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<東京怪談ノベル(シングル)>


手のひら
 夜が来るたび、犬と化したイアルは門の下にやってきて、石像と化したカスミを見上げる。
 犬を始めとする獣の多くは夜行性だ。夜に狩りができないイアルは必然的に胃袋を満たすことができず、大きく破れた衣からのぞく脇腹には肋が浮き出ていた。
 それでも。
 イアルはカスミの下から動こうとはせず、ただ、そこに在った。

 館の内よりその様を見ていたメイドが静かにカーテンを閉め、自らが仕える少女がこちらを見ていることに気づいて頭を下げた。
「なに?」
「犬を見ておりました」
「ふぅん。あんなバカな子たちなんか見て、なにが楽しいわけ?」
 急死した少女の両親には莫大な遺産があった。
 本来であれば、そのすべてを少女は相続するはずだったが、しかし。彼女はあまりに幼すぎ、無垢すぎた。
 結託した親族に翻弄され、はぎ取られ、嘲笑われた末、ひと握りの遺産と幼少期からずっと彼女に付き従ってきたメイドだけを与えられ、この洋館へ追いやられた。
 少女が“犬”や“石像”を量産するのは、人を信じることへの絶望があるのだろう。だが、それでも魔女たるメイドに魔物を召喚させることなく、あえて人を集めたがるのは、人への未練があるからだ。
 人を信じず、それでも人に囲まれていたい。けして自分を裏切らない、人ならざる人に――
 メイドは主に悟られぬよう、静かにため息をついた。
 主の内にある葛藤を思い。
 彼女自身の内にある葛藤を思って。

                   *

「臭いから近寄らないで」
 敷地内の茂み――手入れがなされていないため、ちょっとした森のようだ――の縁に立つ少女が顔を顰めて言い放った。
 犬に変えられた少女たちは、メイドの魔術によって少女が絶対の主であるとすり込まれている。ゆえに、初めての主の到来に喜びいさんで駆けつけようとしたのだが……。
「お嬢様。犬たちの臭気は手入れがされていないことが原因です。お命じくだされば洗わせていただきますが」
「なにを言ってるの? おまえに臭いが染みついたら、ずっと臭い思いをしなくちゃいけないじゃないの」
 少女はさらに顔をしかめてかぶりを振った。
 ――お嬢様はなぜこのような場所へ来たがったのだろう?
 メイドは無表情の奥に疑問符を浮かべる。
 少女は今まで犬に関心を持ったことなどなかった。彼女にとって犬とは、自分の寂しさを紛らわすためのぬいぐるみのようなもの。身近にあるだけでなんとなく安心できる――それだけのものでしかなかったはずだ。気にしてかまうほどの情があるはずもない。
 と。メイドの疑問は、少女の言葉で晴れた。
「この中におまえが昨日見てた犬はいるの?」
 そういうことか。
 夕べメイドが見ていた犬。少女にとって唯一心を預けられる存在が気にかけた自分以外のもの。それを確認するため、彼女はここへ来た。
 言ってしまえば子どもらしい独占欲となろうが。メイドを失えば真に独りとなる……その恐怖に憑かれた少女にとってはなによりも深刻な問題なのだ。
「……いえ、ここには。おそらくは門の近くにいるものかと」
「じゃあ見に行く」
 すがってこようとする犬どもを追い払い、少女は踵を返して門へと向かう。

 門の前にはイアルが横たわっていた。
 汚れきった痩身を地に投げ、目だけを門柱の上にとまる石像へ向けて、動かない。
「こいつはなにしてるの?」
「ガーゴイルに縁のある者のようです。これを追って館へ侵入しようとしておりました。発見が早かったため、対処できましたが」
 少女はこちらを見ることなく、ただガーゴイル――カスミを見続けるイアルにすがめた目線を投げ、小首を傾げた。
「人間だったころのことなんて憶えてないんでしょう? だってもう犬なんだから」
「はい。ですが記憶を失くし、犬に成り果てた後もなにかしらの繋がりを感じているのでしょう」
 少女はしばし考え込み、メイドへ振り向いた。
「弱ってるみたいに見えるけど」
「ここにいるせいで狩りができないのです。もっとも、こうなってしまっては狩り自体できないでしょうから……じきに死ぬでしょう」
 少女はまた考え込み、イアルから顔をそむけて歩き出した。
「この犬に食べものをあげて。別に死なせたいわけじゃないから」
「かしこまりました」
 頭を下げながらメイドは思う。
 ――お嬢様の言葉の裏に“祈り”を感じたのは気のせいだろうか? それともそれは、そうあってほしい私の願いなのか?

                   *

 深夜。
 館の裏口に人影がふたつ。
 そのうちのひとつであるメイドが、もうひとつの影にうなずきかけた。
「――はい。わかっております」
 人影が消えた後も長い間メイドは立ち尽くしていたが。
「残された時間は、もうない」
 ふとつぶやき、姿を消した。

 十日に一度、常にそばで控えているはずのメイドが姿を消す夜がある。
 少女にとって、日付や曜日はすでに無価値だ。
 時折メイドに外へ連れ出され、犬やガーゴイルの素材となる人間を探すこともあるが、彼女は毎日をこの館の内で過ごしている。
 時からも情報からも切り離された館に閉じこもっていれば見なくてすむからだ。彼女を取り巻き、傷つける現実を。
「そうでなくても、もう少しなのに」
 贅沢をしたことなど一度もないが、与えられた遺産はあと数年で底を尽く。そうなったとき自分は、泥を噛む生など選べまい。無気力な死を受け入れるしか……。
 暗闇のただ中、痛みすらも感じないほどに、孤独。
 苦い涙がひと雫、少女の頬を伝い――
 あたたかく湿ったものに、ぬぐわれた。
「え?」
 振り向けばそこにイアルがいた。
「なんであんた、こんなとこにいるのよ!? ガーゴイルのとこに」
 いたんじゃないの?
 言いかけた言葉が、喉の奥に詰まって出てこなかった。
 言ってしまえば、イアルがカスミの下へ帰ってしまうかもしれない。その、孤独への恐怖が自身の声を縛りつけたことを、少女は気づかなくて。
 形に成りきれない感情の靄が少女の胸に押し詰まり、少女はただとまどうことしかできず。イアルの舌に涙をなめとられてまたとまどった。
「もう――こっちまで臭くなるじゃないの」
 イアルの汚れて固まった髪に少女がかるく手を触れた、そのとき。
「お嬢様」
 闇の奥からメイドの声が忍び出した。
「な、なに?」
 涙の跡をこすり落とし、少女が振り向くと。
 犬ども、そしてカスミの無機質な瞳が待ち受けていた。
「申し訳ありません。本家の方々からすべてを終わらせるよう命が下りました。少々時期は早まりましたが、どうぞお覚悟をお決めください」
 姿なき声だけが淡々と語る。
「あんたは、誰?」
 少女の震える声に、闇は静かに応えた。
「刺客にございます。時期を見てお嬢様を葬り、後顧の憂いを断つための」
「ずっと、だましてたの?」
「はい。ご両親が亡くなられずとも、お嬢様は今夜と同じ末路をたどっていらっしゃいました」
 それ以上の言葉はなかった。
 カスミを中心に据えた犬どもが少女へ襲いかかる。
「そうだったの」
 少女はつぶやき、カスミを見た。
 唯一自分のそばにいてくれるものだと思い込んでいたメイドは、少女と引き合わせられたときから裏切り者だった。
 そして、自分の涙をなめとってくれたイアルは、すぐに歯を剥いて自分に噛みついてくるだろう。当然だ。大事なカスミが自分を殺そうとしているのだから。
 まあ、いい。
 独りで生きてきて、死ぬときも独り。
 それで、いい。
「――グォウッ」
 カスミに跳びついたイアルが、その硬い首筋に犬歯を突き立てた。
 ゴ、ギギ。石の喉から悲鳴とも怒声ともつかない音をあげ、カスミが鉤爪でイアルの顔を掻きむしろうとするが、イアルはそれを手で払い、そのまま掌打をカスミの顎先へ叩きつける。
「ウォォォォォオン」
 イアルが二本の足で立っていた。
 正気に戻ったわけではないが、しかし。
「私の魔力を押し返している……体内に在るなにかが……」
 闇の内からメイドは目をこらしたが、イアルの内に在るなにか――鏡幻龍の姿を捕らえることはできない。ただ、得体の知れない強大なものの存在を感じるのが精いっぱいだ。
「ガァァ!」
 少女へ跳びかかった犬のこめかみにイアルの左フックが突き立った。続く犬を右ストレートでしとめた彼女は、回り込んで少女を襲おうとしていた犬に後ろまわし蹴り、吹き飛ばした。
「ゥゥゥ」
 喉の奥で低くうなりながら、イアルは羽を蠢かせるカスミへ向かう。
「どうしてあんたが、あたしなんか守るのよ。あのガーゴイル、大事なんでしょ。なのにどうして――」
 少女へ返されたイアルの目は、静かに澄んでいた。でも、犬たるイアルはなにも言えなくて。
 だから少女は考えてしまう。イアルはきっと自分を放っておけなかったんだ――イアルは自分を哀れんだだけなのかも――イアルはメイドの魔法で自分を主だと思い込んでいるから――イアルはもしかしたら自分のことが好きになったのでは――こんなことをいくら考えてみたところで無駄。少女はイアルではないのだから。
 果たして少女は思い知った。
 自分がどれほど“人”を求めていたのかを。
 ほんのわずかな時間を共に過ごしただけのイアルにすがってしまうほど、激しく。
 あたしは――
「グオゥッ!!」
 上空からのカスミの強襲へ、イアルが回し蹴りを合わせた。石の脳を揺さぶられたカスミがよろけ、着地し損ねて地に墜ち。
 イアルの右手が少女へと伸べられた。
 この手を取らなければ、あたしはきっと……。少女もまた、突き動かされるように手を伸べた。
「させません!」
 メイドの放った呪いがイアルを包み込んだ。
「ガ、アアアア」
 体に押し入ってくる呪いに、イアルの内の鏡幻龍が反応し、彼女の体を速やかに石へと変えていく。
 イアルが少女を見る。訴えるように、誘うように。
 言葉なき言葉に、少女は自らの成すべきことを悟り、石を化したイアルの唇に、己が唇を押しつけた。
「――ああっ!」
 生身を取り戻したイアルが、闇に潜むメイドへと駆ける。
 その手には魔法銀のロングソードとカイトシールド。
「くっ!」
 メイドはすぐさま魔炎を投げるが、低く潜りこむように踏み込んだイアルの盾に突き上げられた炎はかき消された。
「!」
 続けて突きだされたイアルの剣の切っ先が胸を貫き。
 メイドは崩れ落ちた。
「……正気を、取り戻されたのですね」
「多分、だけれど」
 胸を押さえて微笑みを投げたメイドへイアルが答える。
「お嬢様を、お願いできますでしょうか?」
 メイドの魔力に乗せられた少女の過去がイアルの頭の内を駆け巡る。そしてメイドの暗殺者としての立場と、その裏に隠してきた真意も。
「いろいろと言いたいこともあるけれど、それはあなたの役目でしょう」
 少女を生き長らえさせる。メイドはただそれだけのために生きていた。
 今まで犬やガーゴイルを量産してきたのは、“少女の死体”が残らなくとも不自然にならない不慮の事故を装うための策であり、今夜の一件はメイドが最後にしかけた茶番劇だったのだが。それがイアルという不確定要素の存在で、崩れた。
「あの子の孤独がわたしを引き寄せた。カスミもきっとわたしと同じ状況ならあの子を救おうとしたと思うから、わたしはカスミと対することができた。わたしはカスミを信じているから」
 イアルがメイドを抱え起こす。
「あの子を癒やすのは、あの子を誰よりも大事に思うあなた。誰よりもあなたを思うあの子を導くのはあなたの手。それしかないと思うから」
 メイドはイアルの腕の内から少女を見、そしてかぶりを振った。
「お嬢様を導く手は、愛を知る手でなければなりません。私の呪われた手などではなく。……これまでのご無礼を重々承知した上でお願いいたします。お嬢様を」
 お願い申し上げます。
 メイドの体が闇に溶け、消えた。
 後にはイアルとメイドの真意を知って泣き崩れる少女、呪いから解かれて倒れ伏す女たち、そしてカスミが残された。

                   *

 あの夜からいくらかの時が流れた。
 ある資産家の一族が次々と殺害された事件も、すでに世間から忘れ去られつつある。
 入院を強いられていたカスミも無事に退院し、教職に復帰することができた。そして。

「〜♪」
 鼻歌を奏でながらカスミが帰路を急ぐ。
 その手にはぱんぱんにふくらんだスーパーの袋が引っかけられていた。
「おかえり。今日は早かったわね」
 合流してきたイアルが、カスミの手から袋を取り上げた。
「今日はまた大量買いね」
「育ちざかりだもの」
 微笑んだカスミがイアルの傍らに目をやった。
「そうね」
 イアルもまた、自らの傍らに視線を下とす。
 そこには孤独だった少女がいて、どんな表情をしたらいいのかわからない顔でふたりを見上げていた。
 ……この子を導くつもりはないけれど。わたしがこの子の手を引いて世界へ連れて行く。あなたがいつか帰ってくるときまで。
 イアルは大切な人であるカスミの、そしてもうひとりの大切な人となった少女の手を握りしめた。
「――ねぇ、イアル」
 少女の問いにイアルが「どうしたの?」とかがみこむと。
「キスしたら子どもができるんでしょう? あたしとイアルの子どもはいつできるの?」
「え?」