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花は紫陽花、女は忍(5)
――けて。誰か――助けてくれ――。
(今の声は……あちらの方向からですわね)
助けを呼ぶ誰かの声が琴美の鼓膜を揺さぶり、彼女は駆けていた足を止めた。それはひどく小さく微かな声であったけれど、しっかりと琴美はその精一杯のSOSに気付き、声の大きさや方角からすぐに相手がいるであろう場所を割り出してみせる。
琴美が今潜入しているのは、以前情報を求めるために潜入した企業とほぼ同じくらいの規模の小さな企業だ。けれど、それも表向きだけの話。
木を隠すなら森の中とはよく言ったもので、今回の事件の黒幕は利用していた小さな企業と同じ規模の企業を自らの組織の隠れ蓑にしていたのだ。たとえその事実に何者かが気付けたとしても、数多くある企業の中から本拠点を絞り込むのにはそれなりの時間を要する。琴美達程の情報収集力を持っていなければ、こんなに早く黒幕の居場所を突き止める事は出来なかったであろう。
(敵に回したのが私達だった事が、運の尽きでしたわね)
そもそも悪事に手を染めた時点で琴美に敵とみなされてしまうのだから、最初から詰んでいたようなものだったのかもしれない。
(私がいる限り、この街の平和を脅かす事は許しませんわ)
そう思う琴美の瞳はブレる事なく、ただまっすぐに前を見つめていた。
◆
その企業の地下は、外観からは想像がつかない程広大であった。まるで地下に向かい逆さまにビルが建っているかのように、そこには多くのフロアがあり武器製造のための施設や実験場が並んでいる。部屋を調べるたびに目に入ってくるのは悪趣味な実験の跡であり、琴美はその悲痛さに端正な眉を悲しげに寄せた。
立ちふさがる警備を一人ずつ確実に倒しながら地下施設にある暗く長い通路を駆け、琴美は助けを求めていた者の場所へと辿り着く。牢獄に囚われた彼らは、恐らく実験体としてさらわれてきたどこかの企業の社員達だろう。
どうやら捕獲されたばかりのようで、さらわれた際についたであろう微かな擦り傷はあったものの大きな怪我はなさそうだ。人体実験の影響ですでに自我を失ってしまった者を助ける事は叶わないが、まだ捕獲されたばかりの彼らの事は助ける事が出来る。すでに何人もの罪なき者が犠牲になってしまったが、助けられる命がある事に琴美はほっと胸を撫で下ろした。
「あ、あんたは……」
「た、助けてくれ! 俺達、何が何だか分からなくて……!」
「私嫌よ! 化け物なんかになりたくない!」
琴美の姿に気付き、彼らは動揺し叫び始める。急にさらわれてきてこのような場所に囚われたのだ。不安でたまらないのであろう。彼らの瞳には、怯えの色が浮かんでいる。
「安心なさって、私は味方ですわ。私がきたからにはもう大丈夫ですわよ」
そんな彼らに向かい、ふわりと琴美は優しげな笑みを浮かべた。全てを慈しみ、全てを許すような慈悲深きその笑みの美しさに、騒がしかった彼らも思わず息を呑み口をつぐむ。語りかけてくる琴美の優しき声が、彼らを落ち着かせ不安を和らげてくれる。乾涸びた体に水が染み渡るかのように、安堵の気持ちがゆっくりと彼らの胸を浸していった。
今すぐに牢獄の鍵をはずし逃がしてやりたいのは山々だが、まだ敵を倒していない今の状態ではこの頑丈な牢屋の中にいたほうが彼らは安全だろう。逃げようとしたところを敵に見つかり危険に陥ってしまう可能性がないとも言い切れない。
琴美はその事を簡単に説明し、彼らにしばしこの場所で待っていてくれるようにと頼む。
「必ずや、私は貴方達の事をお助けしますわ。ほんの少しの間ここで待っていてくださいませ」
少女の自信に満ちた微笑みに元気づけられ、胸にある不安も今はもうすっかり消えたのか、囚われた彼らも肩の力を抜き頷いた。
轟音が響いたのは、その直後だ。どこかで何かが爆発したような、そんな音。
再びパニックに陥りそうになった者達を、琴美の「安心なさってくださいませ」という声がなだめる。
恐らく先程の爆発は、琴美をおびき寄せるための罠だ。
囚われた者達の騒ぐ声も恐らく聞こえただろうし、もう何人もの警備を琴美は倒している。琴美の潜入に、敵が気付いていない方が不自然だった。
「いいですわ。その誘い、乗って差し上げますわよ」
ここは敵の本拠点であり、罠の先にいったい何が待っているのか分からない。だというのに、ただ一人で戦場へと潜入してきたそのくの一は微笑みを浮かべる。自信に満ち溢れたその笑みは木漏れ日のようにキラキラと輝いており美しく、自分達の立場も忘れて囚われていた者達が思わず見惚れてしまうのも無理もない話であった。
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