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<東京怪談ノベル(シングル)>


忌底
 この地には、いつ建てられたものとも知れぬ豪奢なホテルがある。
 固く閉ざされた門に近づく者はない。なぜだろう、中をうかがおうという好奇心がまるで沸いてこないのだ。
 訪れる客はなく、近隣の住民は近寄らず、口コミの種に挙げられることもない、しかし変わらずにただ在り続けるホテル。
 それこそが世界の裏側に名を馳せる魔女どもの巣窟――魔女結社のアジトであった。

 ホテルの地下を巡る下水道。
 汚水の流れの脇にしつらえられた歩行路を進む女がぼやいた。
「どんなに綺麗に飾った人でも、最後に垂れ流すのはこの臭いなんですよねぇ」
 鼻に皺を寄せたせいでずり落ちた、モノクルをふたつ繋げて造った眼鏡を押し上げ、魔力の灯を頼りに地図を確かめる。
「さて、教育は進んでいますかね?」
 下水道のあちらこちらにある広い空間は、もともとは防空壕を兼ねて造られた名残だったが。
 今、そこには何人もの少女が倒れていた。
 その体には多くの擦り傷や切り傷が刻まれており、首筋には深い噛み傷が穿たれている。
「グゥゥゥゥ」
 魔女の姿に弱々しい唸り声をあげる彼女らは、すでに人ではない。段階を踏んで洗脳され、獣へと堕とされた――魔女結社の主力商材である“野生化”だ。
「そろそろ憶えてくださいね。飼い主には絶対服従ですよ」
 ギャン! 魔女の放った衝撃波が少女らを撃ち、弾き飛ばす。
 それでも少女らはひるまず、さらに魔女へ遅いかかろうと身構えたが。
「ウォウ!」
 新たに響いた低い鳴き声にびくりと身をすくませ、伏せた。
「群れはしっかり統率してますね。褒めてあげますよ、犬」
 数ヶ月にわたる時間をここで過ごしてきた“犬”は不本意げにうなる。
 その体はけして大きいとは言えなかったが鋭く引き締まり、他の“野生化”を圧倒する暴力のにおいを放っていた。
「もっとも、放ってるにおいはそれだけじゃありませんがね」
 皮脂、汚泥、汚水、汚物――あらゆる汚れをこびりつかせた“犬”に、眼鏡の魔女は苦笑とともに魔杖を掲げ。
「いつまでうなってるんですか。楽しくないことになりますよ?」
 あれは幾度となく自分を撃ちのめした杖。
“犬”はしぶしぶと目を伏せて歯を剥き出し、恭順を示した。
 その不本意そうな表情に、眼鏡の魔女は小首を傾げて。
「うーん、今回はまだ敵意が残ってる、と。やっぱり三十分じゃ無理がありましたかね。でも、一時間もかけるようじゃ、ご主人様の興が冷めちゃいますしねぇ」
 続けて彼女はスマートフォンを取り出し、地上に連絡をとった。
「どうもどうも、あたしですけど。新しくこっちに送り込んだ“野生化”の教育は第一段階終了です。このまま第二段階に進んじゃいます? あ、じゃあ一匹だけ上げますね。いえいえ、お客様が第一ですんで」
 本来なら第五までの調教を施したうえで客へ届けるのだが、常連客の内には野性味が損なわれることを是としない者もいる。今回はその類いの客から注文が入ったようだ。
 眼鏡の魔女は“犬”の後ろで頭を垂れた“野生化”の一匹に目を止め、スマホにメモを書きつけた。この下水道――訓練場へ落とされてまだ日が浅く、髪も短いままの“野生化”。獣スレしていない彼女なら、偏った嗜好を持つ客もきっと気に入ってくれるだろう。
 と、ここで電話の向こうに新たな声が加わった。
「これはこれは姐様、ごきげんよう。え、これからいらっしゃる? ま、“犬”に術もかけなおしたいとこでしたし、例のあれ、試しちゃいましょっか」
 魔女は眼鏡を押し上げ、“犬”に酷薄な笑みを投げた。

“野生化”は術で追い散らされ、広場には“犬”だけが残された。
 仰向けにされ、汚れた腹を晒した状態で固定された“犬”の耳をいくつもの足音が不快に揺らす。
「ご希望どおりにしておきましたけど、拘束術は解きますか?」
 現われた魔女の一群に会釈した眼鏡の魔女が訊く。
 対する魔女どもはかぶりを振って。
「そのままでいい。この“犬”はずいぶんと猛々しいゆえ、暴れられては厄介だ」
 ――これを弄びたいってご趣味のみなさんでも、そういうとこは気になさるんですねぇ。
 思考を読まれぬよう心に幾重もの壁を張った眼鏡の魔女は、顔でだけは畏まって一歩下がった。
「野生化を解け」
 魔女のひとりに命じられ、眼鏡の魔女は細くうなり声をあげる“犬”の額に指をあてがう。
「取り戻しなさい、魂に刻まれたその真名を。イアル・ミラール」
 どくり。魔力で押さえ込まれているはずの“犬”の体が大きく跳ねた。
 瞳に知性の彩が差し、表情が困惑と驚愕とで激しく乱れる。
「……っ!」
 わたしはなぜこんなところに――どうして動けない――あれは魔女ども――カスミは――わたしは――
「混乱してますねぇイアルさん。もう“犬”って言われるほうがしっくりきますか?」
 魔女の眼鏡に、イアルは知らないはずの光景を見る。
 闇の内に伸びる汚水の流れ……そうだ、ここは下水道。しかし、魔女結社の巣窟たるホテルの地下施設で意識を失ったはずの自分が、なぜそんなことを知っている!?
「姐様方が教えてくれますよ。ひとつひとつ、イヤってくらいね」
 動けないイアルを魔女どもが取り囲む。
「おまえはイアル・ミラールの名を奪われ、“犬”になったのだよ」
「“犬”はこの下水道に落とされ、まさに犬のように生きていたものじゃ」
「見てごらん? 自分の体を! 我を忘れて下水をすすり、餌に食らいつき、汚物をその体になすりつけ、悦に入っていたことを思い出すでしょう?」
「悦といえば、あたくしの指に体をこすりつけて悦んでいたわよねえ。はずかしげもなく鼻を鳴らして」
 魔女どもの粘る声音がイアルの心に押し入り、影絵のような記憶を露わしていく。
 この下水道を四足で駆け、“野生化”させられた他の少女と争い、ボスとして君臨していたイアル。
 自分は時折訪れる魔女どもが投げる餌に食らいつき、汚水をすすり、そして戯れに与えられる悦びに身を震わせた。
「あ、ああ、あ」
 イアルの内の“イアル・ミラール”が揺らぐ。わたしはイアル・ミラール。イアル・ミラールは、わたし。わたしは……イアルは……誰?
「言葉責めはそのくらいで。ただでさえ繰り返し書き換えてますんでね。勝手に“犬”へ戻られたら実験になりませんよ」
 眼鏡の魔女がイアルの頭上で半笑い、かがみこんだ。
「ねぇイアルさん? 憶えてないでしょうけど、あなた何回もこうやって“犬”からイアルさんに引き戻されてるんですよ」
「ど――」
「どうして? さっき言ったじゃないですか。実験ですよ」
 眼鏡の魔女が今度こそ、顔いっぱいに笑んだ。
「あなたの魂にはイアル・ミラールって真名が刻まれてます。ですからあたしはその上に“犬”って名前を刻印してみました。人の意識ってのは魂が自覚してる名前――真名に依存してますんでね。それを“犬”に上書きするだけで、イアルさんの自我は簡単に揺らいで獣に堕ちた」
 説明が重ねられる。
 聞いてはいけない。これはイアルを動揺させ、自我を弱めるための一種の呪文だ。
 しかし、イアルは指先ひとつ動かすことができず、ただ聞かされ続けた。
「おかげで貴重なデータが取れましたよ。普通、魂を衰弱させて“野生化”を定着させるには一ヶ月以上かかるんですけどね。上書きでその時間を最短で30分まで縮められる。しかも真名を呼び出すだけで簡単に元の人格へ戻すことができる。次の“野生化”全員、この処置を行う予定です」
「なんてことを……!」
 思わず声をあげたイアルを、眼鏡の魔女は満足げに見下ろして。
「イアルさんは高く売れますよ。なにせお客様好みの状態に、何度でも調整しなおせるんですからね。――問題はあなたの中にいる幻鏡龍です。龍はどうやらイアル・ミラールの真名を護ってるらしくて、真名が消えると龍も消えちゃうみたいなんで」
 魔女結社はイアルよりも幻鏡龍が欲しいのだ。あらゆる攻撃、魔法、呪いを打ち消し浄化する伝説の龍が。
「ま、そのへんの研究はぼちぼちやってきますよ。とりあえず今は楽しんどいてください。姐様方が満足したら、また“犬”の生活に戻っていただきますんでね」
 魔女どもの笑声に捲かれ、イアルは高い声をあげた。
 それは悲鳴であり、慟哭であり、歓喜であった。


「イアル様は魔女結社の日本本部に捕らわれています」
 響・カスミがイアル、そして新たな家族となった少女と暮らすマンション。
 居間のソファの隅に腰を下ろしたメイドが、カスミと元の主である少女へ告げた。
「イアル――!」
 立ち上がるカスミ。
 メイドはそれを掌で止める。
「今はこらえてください」
「でもイアルが!」
「イアル様は魔女の巣窟の奥底に閉じ込められているのです。あなたが救いに行ったところで、獣か石像が一体増えるだけです」
 カスミの喉に言葉が押し詰まり、ぐうっと鳴った。彼女は知っている。ただの人間がどれほどたやすく堕とされるのかを。
「時を図りましょう。私ももう少し深くまで探りを入れてみますので」
 メイドと少女の視線が重なり――彼女は目を伏せてそれを断ち切った。
「くれぐれもご自重ください。それでは」
 メイドが影のように姿を消した後、カスミは少女を強く抱きしめた。我を忘れて飛び出してしまわないように。
 ――かならず助けに行くわ……イアル!!