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<東京怪談ノベル(シングル)>


この一日は誰がために
 白鳥・瑞科。
 人類に仇なす悪魔、魑魅魍魎を歴史の影にて狩り続ける組織『教会』――その最前線にて刃を振るう“武装審問官”のエースである。
 彼女は今、普段の戦闘用修道衣姿ではなく、ワンサイズオーバーのワイシャツに七分丈のチノパンというラフな格好を晒していた。
「――誰も見る方はいらっしゃらないのですけれどね」
 瑞科のいる場所は、ビジネス街のただ中に建つ高層ビルの最上階。彼女はそのワンフロアを借り切り、住居としている。
 ちなみにこのビルと教会とはなんの縁もない。だから、交渉もすべて瑞科自身で行った。年に幾度もない休日、教会の屋根と監視の下で過ごすのはごめんだ。
 それに、この人家のない街でなら、暮らしというもののにおいを嗅がなくてすむ。人々の営みはこの上もなく貴いが、研ぎ澄ますことを常としている瑞科の五感は容赦なくそれらの音や動きを拾ってしまう。気を休めるどころか、かえって気を張り詰めることになってしまうのだ。
 ビジネスライクな人々が一日の一時を行き交うだけの街。瑞科はそこが気に入っている。

 フロアの東にしつらえた祈り場で、自分に休息のときを与えた神へ感謝を捧げた瑞科は、跪いていた体を立たせた。
 夕べ帰ってきたときにしかけておいた水出しコーヒーは、瑞科が一日を過ごすのに充分な量、抽出されている。
 ――瑞科は基本的にアルコールを口にしない。アルコールは思考と運動能力を削り、戦闘職を激しく劣化させるからだ。休日とはいえ、自らを腐らせるような真似はしたくない。
 ともあれ。指が貼りつきそうなほど冷えたステンレスのタンブラーにコーヒーを注ぎ、ひと口喉へとすべり込ませた瑞科は息をついた。
 今日の豆はコクが深く、酸味のないトラジャ。苦みを立たせるためにフレンチローストで煎ってみたが、この豆ならばもう少し浅煎りでもよかったかもしれない。
「朝食を用意しなければなりませんわね」
 そして彼女が冷蔵庫から取り出したのは、鶏のささみを100グラムと各種野菜を300グラム。計量し、小分けにしてあるので、今さら分量で迷うことはない。戦闘も料理も、準備の段階で半ば以上趨勢が決まってしまうものだ。
 瑞科は手際よく野菜を折り重ね、包丁を振るって野菜を千切りに整えた。そこへレンジで加熱して細く裂いたささみを混ぜ込んで、ノンオイルのソルトドレッシングで和える。
 ちなみに彼女が使う食材のすべては、瑞科が自らの目と舌とで選び抜き、契約を結んだ農家からの直送品である。途中で彼女を狙う敵の手に侵される心配はあるが、いくつかの手は打ってあるし、食の恵みを受けながら神の御手に抱かれるのならば本望だ。
 ――できあがったチキンサラダを半分皿にとり、先ほどのアイスコーヒーとともに胃へ収めていく。
 瑞科は一日に六回の食事をとる。いつ何時任務が舞い込むとも限らない。その際、常に最高のパフォーマンスを発揮するため、空腹でも満腹でもない状態をキープしておく必要があるからだ。
 この任務優先の生活において、彼女は火を使う料理を作ることもしないことにしている。火を放って出かけて火事などを起こさずすむよう定めたルールである。
「電子レンジを開発してくださった方に主の祝福がありますよう、ですわね」
 新しいタンブラーに注いだ食後のアイスコーヒーを携え、瑞科は窓際に立った。
 この街のビル群に、このビルをしのぐ高層建築物はない。ガラスはすべて対弾対爆仕様に変えてあるが、それでも狙撃や強襲を受ける恐れが低いのはありがたいことだ。ここを住居に定めた理由の大半は、そのことにある。
 眼下を時折行き過ぎる車や人を見やり、しばしやわらかな日ざしに身を浸していた瑞科だったが、ふとその身を翻した。
「忘れないうちに型をなぞっておきましょうか」

 フロアの西側は大きく空けてある。
 その中央に瑞科は歩を進め、止まった。
 深く息を吐きながら前へ上体を倒し、今度は両脚をかるく広げて左右へ、ゆっくりと押し曲げていく。
 この調子で全身のストレッチを終えた彼女は、すでにかるく汗ばんでいた。本気でストレッチを行うことは筋肉を強く動かすことと同意であり、本格的に動く前のアップとして最適な運動となる。
 直立し、呼吸を整えた瑞科が、動いた。
「ふっ」
 上体を立てたまま、頭の位置を保って右のつま先を前へ送り出し、たぐり寄せるように左足を引きつける。
 左の腰に佩いた剣を抜き打つための、基本中の基本動作だが、体を上下させず、軸を保ったまま動くのは難しい。肉体を構成する筋肉は、ただまっすぐ動くだけでも複雑にねじれ、位置をずらしていくものだからだ。それをコントロールしつつ、最速を成すよう動く。
 壁一面を覆う鏡を見ながら、瑞科は飽きることなく同じ所作を繰り返した。基礎は繰り返し体に覚え込ませてこそのもの。しかし、体はその記憶を自身が楽できるよう、さりげなく改ざんしてしまう。だからこそしっかりと監視し、修正を施さなければならない。
 剣を持たずに一時間、剣を佩いて一時間、ひたすらに抜剣を繰り返した後、瑞科は塩とレモンを混ぜたミネラルウォーターと、おはぎをひとつ――即座にエネルギーとなる炭水化物と糖分を摂取するためである。和菓子である理由は、洋菓子は脂質が多く、ウェイトコントロールが必須の戦闘職には不向きなためである――をとった。
「とはいえ、あまり体脂肪を減らすのもよくないのですけれど」
 鏡の前で、自分の体を隅々までチェックする。
 戦闘職の理想だけを言えば、体脂肪は八から九パーセントにとどめておくべきだろう。
 しかし、瑞科と対する敵にとって、彼女はその生の最期を見送る聖職者である。そして、彼女に送られて逝く死者の行先は地獄。ならばできうるかぎりあでやかで美しくありたい。地獄の責め苦にあえぐ彼らに、わずかなりとも救いを与えるために。
 理想の九パーセントに、手向けの四パーセント。この体脂肪が描きだすボディラインを思い、瑞科は鍛錬の後の食事に豆大福をひとつ追加することを決めた。

 続く鍛錬は鏡の前に再び立っての型演武である。
 型とは、ある戦闘シチュエーションを想定して攻防の連携を確認するためのものだ。なぜこのように踏み込み、剣をその軌道で振り込んで体をああして返さなければならないのか。その意味が理解できていなければ、型は不格好なダンスに成り下がる。
 さまざまな型をまた一時間、みっちりとなぞった瑞科はようやく剣を置いた。
「本格的なおさらいは休み明けですわね」
 装備が異なれば、重心や感覚にズレが生じる。休日中に戦闘修道衣をまとうことを禁じた教会へ恨みの念を送りつつ、瑞科は汗で貼りつくシャツを脱ぎ、浴場へ向かった。

 瑞科は体温とほぼ同じ温度に調節したぬるま湯をシャワーで浴びる。
 肌を傷つけないよう、やわらかな海綿にたっぷりと泡立てたボディシャンプーを盛り、汗汚れをぬぐい取る。
 この身を戦場に閃く剣と化し、戦場を飾る花と化す。相反するふたつの生き様を成すために、彼女は丹念に己を磨きあげるのだ。
 かくして湯の内に身を沈める瑞科。磨かれた肌の上を、水の玉がつるりと転げ落ちていった。
「肌のセルフメンテナンスは上々のようですわね」
 瑞科が休日の自分にただひとつゆるした、湯船につかるひととき。深く息をつき、湯船の縁に頭を預けた彼女は天井を見上げて思う。
 ――この後に散りゆくとしても悔いはありませんわ。
 鏡に映る自分の顔に凄絶な笑みが刻みつけられていることに気づき、瑞科は心を鎮めるよう努めた。
「いけませんわね……」
 気がつけば、戦場のことばかりを考えている。
 理由は知れている。今、彼女が戦場にいないからだ。
 食事も鍛錬も入浴も、最高の手を尽くして己と対する敵を送るためのもの。
 修道女が神にすべてを捧げて生きるように、瑞科はある意味で敵にすべてを捧げて生きている。
「わかっておりますわ。わたくしもまた、主の御心に背きし大罪人であること。ですが」
 わたくしの欲も業も、主の御愛を示すためにお使いくださいまし。
 技と業(わざ)及ばずにわたくしが死したとき、天国への門を叩くようなはしたない真似はいたしませんわ。この身を正して地獄へ下ります。

 沐浴を済ませた瑞科は部屋着に着替え、フロアの隅に置いた事務机――俗に云うプレジデントデスク――についた。
 目を通さなければならない書類も溜まってはいるのだが、それはとりあえず放っておく。それよりも先に、新しい遺書を書き上げておかなければならない。
 内容は、彼女が戦場で死した後の財産の処分について。
 謝辞も思いの吐露もなく、ただ必要不可欠なことだけを書き連ねた一通の遺書は、古いものの代わりにデスクのいちばん上の引き出しにしまわれた。
『なんでこんなつまんないの書くカナー。もっとこう、ホーリーシットーな感じデサー、盛り上げてこうよ!』
 そう言ったのは、瑞科の装備の開発と改良を一手に引き受ける博士だったか。
 しかし、こればかりはどうしようもない。生者に残す遺志など持ち合わせていないのだから。
 瑞科の意志は瑞科の敵にのみ示されるものであり、瑞科の遺志は瑞科の魂とともに消え去るもの。他の誰にも分け与えるつもりはない。
「わがままなのですかしらね……。でもわたくしには、それ以外の生きかたはできませんし、それ以外の死にかたもできませんもの」
 そうつぶやきながら、瑞科はしまい込んだ遺書を今一度取り出し、封を開いた。そして追記を――わたくしと言葉を交わしてくださったすべての方へ。わたくしの死後、部屋に残されたものは遺品としてご自由にお持ちになってくださって結構です。そう書き添えた。
 ちなみに後日、どこからともなくそのことを嗅ぎつけた博士や他の顔見知りが群れとなってこの部屋へと押し寄せ、あらゆる物品に予約メモを貼り付けていくことになるのだが……それはまた別の話だ。

 遺書を調えた瑞科はまたキッチンへ。
 今日最後の食事は刻んだ野菜を練り上げた強力粉の皮で包み、レンジで蒸した野菜餃子だ。
 それが仕上がる間に米へ水を吸わせ、粥を炊く準備を進める。
 強敵とわたりあった後、それまでの緊張が解けることで歯の根が合わなくなることがある。そうなると固形物を噛むことができず、通常の摂取が不可能となる。
 だから彼女は、噛まずに飲み込めるうえ、胃に負担をかけないやわらかい粥を用意し、冷凍しておくのだ。
「生き延びた者の務めは、次の死線へ向かうために準備を怠らないことですわ」
 このやわらかな粥は瑞科の固い覚悟なのであった。

 今日、成すべきことはすべて成した。
 あとは緊急の任務が飛び込んでこない限り、眠って明日に備えるだけ。
 でもその前に――
 瑞科はすべての灯を消し、暗がりのただ中で直立した。
 なにもしない。ただ、まっすぐ立つ。
 人間は細かなパーツの集合体であり、同一の姿勢を一定時間以上保つには莫大なエネルギーを必要とする。その中でも直立不動はもっとも負荷の高い姿勢の筆頭なのだが、しかし。
 瑞科は笑んでいた。
 自らの体を成り立たせる骨に、肉に、直立不動を保てるだけの力がある。
 その力を出し続けられるだけのエネルギーを含んだ血が巡っており、神経は正常に機能していて、おかげで姿勢維持を命じていられる。
 思うがままに己を御し、思うがままに生きている。
 それを実感できるこの時間は、瑞科にとって最高の癒やしであり、活力の素だ。
 ――この体を、この喜びを、明日の戦場へ連れていきますわ。
 果たして明日にはどのような戦場があり、敵があるものか。
 瑞科は静かに立ち尽くし、笑み続けた。