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<東京怪談ノベル(シングル)>


運命は再び訪れる
 魔女の呪縛から放たれ、洋館に閉じこもって終焉を待ち続けているばかりだった少女を家族に迎えたイアル・ミラールと響・カスミ。
 久々に住まいへ戻ったふたりが最初に求めたものは、身を清めるための風呂だった。
「……髪だけじゃなくて体中がキシキシするわ」
 強ばった筋肉をおそるおそる伸ばしながら、カスミがスポンジで湯船をこする。
 一年もの間、石のガーゴイルとして使役されてきたのだ。人としての動作に自信が持てないのは当然だろう。
「振り込みじゃなくて引き落としにしておいてよかったわね。ライフラインが停まってなくて助かったわ」
 それを手伝うイアルはといえば、半年以上の野良犬生活を経てなお、よどみなくすべらかな動きを見せていた。
 ここから30分。イアルとカスミは風呂場を隅々まで綺麗にし、湯船に湯を張った。そして互いに体を覆った汚れを、普段は使わないナイロンタオルでこすり落とそうとして肌まで傷つけ悲鳴をあげ――固まった髪を洗い合って、汚れごと髪が引っこ抜けそうになってまた悲鳴をあげた。
 そうしてなんとか体裁を整えた後、ようやく振り返った。
「お待たせ! 用意できたわよ」
 どうしていいかわからず、脱衣所で立ち尽くしていた少女へカスミが手を伸べて。
「日本では裸の付き合いってのがあるんでしょう? 家族を始める決起集会にはもってこいよね」
 イアルもまた手を伸べて。
 ふたりに招かれた少女が、おずおずと服を脱ぎ、風呂場へ入ってきた。

「さすがに、三人で入るのは、辛いわね」
 湯船の内、窮屈な体育座りで固まった体を苦しげに動かしながらカスミが言った。
「欧米式の、お風呂なら、こんなこと、なかったのに、ね」
 カスミと向かい合って湯に浸かったイアルが、これもまた苦しそうに笑う。
「それだと肩まで浸かれないじゃないの」とカスミ。
「今だって肩まで浸かれてないけど」とイアル。
「……」、これはふたりの脚の隙間に詰まった少女だが、無言。というか、どうしたらいいのかがわからないようだ。
「もっと楽にしていいのよって言えないのが、辛いところね」
 カスミの苦笑に、イアルが遠くを見る。
「それも込みで裸の付き合いでしょう? 後になってみればいい笑い話になるわよ。あのときのことみたいに」
 イアルの言葉がカスミを同じ“遠く”へと誘った。
「――そうね。でも笑わないわよ。私にとってあれは運命の出逢いだったんだから」
 ふと、少女がイアルを、そしてカスミを見た。
「なにがあったの?」
 イアルがカスミにうなずきかける。話してあげてもいいんじゃない?
 その促しにカスミは「そうね」と返し、言葉を探るようにゆっくりと語り始めた。

                   *

 カスミが音楽教師として勤める私立神聖都学園。その敷地内に小さな美術館がある。
 学園の生徒の感受性と芸術的素養を伸ばすため、本物の美術品へ触れることのできる場を設ける。それを理念として学園が設立したものだ。
「ふう」
 学園本棟の音楽準備室で書き物をしていたカスミがパソコンのキーボードから指を離し、息をついた。
 二時間も画面と向き合っていたのに、打ち込めた文字はたったの300。思うように集中できない。
「原因はアレよね……」
 準備室の窓を開ける。
 風に乗って舞い込んできたのは近づく夜の気配に冷まされた空気と、その清廉さを汚す黒くすえた臭い。
「コールタールって臭いのねぇ」
 カーボンブラックや染料の材料として使われるこの物質は、第二次世界大戦前までは防腐剤や薬品として世界で広く使われてきた。ちょっと変わったところでは、欧米産の絵本で登場キャラクターをひどい目に合わせる“臭いとりもち”としても。
 そして。彼女が集中できない原因はこのコールタールの臭気の素……美術館に先頃運び込まれた特別展示品にあった。
 カスミは学園のローカルネットワーク内で公開されている美術館の展示品データを呼び出し、特別展示品の説明文を見る。

 作品名『素足の王女』。
 作者不明のコールタール製レリーフ。制作年代は14〜16世紀ごろと言われるが定かではない。亡国の王女の姿をモチーフとしたものらしいが、詳細は不明。素材になぜコールタールが使用されているかも不明。
 その細緻な造形から、一時は死体を防腐作用の高いコールタールで固めたものなのではないかと言われていた(現在は検査により、王女本体は石製であることがわかっている)。
 今だ強い臭気を放ち、世界でも希なる“近寄りがたい”レリーフであることから、美術的価値は認められていない。

「それがどうしてこの学園に――?」
 今回の特別展示の主催は、全国に名を知られた高級ホテルの運営会社だ。その有名な会社が、無名の美術品を持ち込んだ意図がさっぱりわからない。しかも、耐えがたいほどの臭気を放つ曰くの品を。
 設置されて三日。美術館を訪れた生徒が数人、すでにあのレリーフの臭いにあてられて体調を崩しているという。それでも展示が中止されることなく、あの王女は美術館のただ中に立ち続けているのだ。
「なにかあるのかしら」
 自分がこのレリーフを気にしているのは、あるかもしれず、ないかもしれない裏の事情のせいなのだろうか。それとも、別のなにかがあるというのか。
 なんであれ。
「自分の目で確かめなきゃ収まらないわよね」
 カスミはパソコンの電源を落とし、美術館へ向かった。

                   *

「う」
 美術館の大扉を開けた瞬間、強いコールタール臭がカスミの鼻を突いた。
「これはまた強烈だわ」
 目眩を覚えた頭が無意識に外へ逃れ出ようとする。それを意志の力でねじ伏せ、奥へ進む。
 何歩も歩かないうちに、ストッキングで鎧った脚が嫌な汗で湿ってきた。今すぐ音楽準備室へ駆け戻り、服を全部脱ぎ散らかしてシャワーを浴びたい。
「シャワー……シャワー……」
 唇から本音が漏れ出していることに気づかぬまま、カスミは重い足取りで――のはずだったものがいつしか普通に、気がつけばかろやかに奥を目ざしていた。
 レリーフへ近づくにつれ、臭気は耐えがたいほどに高まっていく。しかし同時に、えもいわれぬ甘やかな香りが鼻腔へ忍び込み、カスミを惹き寄せるのだ。
 早く。もっと、早く。急かされる気分で、カスミはついに小走り。荒い息を吐きながら、もどかしい手で特別展示室の扉を開け放った。
「ああ」
 凄まじいコールタール臭のせいで、勝手に涙があふれてきた。
 その涙を、狂おしく切ない涙が押し流し、カスミの頬を濡らした。
 かすむ彼女の瞳に映るものは、コールタールのレリーフに浮き彫られた“素足の王女”。
 何者かから逃れようとしているのだろうか、その手は救いを求めるかのように中空へ伸べられており、開かれた両眼には無念と怒りとが映し出されていた。
 私を呼んでいる?
 カスミの胸が高く跳ねた。この像が造られたのは何百年もの昔。カスミを呼ぶわけがない。わかっている。わかっているのに。
 カスミは浮かされたようにレリーフへ近づいていく。もう、コールタールの臭いは感じない。感じるのはそう、王女から漏れ出す甘い匂いだけ。
 カスミは王女の掌に自らの掌を重ねて――この美術館に置かれた彫刻はすべて手を触れることが許可されているから問題はない――指をからめた。冷たく固い、つるりとした感触。ちがう。匂いが発せられているのはここじゃない。
 王女の手を握ったまま、彼女は鼻を像へすり寄せ……探り当てた。
 唇。
 ここだ。ここから、たまらなく甘い、匂いが。
 はぁっ。熱い息を吐いたカスミはそれを追うように、半ば開いた唇を王女の固い唇へ押しつけ、こじ開けるように舌を蠢かせた。
 最初にカスミの舌を侵したものは苦みだった。コールタールは強い発がん性物質だ。下手をすれば発症するかもしれない。でも、かまっている余裕はなかった。王女の唇を、もっと。
 苦みの下から甘みが現われる。それにつれ、硬さの内からやわらかさが、冷たさの底からあたたかさが――おかしい。だって王女は彫像なのだ。なのになぜ、これほどに甘く、やわらかく、あたたかく、そしてカスミの舌に応えて……
「!」
 王女から、コールタールの黒が溶け落ちていく。
 石の肌に生気が灯り、速やかにすべらかな輝きを放つ白へと変わっていく。
 果たして。まるで絵本に語られる魔女の呪いから解かれるように、金髪赤眼の“王女”は息を吹き返し。
 カスミの腕の内へ崩れ落ちてきた。
「うわ! ちょ、まっ、なんで美術品が人間にって、臭っ! シャワー! とにかくシャワーっ!!」
 空ならぬレリーフから落ちてきた王女を抱え込んだカスミは、なんとか音楽準備室まで戻ってシャワーを使い、王女をくまなく洗い清めた後、仮眠スペースに横たえることに成功したのだった。

「……?」
 目を覚ました王女がずっとそばで介抱していたカスミを見やり、言葉を発した。しかしながら一般的な欧米の言語ではない。
 文献やネットを駆使して調べ、どうもケルト語らしいことはわかったが……現在ではほとんど使う者のない言葉だけに、カスミにはお手上げだ。
 と。
 王女が、再び口を開いた。
「あなたが私を助けてくれたの?」
 え? なんでいきなり、日本語?
 よほどおかしな顔をしていたらしいカスミに怪訝そうな顔を返し、王女は言った。
「魔女によってコールタールへ塗り込められて以来、私は世界中を巡ったみたい。憶えているわけじゃないけれど、なんとなく染みついているのよ。いろいろな国の風土も言葉も」
 その後、王女は自身の身の上を語った。
 自分がとある小国の第一王女であったこと。
 しかしあるときに国は滅ぼされ、魔女に捕らわれた彼女は呪いを受けてレリーフにされたこと。
 彼女の内には国を守護していた鏡幻龍が在り、その力が魔女の呪いから魂を守っていたこと。
 その力は彼女を石化させることでその身と魂とを守るものであり、その石化を解くには乙女のキスが必要。だからこそ石化した王女は乙女を引き寄せる甘い香を放つのだということ。
「あなたのキスで私は蘇ることができたの。……乙女? あなた、乙女というにはちょっと――でも、男性経験がなければ――」
「それはともかくっ!」
 乙女と呼ぶには少しならず抵抗のある年齢の、しかし悲しいまでに清らかな身であるカスミは、王女の言葉を強引に遮った。
「考えなきゃいけないのは王女様のこれからよ。帰るにしても、国はもうないのよね。……そもそも誰も信じてくれないわよ? レリーフから王女が生き返りましたなんて。しかも私のききキスで」
 冷静を装ってきたカスミだが、思わず動揺がはみ出した。
「まあ、そのあたりのことは後々考えるわ」
 肩をすくめる王女。
 いやいや! まず最初に考えることでしょう!? ちなみにその次は、特別展示品がなくなった理由をどう学園長に説明するかよ!
 食ってかかろうとしたカスミだったが。
「今はあなたと過ごしたい」
 はい?
「さっき言ったでしょう。龍の力で石化した私は乙女を引き寄せる香を放っている。魔女がコールタールで私を塗り固めたのは、それを覆い隠すためだったんじゃないかと思うの。実際、私は数百年も封じ込められたわけだしね。でも」
 王女の瞳が濡れた光を映し、燃え立った。
「あなたが来てくれた」
 王女の手がカスミの手をとる。
 あたたかいどころか、熱い。その熱にあてられてカスミの手も熱を帯び、心が得体の知れない衝動で押し詰まる。いけない。このままでは――
「運命にすがるほど運命に愛された覚えはないけれど、これは運命だと思うの。あなたがいるこの地に私がたどり着いたのは」
 ――抱きしめてしまう。
 王女の体を抱きながら、カスミはその耳元で低くささやいた。
「私も典型的な日本人で、運命とか神様はあるのかもしれないくらいにしか信じていない。でも、一度だけ信じるわ。この出逢いは運命だって」
 その腕を熱く引き入れながら、王女がささやきを返す。
「私はイアル。イアル・ミラール」
「響・カスミ。カスミよ――」

                   *

「――その後いろいろ大変だったけど、なんとか乗り越えて今に至るの」
 イアルとカスミが語り終えた後、少女はひとつうなずいて。
「あたしも運命、信じるから。だから、イアルとカスミももう一回信じてくれると、うれしい」
 言葉尻は湯の中に泡となって消えて。
 イアルとカスミは言葉を返す代わり、左右から少女を抱きしめた。