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<東京怪談ノベル(シングル)>


―白虎の残留思念―

 空を覆う分厚い黒雲、そこから降り注ぐ遠慮のない量の雨粒。こんな天気の中を好き好んで歩くのは、蛙かヤモリ位のものであろう。
「シャワーと洗濯を一篇に済ませた、って感じか?」
 私立探偵・草間武彦が冗談めかして呟く。ポケットの中からタバコを取り出そうと手を突っ込むが、既に中身は多量の水分を含んで、とても吸える代物では無くなっていた。彼は小さく舌打ちをすると、スポンジ状態となっていたそれを忌々しげに地面に叩き付ける。
「ドライヤーと乾燥機があれば、良かったんですけどね」
 草間の助手として同行していた女子中学生・海原みなもが、その様子を見て苦笑いを浮かべる。彼女は雨具を常備していたのだが、街中ならともかく、未舗装の山道で傘を差すのは無謀だった。足を取られて横転し、衣服を汚してしまった分、草間より大きなダメージを負っていたのだ。
 山奥に住む依頼人からの招きで、話を聞きに来たのがその日の午前10時ごろ。その時はまだ木漏れ日が差す上天気だった。
そして商談が終わる頃、空は既に雲で覆われていた。これは荒れるぞ、と云う草間の予感は見事に的中し、帰り道で土砂降りの雨に見舞われた、という訳である。
「次のバス、何時だ?」
「……ちょっと遅かったですね、最終が30分前に行っちゃったみたいですよ」
 何だとぉ? と、思い切り表情を崩して草間が嘆く。時刻表と時計を見比べていたみなもも、既に笑うしかない状態だった。然もありなん、時刻はまだ16時を少し過ぎたばかり。雨雲に覆われているとは言え、まだ照明は必要ない時間帯なのだから。
「仕方ねぇ、ちょいと懐は痛むが、タクシーでも……何だ? 圏外でやんの」
 今時、携帯電話の電波が届かない地域があると云う事に軽く驚きながら、草間はみなもの方へと目線を向ける。だが、彼女も自分のスマホを見て、首を横に振るだけだった。
「このままでは、風邪をひいてしまいますね。濡れる前に、能力(ちから)を使えれば良かったのですが」
「仕方あるめぇ、この豪雨の中で全く濡れてない姿を見られたら、怪しまれるからな」
 しかし、このまま日暮れを迎え、野宿する訳にもいかない。体はどんどん冷えるし、暗くなれば野獣も出没するだろう。辛うじてみなもの能力で雨粒の直撃は避けられているが、既に濡れてしまった衣服と体を乾燥させる事までは出来ないし、身を隠す術も無いのだから。
「とにかく歩くぞ、山を降りるうちに電波を捕まえられるかも知れん」
「ですね。少しでも麓に近づいておくに越した事は無いですから」
 GPSも役に立たない山奥ではあったが、一本道で迷う訳も無い。轍の跡を見失いさえしなければ、必ず麓へは着けるのだ。
二人は取り敢えず、現状打破を試みて歩き出した。すると……
「……なぁ、来る時にあんなの見たっけか?」
「いえ……覚えてません。あれだけ大きなものなら、絶対に見えていたと思うんですが」
 霧の向こうに、建物の影が見えている。それも、単独ではない。複数の建屋が軒を連ね、中には檻のように枠組みだけが見えている部分もある。どうやら、娯楽施設の跡地のようだ。
「おかしいな、地図にも載ってねぇぞ」
「廃棄されて、相当経過しているんじゃないですか? だから地図から抹消されているのかも」
「……とにかく行ってみよう、このまま雨ざらしになっているよりはマシだ」
 あからさまに怪しい雰囲気ではあったが、背に腹は代えられない。既に周りは薄暗く、日暮れも近い。二人は顔を見合わせると、ほぼ同時に頷いて、その廃墟へと向かっていった。

***

「……動物園、か?」
「みたいですね。檻が沢山あるし、遊具が無い。テーマパークだったにしては設備も貧弱ですし」
 大体、こんな山奥にテーマパークを作ったところで、客を呼べる公算は極めて低い。そこまで行くだけの値打ちが無ければ、誰も興味を示さないからだ。その廃墟は、まさにその失敗を絵に描いたような虚しさだけが漂っていた。
「ともあれ、事務所が残っていて良かったですね。これで取り敢えず、雨風はしのげます……クシャン!」
「雨風はどうにかなっても、この格好のままじゃどうにもなるまい。風邪どころか、下手すりゃ肺炎だ。命に拘わるぞ」
 飄々とした口調は相変わらずだったが、草間の言は真剣みがあった。その通り、濡れた衣服を着けたままでは、如何に夏場とはいえ健康を害する可能性が高い。二人は早急に着衣を取って、体を温める必要に迫られていた。
「せめて、火が焚ければ良いんだが……ん? おい、ロッカーの中に服があるぞ」
「本当ですか? ……あ、こっちには着ぐるみがありました。あったかそうですよ」
「タオルもあるが……何だこりゃ、クセェな。獣の匂いだぜ、堪ったもんじゃねぇぞ」
 だが、それでも無いよりはマシだった。他に暖を取る手段が無い以上、少々臭っても贅沢は言っていられない。草間とみなもは、それぞれ別の部屋に入って濡れた衣服を脱ぎ去り、手に取ったタオルで体を拭いた。そして草間は繋ぎ服、みなもは虎の着ぐるみを着て、元の事務所で落ち合った。
「何だそりゃ?」
「分かんないですけど……この動物園のキャラだったんじゃないですか?」
 リアルさを追求したものでは無く、子供番組のマスコットのようにデフォルメされた、白い体に縞模様の入った虎の着ぐるみ。みなもはそれを、頭だけ残してスッポリ被っているのだ。尤も、その下は素裸ゆえに隙間を空ける事は出来なかったのだが。
「どうせなら、頭も被ってみたらどうだ? 愛嬌があって可愛いかも知れん……お? 電話が生きてるぞ!」
 他の設備は全て機能を停止しているのに、電話だけは生き残っていたようだ。料金も支払われていないだろうに、何故……と思った草間だが、今は使えるものをフルに使って、助けを呼ぶ方が先決だった。
「もしもし? 車を一台、大至急頼む。動物園の跡地だ、事務所に……そうだ、山の中腹にある、閉鎖された動物園だ。二人だから、小型で充分だ。急いでな」
 どうにか草間が、タクシー会社に連絡を付ける事に成功したようだ。こうなれば、あとは迎えの車が到着するのを待つばかりである。
「良かったぁ、ここで一泊はしないで済みそうですねっ!」
「あぁ、女子中学生とステイしたなんて世間に知れたら、何言われっか……何してんだ?」
「だって草間さん、被ってみろって……がうっ、なんちゃって! 似合います?」
 顔まで隠したら、似合うも何も無いだろう……草間は思わず苦笑いを浮かべた。が、その時!
「う、うぅ……」
「どうした嬢ちゃん、着ぐるみが臭ェの……いかん!!」
 草間は咄嗟に、みなもの着ぐるみの頭部を外しに掛かった。が、既に変身は始まっていたようだ。
「ガウゥッ!」
「危ねぇ! ……迂闊だった、妙な空間で変な着ぐるみ……やっぱりイワク付きだったか!」
 愛らしいキャラクターを象った外観は、次第にリアルな虎の顔となって行き……直立姿勢から四足歩行になったみなもが、草間に向かって牙を剥いた。丸みを帯びていた手足にも鋭い爪が伸び、完全な白虎となるのに、ものの十秒も掛からなかった。
 事務所から脱出し、先刻着替えに利用したロッカールームの扉をバリケードで塞いで、息を整える。そして草間は……
「来る時には無かった動物園から、何故か繋がった電話……アレは何処に繋がったんだ?」
 ただ、頭を抱えるばかりだった。

<了>