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残された声
萌の使用したマジックアイテムにより石化されたイアルは、そのままの状態でIO2に回収された。
イアルは石化時にはその体から甘い香りを放つが、それを上回るほどの悪臭が鼻につく。
「これから特別室の方に運ばなくちゃいけないんだけど、先に洗ってあげたほうが良いかもしれないね」
「だったら、私も手伝うわ」
萌の言葉にそう返してきたのは、令嬢であった。
彼女もイアルが心配なのだろう。
与えられた部屋に戻ってもいいと告げたのだが、予想通りで首を縦に振ろうとはしなかった。
令嬢の申し出を受け入れつつ、萌はイアルの像をシャワー室へ運ぶように手配した。
彼女が運ばれていく様子を見守りつつ、二人はその後をゆっくりと歩いて共にシャワー室へと向かう。
「……なんだか、当初の予定とは大きく違ってきちゃったね」
「そうね、本来なら私はもうここには居なくて、イアルのお友達のマンションにお世話になってるはずだものね」
更衣室で自分たちの衣服を脱ぎながら、そんな会話が交わされた。
一人で友達を探したいというイアルの気持ちを受け止めてから、もう数ヶ月の月日が流れている。
重要参考人ではあったが、それでも一般人であったはずの令嬢は、IO2の本部預かりになったままである。
最近では、訓練場で体を鍛えたりといった行動も見受けられたが、イアルが居ないという空虚感を埋めたいがための行いだったのかもしれない。
「ねぇ、あなた……お嬢様だけど、何かやっていたでしょ?」
「……フェンシングを少し、ね。文武両道を確立させてこそ貴族だって、お父様が厳しかったから」
本格的な戦闘こそはこなせないものの、令嬢が素早く行動できるのにはそれなりの理由があった。
萌はそれを改めて確認して、納得する。
「極めれば此処で、エージェントとしてやっていけるかもしれないね」
「基礎も型ももうめちゃくちゃだもん。役に立てるとは思ってないよ。……まぁ、将来が全然見えない状態だから、そう言う道を選んでも良いのかもしれないけど」
令嬢が少しだけ悲しげにそう言った。
萌はその表情がやけに印象に残り、言葉を失う。
いつの間にか、彼女とはすっかり『友達』という間柄だ。何時の日かそれが、戦友になっているのかもしれない。
全ては令嬢の心次第と言ったところだが。
「……取り敢えずは、イアルの体を洗ってあげましょ」
「あ、うん……そうだね」
シャワーハンドルを捻ったのは令嬢であった。
萌の空気を悟ったのかもしれない。
そして二人は、個々にスポンジを手にしてイアルの石像を洗い始めるのだった。
記憶追跡装置、という物がある。
対象者の頭に装着し、ベルトを通して記憶を辿り、映像化するといったものだ。IO2が最新の技術を用いて開発した物の一つであった。
「これを、イアルに?」
「そうだよ。取り敢えず現状把握には、記憶を覗かせてもらうしか無いみたいだしね」
装置が萌えの手の中にある。
彼女は令嬢の質問に答えながら、それをイアルの額に静かに装着した。ちなみに、まだ石化は解かれてはいない。
「これから石化を解くけど、イアルはイアルじゃないから、気をつけてね」
「……あのまま、なのね。解ったわ」
シャワー室から出たイアルの石像は、特殊な部屋に運ばれていた。全てが金属で出来ている強固な空間。危険なモンスターなどを捕らえ監視する為の場所であった。
今のイアルは石化という枷を嵌めただけの野犬。
何とか意識を取り戻せないかとあれこれ手を尽くしてみたが、これといった成果を収めることは出来なかった。
魔女の能力がそれだけ強力なものなのだろう。
萌がイアルの石像に、唇を寄せた。
乙女の口づけでしか石化を解くことが出来ない為に、この行為はもう幾度目かになる。
最初こそ恥ずかしいと思ったが、今では慣れたものであった。
ピ、と小さく電子音が鳴る。
装置が起動し始めた合図であった。
「……ッ、!!」
直後、萌の目の前を掠めるものがあり、彼女は咄嗟に飛びのける。
イアルの腕であった。
「グルルル……」
石化が解かれたイアルは、やはり野生化されたままであった。
四つ這いになり牙を向き、低い唸り声を上げている。
「イ、イアル……」
令嬢が名前を呼んだ。だが、その響きには何の反応もない。
完全に名前を忘れて――否、奪われてしまった彼女には、その全ての意味が皆無なのだ。
「下がっててね」
萌がブレードを手にして、そう言った。
既に戦闘モードに思考が切り替わっている。
『親友』という概念を捨てて挑まなければ、目の前の彼女には敵わない。身を持ってそれを体感している萌には、迷いはなかった。
「ガアァァッ!!!」
光の灯らない瞳が、萌の姿を捕らえる。
そしてユラユラと上体を揺らした後、飛びかかってきた。その動きはまるで、本物の獣のようであった。
ガキン、と金属音が響く。
イアルの爪が壁を削った音であった。
特殊な装甲壁であるにも関わらず、爪痕が大きく浮かぶ。
「ひっ……」
令嬢が、恐怖を感じて身震いをした。
イアルは壁を蹴って、萌の後を追い続けている。
「モニター、見ててね」
「え、ええ……解ったわ」
記憶追跡は既に始まっている。
神経データを一旦母体に送信しなくてはならないために、映像化には少しの時間を要する。
萌はその間、イアルを引きつけ続けなければならないのだ。
「データ抽出、55パーセント……もう少し、掛かりそうね」
令嬢は萌に言われたとおりに、モニターに目をやった。パーセンテージは増えてはいるが、その進みが遅い。
おそらくは野生化による制御が働いているのだろう。
「グゥ……ウウ……」
部屋の四隅を数回行き来した後、イアルは一旦床に足をつけ、萌から視線を外した。
令嬢に向けられるのかと焦ったが、実際はそうではなく、予想外の行動が視界に飛び込んできた。
その場をウロウロと歩いていたイアルが、床の匂いを確かめた後にマーキングをし始めたのだ。
「……、……」
「…………」
萌も令嬢も、言葉を失う。
まさに、犬の行動そのものであった。
そんな光景を、誰が望んだだろう。少なくとも、ここにそれを望んだものはいない。
かつての令嬢もイアルに似たような仕打ちをしてきたが、自分はこんな酷いことをしてきたのかと思い知らされ、胸が締め付けられる思いを抱いていた。
「……うっ」
悲しみの感情で周囲が満たされていく中、それをかき消すように鼻を突いたものがあった。
マーキングによる悪臭であった。
この空間には窓すら無い。
密室の中でこの状態を長くは続けられない。そう察知した萌は、手にしていたブレードの切っ先を床に擦り付ける。
「グル……」
案の定、イアルがそれに反応した。
そして次の瞬間には床を蹴り、飛びかかってくる。萌はそれを避けたが、爪の先が彼女のパワードスーツを引っ掛ける。
「……くっ」
「萌!」
萌の体はアッサリと宙に浮き、飛び退いた壁とは真逆の方向へと投げ飛ばされる。
滞空時間が長かった為に受け身を取ることは出来たが、傷がつかないはずのスーツが僅かに破けてしまった。
イアルの潜在能力が、IO2を上回っていること実証した瞬間でもあった。
「萌、大丈夫?」
「……平気だよ。抽出、どれくらいになった?」
「ええと……87パーセント……もう少しよ!」
萌は令嬢の言葉を受け止めて、了解、と返事をした後、ブレードの柄を握り直した。
イアルが自分を見ている。襲いかかり、滅するために。
それは誰の命令のものなのか。野生化ゆえの本能なのか。見分けがつけられない。
とにかく、時間を稼がなくてはならないことには、変わりがない。
「ガアアァッ!!!」
咆哮とともに訪れる影。
萌はその気配を読み取り、瞬時に移動する。
自分はNINJAの名を持つエージェント。ヴィルトカッツェ――山猫――の異名を二つ名として持ち合わせる。速さで負けることは許されないのだ。
「萌、あと少しよ! 頑張って!」
令嬢が声を張り上げてそう言ってきた。
その声に、イアルの動きが若干鈍くなった。素人目には解らないだろう、ほんの僅かな鈍りだ。
完全なる野生化にも、脆弱性があるのでは? と萌はそう心で思った。
だがそれでも、イアルが正気に戻る術はどこにもない。
「……っ、萌、抽出完了よ!」
「解った」
令嬢の言葉を受けて、萌は左手に何かを取り出した。
水色の球体のようなもの。それを今もなお向かってくるイアルに、投げつける。
「グアアアァァ……」
瞬時に球体は弾けて、イアルの体を覆った。
それに抵抗する間もなく、彼女は床に落ちて完全に動きを止める。
萌が放ったそのアイテムは、対象を冷凍保存させるものであった。そうしてイアルは、その場で氷漬けの状態にされた。
一連の流れを己の目で確認したあと、萌は踵を返して令嬢の元へと足を向ける。
記憶装置は既に映像化を始めていて、宙に浮かんだそれを、黙って見上げた。
イアルが親友である音楽教師に会うために、学園へ向かったこと。
再会が叶った直後に、彼女の異変に気づいていたこと。
教師が既に魔女の手に落ち、使役とされていた真実と、それを悲しむ心情。そんなものが光景として映しだされている。
『――あぁ、萌』
イアルの声が映像の中から聞こえた。
萌も令嬢も予想外で、瞠目する。
『私はまた同じ道を辿ってしまうかもしれない……。でも、どうしても彼女を助けたかったの……そして、萌がきっと、この件を全て暴いてくれる……そう、信じているわ』
「イアル……」
声とは裏腹に、映像は幾人の魔女に囲まれ体を弄ばれるイアルの姿が流れていた。その後、一人の少女のような外見の魔女がイアルの名前を奪うところで、映像は消えた。
静けさが訪れた。
萌も令嬢も、黙ったままだ。
イアルは自分を信じてると言ってくれていた。
その言葉に、偽りはないのだろう。
だとしたら、応えなくてはならない。
「……萌、行くの?」
令嬢がそう言ってくる。
萌はそれに言葉なく頷くだけで応えて、特殊部屋を一人で出た。
「待っていて、イアル」
感情の見えない表情。
本来のエージェントとしての空気をまとったNINJAが、その場で静かな怒りのオーラを醸し出していた。
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