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<東京怪談ノベル(シングル)>


合わせ鏡
 響・カスミの口づけで石の眠りから目を覚ましたイアル・ミラールは大きく口を開け、吠えた。
 グァァァアアアア!!
「イアル! ちょっと、お、落ち着いて!」
 それほどには狭くないはずのマンションのリビングの隅まで、四つ足で飛び退くイアル。
 カスミがボーナスをつぎ込み一括払いで買い上げた大型テレビをなぎ倒し、棚の内に収められた白磁のティーセットを粉砕し……。
「ああ、もう! 鏡幻龍さん、ごめんなさい! お願い!」
 不可視の獣毛を逆立てたイアルの体が、鏡幻龍の守護力によって速やかに石へと戻りゆく。
 牙を剥きだし、背を丸めた体勢で固まったイアルを見やり、カスミは重いため息をついた。
「イアル――」

 女を商材とし、世界の裏側で揺るぎない地位を築く魔女どもの巣窟、魔女結社。
 目をつけられたカスミは一度ならず捕らえられ、イアルに救い出されてきた。
 しかし、その果てにイアル自身が結社の虜囚とされ、イアルの名を奪われて“犬”に堕とされたのだ。
 深き呪いに侵されたイアルを救うべく、彼女の魂を守護してきた鏡幻龍がカスミの身に宿り、その力をもってカスミはイアルの奪回に成功したのだが。
 あらゆる呪いを無効化する鏡幻龍の石化の守護をもってしても、未だイアルは「イアル・ミラール」の真名を取り戻すことなく、与えられた偽銘――“犬”であり続けている。

『イアルの魂は今、「イアル・ミラール」の真名を失ってしまっている。自我を保つためには偽銘にすがるしかない状態。わたしも「イアル」を再生するために力を尽くすけれど……難航するでしょうね』
 イアルの声音を借りた鏡幻龍が、石の内よりカスミに告げた。
「名前を失う!? だって、イアルはイアルじゃない! なくなるなんて――」
『イアルはあなたが知るとおりのイアル・ミラールではないわ。……ごめんなさい。今はなにも言わずに見守っていて』
 歯切れの悪い鏡幻龍の言葉に、カスミは奥歯を噛み締めるよりなかった。
 石像からは乙女を誘う甘やかな匂いが漂い始めている。しかしそれは常のそれとは比べものにならないほど弱い。
「カスミ」
 心配して近づいてきた少女に無理矢理の笑みを見せ、カスミは彼女の手を取ってリビングを出た。
 考えなければならないことは山積み。しかしこのままではなにも思いつけはしないだろう。鏡幻龍を宿して大立ち回りを繰り広げた心身はひどく疲れ果てていた。
「もう眠るわ。明日になればきっと、イアルを取り戻せる方法も思いつけるだろうから」
 少女よりも自分へ言い聞かせるようにカスミは言葉を紡ぎ、うなずいた。


 これはカスミの見た夢の話。
 しかしそれだというだけでは片づけられないなにかを、眠るカスミが感じ続けたビジョンである。

 ――また、居眠りしてしまっていたのね。
 まどろみの浅瀬より意識を引き起こし、頭を振った。
 ここは石造りの神殿の一角にある彼女の私室。ドアに鍵もかけてあるから、誰かに見られるようなことはないのだが。
 最近、意識がふと途切れるようになった。
 原因はわかっている。このところ内政にも外交にも不穏な空気が行き交っており、神殿へ不安を訴えて訪れる人々が急増した。その中に王国府の重職者も多数含まれていたため、彼女は昼夜問わず対応に追われているのだ。
「茶を」
 彼女は力の入らぬ脚を無理矢理立たせ、眠気覚ましの茶を淹れる。
 あと一刻もせぬうちに外務大臣が訪れる。鏡幻龍の第一神官にして王女イアル・ミラールの乳姉妹であり、現在は補佐役を務める自分に、龍の託宣と外事の助言を求めて。
 ……ただひとりの神とされる“子”が亡くなってすでに千数百年が経つ。しかしその間に信仰は欧州の隅々にまで浸透し、諸国の大義として高々と掲げられるようになっていた。
 実際この小国はその狭間でよく保っているものだと思う。それも姿の見えぬ神ならぬ地上に在る鏡幻龍の守護あってのものだが、しかし。
 この国には豊かな土地がある。近年、外交と称して開戦の機を探りに来る強国の数が着実に増えていた。
 加えて、不穏な組織がこの国へ紛れ込み始めているとの報告も上がってきている。近年“子”を崇める国々で激化している魔女狩りを逃れた者たちの集団らしいが、庇護を求めるでもなく、なにをしようとしているのかもわからない。
「手を取るにせよ手を弾くにせよ、護るにせよ裁くにせよ、まずは相手の真意と正体を知らなければ、ね」
 疲労で鈍く痺れる目を瞼の上からかるく押さえ、神官は茶杯に唇をつけた。
「――神官様!! 一大事にござります!!」
 けたたましく打ち鳴らされるドア。
「何事ですか」
 顔をしかめてドアを開けた神官に、王女付の騎士がかすれた声で告げたものとは。
「王女殿下が逝去されました! 侍医の見立てでは毒によるものと――」
 王女が、死んだ? 毒を盛られて?
 鏡幻龍は王女の魂を依り代として世界に力を顕現させる。すなわち依り代が失われたということは、龍が失われたということに他ならない。いや、それ以前に、神官は最愛の主と友とを失った――。
 空となった神官の内に乾いた音が鳴り響く。それは、欲に突き動かされるままこの国へ攻め寄せる悪魔どもの足音だった。

 名もなき小国の滅亡を引き金に、欧州は戦乱の嵐に飲み込まれた。
 戦いの舞台となり得る土地はすべからく鋼と革とに踏みにじられ、血脂と骸に汚された。
 絶えることなく積み重ねられた穢れはやがて怪異を呼び、殺し合う人々のただ中へ神話に語られる化物どもが踏み入るようになる。
 やがて戦は人と人、そして化物の三つどもえの様相を見せていった。

「はっ!」
 先ほどまでは味方だった骸を踏みつけ、先ほどまでは敵だった骸を踏み越えながら、女傭兵がメデューサに剣を振り込んだ。戦場で鍛え上げられた無駄のない動作に生来の当て勘を加えた無手勝流の剣技は、確実にメデューサの動きを牽制し、傷つける。
 ――とはいえ、ひとりで対するのは厳しいわね。
 この化物の乱入で、敵も味方も死に絶えた。せめてあと四、五人残っていてくれたら包囲して片づけられただろうに。
 ビキニアーマーから伸び出した肢体からは、汗が小川のごとくに流れ落ちている。蒸れないのはありがたいが、ここまで濡れてしまうと空気の動きを感じることもできなくなってしまうし、なによりも脱水症状が怖い。
 ――少しでも早く倒さなきゃ!
 焦りが切っ先と注意を鈍らせた。踏み出した足を骸から流れ出た脂ですべらせる女傭兵。
 それを見て取ったメデューサの眼が妖しく輝き、頭を包む蛇が一斉に鎌首をもたげ……。
「しまっ」
 た! と、言い切ることもできずに女傭兵の体は物言わぬ石像と化し。骸どもの墓標として戦場の内に立ち尽くすこととなった。

 それから半世紀の後。
 いつか小さな王国があったはずの荒れ野に、ひとりの老婆が歩を進めていた。
 供連れは同じほどに老いた男たち。それぞれが亡き小王国の国紋を描きつけた甲冑を着込み、そのせいで重たそうに足を引きずっている。
 彼らは焼き払われ、踏み壊された鏡幻龍の神殿の神官と騎士たちであった。
 国が滅亡する中で民とはぐれ、仲間を見失った彼らは身を寄せ合い、息を詰めて日々をやり過ごしてきたのだが。
「――呪い師の告げた場所まで、あと少しです」
 彼女や騎士の生活を助けてきた呪い師が、秘術によって得たという言葉を告げたのだ。『急ぎ彼の地へ向かい、見出しなさい』と。
 とうに滅びた地でなにを見出せばいいのか、彼女にはわからない。が、仕えるべき王女も信じる龍も失くした彼女の心を、不意に与えられた目的は驚くほど激しく突き動かした。
 果たして。
 彼女は見出した。
 半ば土に紛れた鋼と人骨のただ中に立つ女傭兵の石像を。
 その顔は、神官の鼓動を数秒の間奪うほど、彼女が仕えたあの王女のものに酷似していた。

 騎士たちの手でなんとか持ち帰られた石像は丹念に汚れを落とされ、今、神官の前にある。
「乙女の口づけには魔を打ち祓う力があります。老いたるとはいえあなた様の唇にはその力が宿っておいでです」
 促す呪い師に神官は問うた。
「この石像が人であったことは承知しています。ですが、なぜ私に縁なきこの人を蘇らせよと?」
 呪い師の口元に笑みが閃いた。
「言わずもがな。神官様は取り戻したくはありませんか? あのときを。あのお方を」
 その笑みの邪悪さに気づいていながら、神官は抗えなかったのだ。
 呪い師の悪意にではなく、自身の浅ましき欲に。

 石から人へと戻された女傭兵は、呪い師どもの秘薬と神官の言葉により、自身の過去を「思い出す」。
 自分の名がイアル・ミラールであり、亡国の王女であること。
 毒殺されかけたところを鏡幻龍の加護によって石化され、五十年の後に救い出されたこと。
 それを成したものが、同じ乳を飲んで育った幼なじみ――鏡幻龍に仕える神官であること。
 教育はつつがなく進み、女傭兵が完全にイアルとなったとき。
 神官は最後の仕上げとして、女傭兵の魂にイアル・ミラールの名を刻みつけた。
 儀式はひと月もの間続き、神官は残されていた命の大半を捧げることとなったが、女油兵はついに真名を失い、イアル・ミラールと成った。
『我、は。なにゆ、え、こ、こに』
 それは五十年の時を越えて響く鏡幻龍の声。イアル・ミラールという依り代が還ったことで龍もまた還り来たのだ。
「ああ」
 神官は深い皺に覆われた両目から涙を流し、跪いた。
 ここからすべてを取り戻そう。鏡幻龍と王女の導きで、すべてを。
 と。
 騎士たちの断末魔の声が響く。
 完全武装で儀式の場へ踏み入ってきたのは、王国を滅ぼし、そのすべてを喰らい尽くした隣国の軍勢だ。
「亡国の神官がイアル・ミラールの偽物をしたてあげ、叛逆を目論んでいるとの報が寄せられた。虚偽ではなかったようでなによりだ」
 イアルとイアルを映した肖像画とを見比べ、部隊長が顎をしゃくる。
 殺到する兵士ども。
 我に返った神官はイアルを突き飛ばし、間に割って入った。
「イアル、逃げて!」
 その体を剣の柄頭で打ち据えられ、崩れ落ちながら神官は見た。
 兵士どもの後方に立つ呪い師の、邪なる笑みを。

 わけがわからないまま、イアルは隠し通路を伝って外を目ざす。
 あれが敵国の兵士であることは明確。不明確なのは、今さらなぜ自分が狙われるのかだ。
「王女の像ならず王女そのものを勝利の証として飾る。勝者にしか許されない最高の楽しみじゃないですか」
 モノクルをふたつ繋げた眼鏡をかけた呪い師がイアルの背にささやいた。
「わたしには鏡幻龍の守護が――!」
 自らの魂に宿る鏡幻龍へ呼びかけるイアル。しかし龍はとまどいの波動を返してくるばかり。
「簡単なことです。イアルさんは乙女じゃない。だから龍の力も使えない。イアルさんも龍も、そろって魔女結社の手に落ちるんですよ」
「魔女、結社?」
「今は知らなくていいんです。これから知る機会もないでしょうけどね。さあ、石に戻りなさい。何十年かしたら、結社が回収してさしあげますから」
 呪い師の放った呪に呼応し、鏡幻龍の加護が発動する。

 かくしてイアルは逃げ惑う姿をそのままに映した石像と化し、敵国の王城に飾られた。
 その管理をするのは、洗脳されたうえで奴隷に堕とされた神官。
 神官は光のない眼で今日も石の王女を磨く。
 カスミによく似た顔をまっすぐ向けて、ただ、磨き続けるばかりであった。