル……!」
視線の先の影は、四つ這いになったイアルであった。
彼女は牙をむき出し、こちらを酷く警戒している。
そして威嚇をするように一度低く唸った後、二人に飛びかかってきた。
「っ、避けて!!」
萌は咄嗟に令嬢の背中を押し、距離を取る。
勢いで彼女は地面に転がったが、そのまま数メートル先にある木の側へと自力で駆け寄って、身を隠した。
「ガアァッ!!!」
猛獣のごとく、腕が振り下ろされる。
萌は寸でで交わしたが、地面を削るその力は、見たこともないほどであった。
彼女の肉体は元傭兵――。
本人にはその記憶は無いという。このデータはIO2を通して確認したことだ。
記憶は無くとも、体は憶えている。それが本能というものだ。
意思が失われている現在であれば、その本能が全面的に表に出てしまうのは必然である。
「……ッ!」
凄腕であるはずの萌が、苦戦を強いられている。イアルの猛攻をギリギリで避け続けるのが精一杯で、反撃する余裕が無い。このまま押され続けられれば、いずれは萌が負けてしまう。
そんな状況だ。
「萌、危ない……っ!」
令嬢の声がした。
萌はそれに答えるようにして宙返りをして、イアルとの距離を測る。
たがそれは、数秒で無いものとされてしまう。
「くっ……コレだけは、使いたくなかったんだけど……!」
彼女はそう言いながら、ブレードを前に突き出した。イアルからの攻撃を一度受けるためだ。
ガキン、と金属がぶつかり合うかのような音が広がった。
イアルの異常なまでに発達していた手の爪と、萌のブレードの刃が、そこで火花を散らしていた。
萌はそれを眼前で捉えながら、空いている腕で何かを取り出し、イアルへとそれを向ける。
「グ、ガアアア……ッ!!!」
イアルの額付近で、強い光が生まれた。
彼女は大きな声を上げて、その場で動きを止める。
光は数秒形を保った後、音もなく静かに収束していった。
「…………」
ずしゃ、と何かが沈む音が足元でした。
萌はそれを確かめて、表情を歪める。
「も、萌……今のは……?」
木の影に隠れていた令嬢が、恐る恐る近づいてくる。
目にした光景を理解しきれていないような、そんな表情をしていた。
「マジックアイテム……これは触れた対象を石にするの。普段は殆ど、使うことのないモノだよ……」
萌の足元にあるものは、大きな石像らしきものであった。
それは、先程まで猛攻を仕掛けてきていた、イアルの姿であった。
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