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死の塔へ
世界が二度めのミレニアムを越えて幾年が過ぎたころか。
人類はいくつかの外交をしくじった贖いを三度めの大戦に求め、家族や多くの隣人を、その生活と環境ごと失うことになった。
炎の嵐に洗われた大地は地平まで続く灰の荒野と化し、わずかに生き延びた人々は飢え、餓える。
その果てに水のペットボトル一本が人ひとりの命の値段となった今、法と正義は暴力というシンプルな脅威によって叩き潰され……世は無法の闇に閉ざされた。
煤けた風に向かい、駆ける者がいた。
護衛も連れず、かといって同じような者たちで固まることもなく、ただ独り、荒野を行く。
その姿を見る者がいたならば息を飲んだことだろう。こんな時代に、よりによってこの地へ迷い込むとは……!
と。ここには存在しない誰かの懸念をすり潰し、今となっては希少品となったバイクの一群がへたったタイヤをきしらせ、その者の行く手を塞いだ。
「毎度ド〜モ〜! 検問デェ〜ス!」
この“街”には“神”がいる。
圧倒的な暴力で他の矮小な暴力を平伏させ、始めから暴力など持ち合わせていない弱き者たちからすべてを奪い去る、偽物の神が。
「無事に通してほしけりゃ身ぐるみまとめてこっちに」
車のボンネットかかなにかから削り出したのだろう剣を突き出し、迫ろうとした偽神の手下。それをとなりの仲間が「待て」と止め。
「こいつぁ」
女のまとうフードマントを引き剥がした。
そして。
女だ――!! 手下どもが目を剥いた。
この世界に女がいないわけではない。数で言えば、適応能力の低い男よりも多いくらいだが、しかし。
ここまで極上の女は、めずらしいどころか見たことがない。
照りつける日の光にその黒髪を青く輝かせ、豊満な肢体から艶やかな香を匂い立たせる女。冗談のような遭遇に、手下どもはざわめいた。
「女だから、どうしたの?」
女は薄笑みを称えた唇から静かに言の葉を紡ぐ。
手下どもは息と唾を飲み、スパッツに隠された彼女の腿を……袖を切り落とした着物さながらの上着の胸元をにらみつけるばかり。
「いやぁ、どうもこうもねぇさ。なんか食うか? 水は? 交換しようぜ? あんたの体とよぉ!」
女を捕らえようと伸ばされる、手下どもの手、手、手。
「お断りするわ」
女はその場で時計回りに回転し、右の踵で手下どもの臑を薙ぐ。
「ギ!」
半回転で体を踏み止めた彼女はその反動を利して跳躍。激痛に動きを止めた手下どもが突き出した顎先へ、編み上げブーツに鎧われたつま先を突き上げた。
「……今、この地は無法こそが法であり、法の執行とはすなわち暴行である。そうよね?」
脳を揺らされ、昏倒した手下どもを冷めた目で見下ろし、女が淡々と語る。
「早く目を覚ますことね。私の暴力があなた方の法を、絶対の神を打ち砕くまでに」
果たして女は荒野の彼方を透かし見た。灰のただ中に突き立つ一本の塔を。
女の名は水嶋・琴美。
その機能のほぼすべてを失いながら、今も組織として蠢き続ける自衛隊。その内にあって諜報と人外戦闘とを担う非公式(ナンバーレス)チーム……特務統合機動課に所属する自衛官であり。
神を詐称する男に父を殺された娘――師匠を殺された弟子であり。
戦国の世からこの破滅の時代まで生き延びた、忍の末裔である。
遠くにあっては針のごとくに頼りなかった塔だが、こうして目の前に立てばどれほど太く、高いものかが思い知らされた。
採掘の術と流通経路が失われ、スタンドの跡地などからわずかに採取されるばかりとなったガソリンをふんだんに使い、重機を動員して打ち建てたのだろう。
「税務署が残っていれば喜んだでしょうにね」
琴美は苦笑し、入口へと向かった。
「……この“死の塔”のドアにゃ鍵はかかってねぇ。入りてぇならご自由にってわけだ。ただし、俺らセキュリティをどうにかできたらな」
低くしゃがれた男の声が琴美に告げ。
灰にまみれて大地に伏せていた私兵どもが、立ち上がって彼女を取り巻いた。
「歓迎のためにわざわざこんな演出を?」
「ビックリしてもらえなかったのは残念だけどなぁ」
琴美の問いに、男は頭頂部で逆立つモヒカンを揺らして大笑いした。
顔も体もいかついが、ユーモラスで人好きのする男。
しかし、琴美は知っている。悪行への迷いがない者――つまりはクズほど一見当たりがやわらかく、気さくなのだということを。
「でだ、オレらはアンタをどうおもてなしすりゃいいんだい? 女が来るなんざ初めてでよ、緊張しちまってなぁ」
目を琴美の体へ這い回らせながら、男はへらへらと言った。
その目に劣情はない。その表情に油断もない。そう見せかけ、見定めようとしているのだ。琴美の戦闘能力と身体のポテンシャルを。
――少なくとも、私の相手ができるだけの人はいるわけね。
他の私兵どもの熱い視線を無視。ただ男へと微笑みかけて、琴美はふわりと手を伸べた。
「いつもどおりにどうぞ」
「そうかい。じゃ、いつもどおりに……なっ!」
男の合図で我に返った私兵どもが琴美へ押し寄せた。
琴美はつま先をにじってその場に己を固定し、先頭の私兵が突き出した腕を横合いからつかんだ。そして私兵の推進力を導き、その駆け足で半円を描かせていく。
「なっ! おっ! ちっ!」
踏みとどまろうとする私兵だったが、そうするにはあまりにも体が前へ倒れすぎている。転ぶこともできずに彼は琴美に引き回され、最後には仲間を巻き込んで地に投げ捨てられた。
「合気か。昔、ダンスみてぇなやつは見たけどな。使えてる奴ぁ初めてだぜ」
感心する男に、琴美は肩をすくめ。
「合気ではないわ。合気でもあるというだけ」
忍の体術は諜報活動の内で磨かれた技だ。
武具を持ち歩くことのできない任地で頼りになるのは己の手足のみ。彼らは生き延びるため、役立ちそうなものはすべて取り込んできた。模倣を重ね、改良し、実戦を経てさらに模倣を組み合わせ、改良し……それゆえに忍の技はなにものかであり、なにものにもあらず。
琴美は日本拳法さながらの縦拳(親指を上に向けて立てた拳)を一本拳(中指の第一関節を突きだすように握った拳)にし、私兵の鼻と唇の間にある急所へ突き込み、空手の試割りで使われる、臑をまっすぐに押し出して標的を粉砕する回し蹴りを放った。
そして。後ろからナイフをかざして突撃してきた私兵の鼻柱を、振り返ることすらせず肘でへし折っておきながら、笑んだ。
「命まで獲る気はないけれど、目をひとつもらうくらいはためらわない」
あの男を殺すためだけに、習い憶えた技をひとつひとつ実戦の中で磨き上げてきた。
あの男を殺すためだけに、死線の向こうへ幾度となく身を投げ、生還を繰り返した。
その技を、心を、雑魚どもに見せてやるつもりはない。とはいえ雑魚どもに琴美の深淵をわずかにものぞく術はなかろうが……目の前で口の端を吊り上げるモヒカンの男以外には。
先ほどから一転、目まぐるしく立ち位置を変えながら拳を閃かせ、その度にひとり、またひとりと打ち倒していく琴美のまわりは、いつしか無人。
どうにも攻め込めず、彼女を取り巻くばかりの私兵を見渡し、琴美は小さく息をつく。
「身の程をわきまえたなら、そのまま逃げていればよかったものを」
と、彼女が取り出したものは、片手に収まるほどの玉だ。
それを上空へ投げ上げ、次いでクナイを放てば、刃は狙い過たずに玉の中心を貫き、爆ぜさせた。
かくして内より飛び出したものは、鋭い棘を備えた撒菱だった。その鋼は触媒によって超加熱された爆炎に炙られて赤熱し、燃え立つ豪雨と化して降りそそぐ。
私兵は口々に叫び声をあげながらこの雨に打たれ、肌を焼かれ、棘に塗り込められた毒で痺れて倒れ伏した。
「……なるほどなぁ。アンタ、マジモンのニンジャかよ」
琴美が玉を投げた瞬間、迷うことなくその眼前へ跳び込んできた男が、口の端を笑みの形に歪めて言った。
「読まれる程度の小手先だけれどね」
「いやいや、読んだわけじゃねぇさ。アンタが動かねぇからよ。ようはそこが安全地帯ってやつなんだろうってな。あとは」
男が不意に、ゆるく握った左拳を突きだしてきた。
人間が反応できる速度を超えた拳の三連打を、かすかに跳ねた殺気の先読みで察知した琴美は頭を左へ倒しつつ、体を旋回させてかわしていった。
「読まれる程度のコテサキじゃねぇつもりだったんだけどな?」
「安心して。拳が見えたわけじゃないわ。読んだのはあなたの殺気よ。素人ならたやすく沈められたでしょうけど、ね」
かるい挑発を交え、琴美が男に返した。
この拳の振りを見れば、男がボクサーであることは明白だ。しかも粗野な見かけにそぐわず、テクニカルなアウトボクサーであることも。
踏み込んできたのは撒菱をかわすためだけでなく、攻撃の間合に入るためか。だとすれば、この距離はまずい――
「シッ」
気の空薬莢である呼気を口から噴き出し、男が左拳を伸ばしてきた。
頭を振ってかわし、間合を詰めようと踏み出す琴美。
しかし男はそれに合わせて後ろへ下がり、後退を踏み止めた反動を利してまた左拳を打ってくる。
「ふっ!」
顔を打たれる寸前、掌打で拳を払う琴美だったが、男の拳には不可思議なほど軽く、こちらの掌をぬるりとすべり抜けてさらに伸びてくる。
落とし損なった拳を、顎をそらしてなんとかかわした琴美は、下がりかけた足を引き留め、体を横へ逃がした。
果たしてその脇を通り過ぎていく右の打ち下ろし。ただ下がっていれば、確実に喰いつかれていただろう。
「シィィィィィ」
男の唇が無声音を鳴らし、顔の前に置かれた左拳が前後にリズムを刻む。
――オーソドックスに見せかけたヒットマンということね。
ボクシングでヒットマンと言えば、下げた片手を振り子にしてリズムを刻みつつ、その手を鞭のように繰り出すフリッカー・ジャブの使い手を指す。
この“鞭”というのが曲者だ。肩と肘を起点にしてまっすぐ打ち出す通常のジャブとは異なり、肩にも肘にも重心を置かずに放り出すフリッカー・ジャブは、とにかく軌道が不規則で読みづらく、よけるも押さえるも難しい。
襲い来るジャブを横から強く叩いて弾いて捌きながら、琴美は打開策を探って頭を巡らせる。
殴打というものは、拳を握り込んだ瞬間――筋力、推進力、慣性力、反動力、遠心力、それらが一気に“踏み止め”られた瞬間に最大のインパクトを発揮する。つまりは的へ当たるそのときに拳は握られるものであり、それを成すことで必殺を生むのだ。
男の拳が軽いのは、握り込んでいないからこそ。命中するまでの過程にあるからに他ならない。
加えて、男の足だ。常に最適な距離を測り、地をすべり、突き立ち、男の打撃を支えぬく。
――まるで毒蛇。喰らいつかれたら最後だわ。でも。
琴美が動きを止め、まっすぐに立った。
「なんだよ。もうあきらめちまったのか?」
からかうような男の声に琴美は薄笑みを返し。
「追いかけっこに飽きただけ。さあ、捕まえてごらんなさい?」
「ははっ! 後でやっぱりごめんなさいってのはナシだぜ!!」
棒立ちの琴美へ男が迫り、左拳を振り込んだ。
琴美はそのままの体勢から男の拳を外へと払った。
次々と、角度を変えながら放たれる男の左拳。
それをただ、黙々と外へ払い続ける琴美。
「ち!」
男は左拳に右拳を混ぜ込み、コンビネーションで攻め立てる。
琴美は笑みながら、そのすべてを外へ。
左ジャブ、左ジャブ、右ストレート、左フック、右アッパー、左ジャブ、左ジャブ、右ストレー――
「なっ!?」
いつの間にか。
男の眼前に琴美の笑顔があった。
なんだよ、なんだってんだ!? どうやってここまで入ってきやがった!?
「ようこそ、私の間合の中に」
琴美の言葉で、男はすべてを理解した。
拳を外へ弾かれることで、次の拳を当てるためにいくらかの踏み込みが必要となる。連打を続け、体勢を立てなおすごとに、わずかずつ進んでしまう。
前進していたのは琴美ではない。男自身だったのだ。
「呼び込みやがったのか!」
「あなたは本物のボクサーだった。蹴りを打つことも組みついてくることもせず、拳だけで対してくれた。その誇りに敬意を表して、私も忍の技を尽くして討つ」
琴美が掌を男の眼前に差し出した。
「ひとつ」
視界を塞がれ、一瞬硬直する男。その両目に固くしなやかなもの――体を翻した琴美の髪先がかすめ、視力そのものを奪いさった。
「!?」
「ふたつ」
琴美の踵が、前へ踏み出されていた男の足の甲を踏み抜いた。
「がぁっ!!」
「みっつ」
折れた骨の間に踵をねじり込み、立ち位置を固定した琴美が右腕を突き上げ、肘で男の顎を撥ねた。
声もなくのけぞる男。
「よっつで、おしまい」
男の見えない目が最後に見たものは影。跳躍し、宙で反転した琴美の蹴り脚が落とした、一閃の予兆であった。
倒れ伏した男を顧みることなく、琴美は死の塔へと向かう。
「逢いに行くわ――格闘神」
そしてただ前だけを見て、踏み込んだ。
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