コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ノベル(シングル)>


獣の戯れ


 イアル・ミラールは人間に戻った。
 今まで自分が、人間ではなかった。それはわかる。
 人間ではないものとして扱われていた感覚が、全身あちこちに残っている。
 苦痛ではない。むしろ、その逆……快感に近いものが、イアルの全身を火照らせている。
 快楽の余韻だった。
 自分は今まで、とてつもない快楽を与えられていたのだ。
 だがそれは、人間として扱われていた、という事ではない。
 人としての尊厳などというものが、自分にもしあるのだとしたら、それを徹底的に蹂躙されていたのだ。
 目の前に佇む、女性によって。
「あ……あなた……わたし……に……」
 イアルは、呻き声で問いかけた。
「いったい……なにを、したの……」
「言葉で言うのは、やめとくわ。3流エロ小説の朗読にしかなんないから」
 女調教師が、にやりと笑う。
「あんたの身体がね、覚えてるはずだよ。あたしが……どれだけ、あんたを可愛がってあげたのか」
 右半分は美女、左半分はピエロ。そんな笑顔が、禍々しく歪む。
 縦真っ二つに割られたピエロの仮面が、彼女の顔面の左半分を覆い隠しているのだ。
 半分だけの仮面で、彼女は一体、何を隠しているのか。隠された左半面が、いかなる状態にあるのか。
 イアルは知らない。いや、本当は知っているのかも知れない。
 とにかく。この半分だけの美貌で微笑みかけられると、彼女に対する怯み、あるいは負い目、のようなものが、イアルの胸中で湧き上がり渦を巻く。彼女を攻撃する事が、何故か出来なくなってしまう。
 それを良い事に彼女は、イアルを蹂躙した。徹底的にイアルを、人間ではないものとして扱った。
 その余韻が、イアルの全身を、じんわりと痺れさせている。
「どう? 獣になって、人間に可愛がられる。愛玩される、調教される……それって気持ちいいでしょ」
 手にした鞭を弄びながら、彼女は言った。
「あたしはね、それを教えてあげただけ……動物はね、人間に調教されるのが一番、幸せなの。ペットになって、可愛がられる……人間と動物が仲良くする手段ってね、それしかないわけよ。そうでしょ? イアル・ミラール」
 名を、呼ばれた。
 それだけでイアルは、人間ではいられなくなった。
「ぐるッ! ……きゅうぅ……くぅうぅん……」
 そんな声が、出てしまう。
 身体が、四つん這いのまま勝手に動き、女調教師に擦り寄って行く。
「よしよし……ふふっ、もう必要ないかもね。こんな、名前の呪いは」
 仔犬のように鼻を鳴らすイアルの顔を、優美な五指でそっと撫でながら、彼女は言った。
「あんたはもう、完全に獣……調教済みの、ね」


 イアル・ミラールは、まったく天性の囮捜査官であると言って良かった。
 彼女のおかげで、魔女結社の関係者が次々と、勝手に炙り出されて来てくれる。
 あの芸術家もそうだし、この調教師もそうだ。
「……お迎えが来た、って事?」
 強烈な獣臭さを発する生き物を、膝の上で甘えさせながら、その女調教師は言った。
 茂枝萌は応えず、無言のまま、地下室に歩み入った。
 魔女結社によって拉致され、獣の精神を植え付けられた少女たちを、調教して『商品』に仕立て上げる。
 そんな仕事を請け負っていたのが、顔の左半分にピエロの仮面を貼り付けた、この奇怪な女だ。
 イアル・ミラールも、今や彼女の『作品』と成り果てていた。
「くぅうん……ごろごろ……」
 そんな声を発しながら、女調教師の太股に甘えている。
 入浴をしない野生の獣そのものの臭気を発するイアルに、半仮面の女は優しく膝枕を貸していた。べたべたと汚れほつれた牝獣の髪を、優しく撫で弄りながらだ。
「今は、こんなんでもね……あたしが鞭を鳴らすと、子供だって喰い殺す猟犬に早変わりするんだよ。この子」
 女調教師の口調が、どこか気怠げで弱々しい。
 病んでいる、と萌は感じた。あの女芸術家のように、心だけでなく身体もだ。
「ひたすら鞭でしばくだけが調教じゃあないの。伏せ1つにしても、上手く出来たらちゃんと御褒美をあげる……いっぱい、いっぱいね、この子には御褒美をあげてきたわ。この子のためじゃない、あたしが楽しむためにね」
「どんな御褒美だったのかは、まあ訊かないでおくよ」
 萌は言った。
「で……思いっきりイアルで楽しんで、満足出来た?」
「もっと楽しみたいけど、もう無理……」
 半分、仮面に覆われた美貌が、弱々しく微笑む。
「あたしの、鞭の鳴らし方1つでね……この子は、あんたに飛びかかって喉を食いちぎってくれる。あたしの喉を、食いちぎってもくれる」
「死にたいの? まさか、とは思うけど」
 萌は訊いた。
「良心の呵責に苛まれてる、なんて言わないよね? 人間の女の子を、獣に仕立て上げて売りさばく……そんな事してた女が、今更」
「笑い話にもなりゃしないってのは、わかってるよ」
 左半分にピエロの仮面を貼り付けたまま、彼女は俯いた。
「自分がどういう事やってたのか、理解はしてるつもりさ。もちろん反省なんかしちゃいないよ。ただ、ね……そろそろ潮時かなって、思うだけ」
「死んで、終わりにしようってわけ?」
「神様ってのが本当にいるなら……天罰、喰らったんだろうね。あたし」
 女調教師の口調が、本当に弱々しい。
「野生動物って、病原菌の塊みたいなもんでね……お風呂にも入んないから当たり前なんだけどまあ、どんだけ不潔でも生きていける連中なわけ。だけど人間はね、弱っちくて潔癖症だから……ちょっと、じゃれ合っただけでね、こんな有様」
「悪い病気をもらっちゃうような、じゃれ合い方をしてたわけね」
 言いつつ萌は、高周波振動ブレードを腰から引き抜き、構えた。
「病気で死んじゃう前に、楽にしてあげようか?」
「御免だね、IO2の飼い犬に噛み殺されるなんて」
 病んだ笑顔が、萌に向けられる。
 弱々しく、禍々しく微笑みながら、女調教師はイアルを抱き締めた。
「あたしを噛み殺すのは、ね……この子……」
「いるのよね。最後に自分が死にさえすれば、何やっても許されるなんて思ってる奴」
 女調教師の髪を、萌は掴んだ。
「ま、最終的には殺すにしても……その前に、やってもらわなきゃいけない事いっぱいあるから。イアルを元に戻すのもそうだし」
 ピエロの仮面が、剥がれ落ちた。
 露わになった左半面は、美貌の原形を全くとどめていない。叩き潰された、と言うより剥ぎ取られた感じだ。
「売られたきり行方のわかってない女の子も大勢いるわけ。知ってる事、全部吐いてもらうからね。忘れちゃったなら思い出させる」
 IO2の医療施設ならば、野生動物からの感染症を治す事は出来るだろう。
 だが、引きちぎられた顔を元に戻す事は出来ない。
 それでいい。これが、この女にふさわしい素顔なのだ。
 そう思いながら、萌は言い放った。
「死んで終わりになんて絶対させない……生きて、苦しんでもらうよ」