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<東京怪談ノベル(シングル)>


光へ
 魔女結社の日本本部であるホテルの一室。
 豪奢な調度品で整えられた室内で、年代物のランプが香水に灯された火を揺らす。
「呪とは成すばかりのものではない。“成る”ものでもある」
 ベッドの端に腰を下ろした古き魔女は艶やかな黒髪を指でかきあげ、モノクルをふたつ繋げて造った眼鏡をかけた魔女に言った。
「呪の対にあるものは祝だが、この祝は生ける者の魂に在るもの。死を厭うも、心身の傷が癒えるも、生者の祝福あってのことよ」
 眼鏡の魔女はふむとうなずき、古き魔女の白くすべらかな肌にバスローブをかけた。
「魂を失くした生者は抵抗できずに呪われる、ってことですか? たとえば、ゾンビとか」
「然り。呪の質にもよるが……魂が祝を見失い、呪ばかりを見るようになれば、おのずとその者は呪に侵されることとなる」
 古き魔女は床に転がり、絶え絶えに甘やかな息をつく“犬”を見やった。
「イアル・ミラール」
 犬が顔を上げた。
 その瞳に理知の光はなく、これまでに与えられてきた悦びの記憶と、これより与えられるであろう喜びへの期待を映して潤んでいた。
「呪の観点から見れば、真名は祝福の一部ってわけですね。祝福を見失ったイアルさんは呪詛に――“犬”の偽銘を自分から受け入れ、犬に成り果てた。もう真名を真名と認識することはできない」
 眼鏡の魔女の論を聞きながら、古き魔女は腹を出して両脚を大きく開いたイアルへ覆い被さる。
「果たして我らが与えし呪がこやつの新たな祝となるや否や……」
 くううっ!
 高く鳴いたイアルに魔具を突き込む古き魔女から礼儀正しく目線を外し、眼鏡の魔女は口の端に薄笑みをつくった。
「それはこれから研究しますよ――っと」
 眼鏡の魔女があわてて言い足す。
「イアルさんから魔力を吸い過ぎないように。姐様が幼女やら赤ん坊やらにまで戻ったら大変ですから」
 古き魔女はイアルの体から快楽と魔力にまみれた魔具を引き抜いた。
「懸念はいらん。こやつの魔力もずいぶんと薄くなっている。……あらかた吸い尽くしたらば肌に鋼を焼きつけ、闘犬としてくれようか」
 イアルの体に残された鏡幻龍の魔力が染み入り、古き魔女の肌がより艶めき輝く。
 眼鏡の魔女は古き魔女の元の姿――老いさらばえ、乾いた皺に埋もれた顔を思い出しながら、慇懃に頭を垂れた。

 魔女に貪られた後、イアルは下水道に戻された。
 彼女の臓器は四足に適したそれへと変わっていた。偽銘の真名化により、自ら変化したのだ。それゆえ、四つん這いの歩みに拙さはない。
「じゃあイアルさん、次のお呼びがかかるまでに群れをしっかり躾けておいてくださいよ」
 眼鏡の魔女が人革の首輪に繋がれた鎖を放すと、イアルは下水の流れをたどってまっすぐに駆けていく。彼女にとってここは守るべき縄張りであり、堕とされた“野生化”どもは上下とともに礼儀を教え込むべき「下の者」なのだ。
 端々に自らのにおいをなすりつけ、刃向かう新参を組み敷いて激しく責め立てるイアルの姿に、王女であった名残はわずかにも残されてはいなかった。


 響・カスミは今、トレンチコートの襟元を抑えたまま魔女結社の巣窟へと急いでいた。
『心配しなくても誰も見ないわよ』
 カスミの心の内、イアルの姿をとった鏡幻龍があきれた声をあげる。
(そうかもしれないけど! そうじゃないかもしれないから!)
 赤らんだ顔を思いきりうつむけたカスミが無声音でこっそりと叫び返した。
 彼女が必死で隠そうとしているコートの中身は、常ならばイアルがまとっているはずのビキニアーマーだ。鏡幻龍を宿すことで、カスミは一時的にイアルと同じ力を得ている。よってその装束もまたイアルと同じものが顕現されることとなった。
「どうして私がこんな目に……」
『聞き捨てならないわね。その鎧の護りがあったからこそ、あなたでも生徒たちを救い出せたのに』
 カスミはホテルへ向かう前に、彼女の心を操り、メイドとして使役していたコスプレメイドカフェを襲撃していた。そして店員を装う魔女結社の魔女ごと店を叩き潰し、心を捕らわれていた女子生徒や他の女性を救い出した。
 ……まあ、鏡幻龍の力を無闇矢鱈と撃ち放ち、防御もすべてアーマー任せという体たらくではあったが。
「うう、それは確かに、そうだけれど……」
『でも、前哨戦に勝利できた経験は大きいわ。次はもっとうまくわたしの力を使えるはず』
「――ええ。次はもっともっとうまく戦って、イアルを救い出してみせる」
 カスミは強い光を湛えた瞳を上げた。


 潜入は順調だった。
 鏡幻龍の強大な魔力はどのような魔法をも無効化し、どのような魔女をも石に変えて砕く。
「魔女の連絡手段がスマホとはね……」
 危ういところで助けを呼ばれる前に取り上げたスマホを床に置き、カスミはほうと息をついた。
『壊さなくて正解よ。このスマートフォンからは常に位置情報が送信されているから』
「え!?」
 カスミがスマホから飛び退いた。なんというか、自分の存在を特定されそうな気がして。
 そんなカスミを生暖かい目で見ていた鏡幻龍が、ふと顔をしかめ。
『それにしても気に入らないわね。ここの魔女どもからわたしの魔力のにおいがする。いったいどれほどイアルから吸い取ったのかしら』
 イアル。その名を聞いてカスミの体がびくりと跳ねた。
 ひどく薄らいではいるが、イアルの気配は足元――そのもっと下に在る。
 カスミは未練たらしく体に巻きつけていたコートを脱ぎ捨て、ビキニアーマーを晒す。
「もうなにも、ひとしずくだってイアルから奪わせない」
 コートの拘束から放たれたカスミの脚が、強く大きく踏み出した。


 十一のドアをくぐった。八の部屋を探り、四の階段を下り。六人の魔女を屠った。そして。
 カスミは下水道のただ中でイアルと再会した。
「あれが、イアル」
 四つ足で立つイアルはぴくりと顔を上げ、人のものならぬ長い牙を剥く。
 グォウ!
 汚水と汚物が層となってこびりついた体から、無機質な殺気が噴き上がった。
 変わり果てた友の姿を、カスミは呆然と見つめるが。
『魂に偽名を刻まれ、肉は獣のそれに成り果てた。それが今のイアルよ』
 鏡幻龍の鈍いつぶやきが彼女を現実へと引き戻す。そして。
「それでもイアルはイアルだわ」
 ――石像に変えられた私を救ってくれたのも、船首像に変えられた私を取り戻しに来てくれたのも、イアル。私はそれを憶えていないけれど、私がここに響・カスミとしていられるのはイアル・ミラール、あなたのおかげだから。
『やるべきことはわかっているわね?』
 カスミは召還した魔法銀のロングソードを両手持ちで構えた。剣も盾もどうせ満足に使えないのだ。鏡幻龍の言う『やるべきこと』を果たすためにはそれ以外の選択肢がなかった。
『イアルの体は“獣毛”で守られている。だから』
「斬るのではなくて突く、のよね」
 自らを獣であると思い込むことで、イアルは魔力による不可視の“獣毛”をまとっているのだ。そしてその毛は、狼のそれと同様に太く、強い。
「イアル。いっしょに帰りましょう」
 剣の重さに引っぱられるように、拙い足取りでカスミが剣を突きだした。
 グァウッ! その突きをバックステップでかわしたイアルが、踏みとどまった反動を利して跳びかかってきた。
『来るわよ!』
 鏡幻龍のサポートを受け、カスミが横に寝かせた剣の腹を掲げる。
 ガギン! イアルの指から伸び出した太い爪が剣に弾かれ、固い音をたてた。
「爪も獣のものに変わっている……!」
 汚水に尻餅をつくカスミ。しかしその臭いとぬめりを感じている暇はなかった。
 獲物を組み敷こうとイアルが叩きつけてくる前脚。それをカスミは横に転がってよけ、コンクリートへ突き立てた剣を頼りになんとか立ち上がる。
 そこに襲いかかるイアルの爪牙。カスミの剣をかいくぐり、不意と死角を突きながら一撃離脱で追い詰める。
 その中でカスミは幾度か反撃を試みるが、イアルの動きについていくことができずに空振り、やっと捉えても“獣毛”に阻まれてまるで有効打を与えられなかった。
『少しでいいからイアルに傷をつけて! そうすればわたしはイアルの内に還ることができる! イアルを石化できる!』
 石化。常ならばイアルの受けた呪いを浄化する手段となるものだが、今、イアルの魂は芯まで呪いに侵されている。石化で浄化できるのか、できるとしてもどれほどの時を必要とするのかは知れなかった。
「それでもやるしかないのよ!」
 迷いを振り切り、カスミが強く突き込んだ。
 イアルはその切っ先を左に回り込みながら避け、そのまま間合を詰めた。
 ガゥゥゥア!! カスミの手甲に喰らいついたイアルが激しく頭を振り立てる。
「あっ!!」
 その勢いと重さに、カスミの体勢が大きく崩された。
 焦る彼女は必死で剣を振り回し、イアルを引き離そうとするが――片手では剣を満足に扱うことができない。
「っ!」
 ついには引きずり倒され、汚水に沈められるカスミ。なんとか顔を水上へ跳ね上げ、息を吸おうとするが、胸を押しつけるイアルの前脚がそれをゆるさない。
『カスミ、落ち着いて――!』
 そんなことを言われても! カスミは必死でもがき、なんとか汚水から顔を出した。
 と。
 イアルが彼女を見下ろしていた。
 色のなかった瞳を、これから獲物を喰い殺せるのだという喜びで輝かせて。
 ああ。
 カスミの目が呆と霞む。ここまで来た。ここまでやった。でも、どうしても救いたかったイアルは、イアルならぬものに成り果てていて。
 カスミの心を塞ぐ絶望。
 しかし。
 その深黒を割り、深紅の怒りと白金の決意が噴き上げる。
 こんなところで! こんなことで終わらせない! イアルも私も!!
 迫るイアルの牙をにらみつけ、カスミが叫んだ。
「ただの獣に私を殺させたりしない! 私を殺していいのはあなただけよ、イアル!!」
 ――イアルの眼にひとすじの光が横切り、牙の動きが止まった。
 それは1秒にも満たない空白だったが、このときのカスミには充分過ぎる間となった。
 カスミはイアルの口に左手を突っ込んで支えとし、その腕の半ばに剣の切っ先をあてがった。……普通に突いても当てられる自信はない。だから切っ先を目標物に向けて固定する。そう、自分の腕を使ってだ。そして。
「喜びも苦しみも、分かち合うのが友だちだものね!」
 一気に刺し貫いた。
 切っ先が伸びゆく先にあるものは、イアルの胸。
 イアルは体を跳ね上げてこれを避けようとしたが、カスミの左腕から力が抜けたことで支えを失い、墜ちた。そして自らの体重で、切っ先をその胸に潜り込ませてしまう。
「鏡幻龍さん!」
 激痛に眩む目をすがめ、カスミが声音を絞り出した。
『この贖いはいつかかならずするから』
「こんなときはありがとうって言うだけでいいのよ。だって友だちなんだから」
 鏡幻龍はイアルの顔で驚き、そして笑んだ。
『ありがとう――カスミ』
 かくして剣を伝い、龍がイアルへと還りゆく。
 ガ、ア、ア、ア、アア。
 吠え、悶え、あがくイアルが速やかに石化し、ごとり。石像と化して汚水に転がった。


 カスミはアーマーが失われた肢体をそのままに、イアルを汚水の流れで押しながら外を目ざす。石像の重さにあえぎ、左腕の痛みに悶え、コートを脱ぎ捨ててきてしまったことを激しく後悔しながら。
「カスミ様、こちらに」
“野生化”の救助を担ってくれていたメイド――新たな家族となった少女に仕えていた魔女だ――が途中で手を貸してくれなければ、どうなっていたことかわからない。
 ともあれメイドの魔力で傷を癒やされたカスミは、彼女とともにイアルを運び出し、マンションまでたどりついた。
「……まだメイドなの?」
 メイドの服を借りたおかげでまたメイド姿となったカスミを出迎えた少女が小首傾げたが、あえて言い返したりしない。
 風呂場に運び込んだ石像の汚れを少女とともに洗い流しながら、カスミは思い出す。
 名を呼んだ刹那、獣の眼に灯ったあの光を。
 あれはきっと、イアルの……。