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エンタテイナー
無策のまま、まっすぐ襲い来る敵。
陰に隠れ潜み、不意討ちにくる敵。
取り囲み、押し潰さんと息巻く敵。
それらすべてを打ち落とし、撃ち落とし、討ち落とし。水嶋・琴美は“死の塔”を駈け登る。
この塔の頂へ至るまで、使う力は最小に留めると決めていた。
いかに鍛え抜いていたとしても体力には限りがあるし、攻めるためにつけた筋肉や守るために残した脂肪は重い。呼吸法で疲労の蓄積を抑えてはいるが、全力で闘えば確実に疲れが技を越え、彼女の心身を鈍らせるだろう。
「――エンタテイメント精神に欠けた人ですねぇ。それじゃあお客さんのブーイングを浴びるだけだ」
なにもない、がらりと広いばかりの空間。
パイプイスの端に尻を引っかけて座る坊主頭の男が笑顔で言った。
縦も横も、驚くほどに太く、固く、でかい。そしてどこもかしこも、まんべんなく分厚かった。
「入って早々鉢合わせるような雑魚に用はないわ。道を開けなさい」
言い返しながら、琴美は緊張で強ばる体から呼気とともに力を吹き抜いた。
あの坊主――分厚いのは皮だ。固いのは脂肪だ。太いのは筋肉だ。どれほど体をいじめぬいてきたものかは知れぬが、あれほどの体を必要とする闘いが生半可なものではないことばかりは知れた。
「ギャラ泥棒を次に呼んでくれる興業主はいませんからねぇ。もらった分はきっちり働かせてもらいますよ――っ!!」
坊主が尻の下からイスをするりと抜き取り、琴美の額へ突き込んできた。
彼は座っていたのではなかった。いつでも奇襲できるよう、空気椅子で待ち受けていたのだ。
「でたらめな筋力ね!」
頭を振り、かろうじて避けた琴美に坊主が笑む。
「エンタメ的な演出ですよぉ!」
椅子の角を的確に突き出し、琴美を追い詰める坊主。
が、それほど鋭い攻撃だとしても、サーベルやエペのように突くことに特化しておらず、得物ですらない椅子による点の攻撃に過ぎない。琴美は冷静にそれをかわしていくが。
「ばぁ!!」
おどけた声とともに、坊主が椅子を開いた。点から面へと転じた攻撃!
「くっ!」
座席部分に顔を打ち抜かれる直前、琴美は額を突きだした。
人体の内でもっとも固い部位のひとつである額で、スポンジで守られた座席を受け止める。体は大きく吹き飛ばされたが、ダメージは殺しきった――はずだった。
「ほほっ」
飛んだはずの体が、宙で止まっていた。いや、止められたのだ。編み上げブーツの紐に、坊主の小指を引っかけられて。
「わかってますよぉ。体力を取っておきたいんでしょう? でも、わかってませんねぇ。アタシがなんでここにいるのか」
琴美の左足首を脇に挟み、坊主が後ろへ倒れ込んだ。
――これは!
足首から脳へ駆け上がる痛みと予兆。
「ああああああああ!!」
琴美は咆哮し、自由を保つ右足で坊主の脇を力任せに蹴りつけた。一二三四五六七――一八発めですっぽ抜けた足を抱え、後転。坊主からいっぱいに距離を取る。
「んー、痛いのをたっぷりアピールしてから逃げなきゃ。それが情緒ってもんですよぉ」
人体とは構造的に、内側へ曲がりやすく、外側へは曲がりにくいものだ。だからこそ、外側へ曲げられた人体――特に関節はたやすく破壊される。
「ギブアップまで待ってくれるとは思えないけど……?」
琴美は外れた足首をはめなおし、脂汗をぬぐった。
忍として関節外しの技を学んでいなければ――靱帯ごと関節を引きちぎられていた。
「ま、そういう契約ですんでねぇ」
坊主がのそりと上体をかがめ、クラウチングスタイル(レスリングの前傾姿勢)をとった。
立ち上がり、重心を後ろに置いた右脚へ乗せた琴美は静かに息を整える。
格闘を生業とする肥満漢と対する際、最大の脅威となるのはパワーではない。スピードだ。相撲取りなどはその典型例と言えるが、彼らの瞬発力は凄まじく、二十メートルや三十メートルといった極短距離では陸上競技者を凌ぐ記録を叩き出すこともめずらしくはない。
タックルで転がされ、のしかかられれば今度こそ終わる。
ならば。
――速さで凌駕する!
琴美の脚が前後になステップを刻んだ。
重心がかかった前脚をタックルで刈られれば倒れるしかない。だからこそ、安易にステップを――読みやすいリズムを刻むことは対レスラーにおいて悪手中の悪手となる。
が。琴美のこのステップはフェイク。重心は常に後ろに置いた右脚にある。坊主の跳び込みを誘い、一撃を叩き込むための呼び水だ。
「シィっ!」
琴美の重心が前脚に乗った瞬間、坊主がその膝へ、ぬるりと押し寄せた。
軌道は読んでいる。その高さで、そのラインをたどって来なければならないようシチュエーションを整えたから。
「はっ」
左脚を後ろにたぐり寄せてタックルをすかした琴美が、そのまま左のつま先を坊主の鼻柱へ――
「へっ」
――めり込ませた。
「ひひひ」
……坊主の鼻は折れていなかった。いや、とっくになかったのだ。鼻柱を形成しているはずの軟骨が。そして蹴りの破壊力は彼の野太い首の筋肉で押さえ込まれ、霧散させられた。
「へひっ!」
予備動作もなく、坊主が琴美の足元へ手を伸ばす。琴美が前に置いた左足ではなく、その奥の右の踝を狙った超低空タックルだ。
琴美はこれを上へ跳ぶことでかわし、背骨を踵で踏みつけた。可動域を越えて反り返った骨はもろい。これで脊椎が破壊されれば、どれほどの格闘者でも二度と立ち上がることはできなくなる――
しかし坊主は背を丸めて蹴りを受けた。こうなってしまった背骨を折り砕くことは難しい。
それでも琴美は蹴りを打ち続け、打撃力での破壊を試みたが。
「っ!」
筋肉と脂肪に鎧われた背を揺することで坊主は琴美の蹴りを弾き、さらにはバランスを崩させた。
やむなく受け身をとって床に転がった琴美。
その目の前に、いつの間にかすり寄っていた坊主の笑顔があった。
「あ」
着物の襟元に指をかけられて一気に引き寄せられた琴美の体が、反転させられ、うつ伏せに倒された。
逃れ出ようと琴美は四肢をねじり、関節を自ら外し、繋ぎなおし――技を尽くしたが。背にのしかかったやわらかく固い超重量が、あるときにはねじふせ、あるときには貼りつき、あるときにはまとわりついて、琴美の全身をひとつの鋳型へはめていく。
果たして完成したのは、ステップオーバー・クロストゥホールド・ウィズ・チキンウィングフェイスロックに固められた女の像。
「ぐ、う、う」
逸らされた背にのしかかられたうえに両脚を4の字に固められ、横に向けられた顔を締めあげられることで首を極められ、肩関節を絞りあげられる……逃れる術もない複合技が、琴美の意識を激痛で削り落とす。
「逃げられませんよぉ。逃げられないようにしてますからねぇ。残念です。観客がいてくれたら盛り上がったでしょうにねぇ」
入口を守っていたモヒカンボクサーも充分に強かった。
が。このレスラー坊主は物がちがう。格闘者としての技量も意志も器も、比べものにならない。
なぜ、これほどの男がこんな低層階の番人を務めている?
この上に、あと何人の番人がいて、彼らはこの坊主をどれほど凌いている?
格闘神を名乗る父の仇は、その誰よりも強い。ならば番人を相手どらせて挑戦者を消耗させるようなこすい真似をどうして――
心を覆い隠した弱音を割り砕き、答えるものがあった。
琴美は試されているのだと。技の丈を。憎悪の丈を。駆け抜けてきた地獄の深さを。その証なくして、神殺しは成らぬのだと。
――神?
琴美が心の奥の回答者に嘲笑を投げた。
――笑わせないで。神を気取って私を試すなんて。
琴美の唇が、締めあげられ、詰まっていた呼気を「コッ」。噴いた。
「ォォォォォォォォ」
それは空気を体から抜ききり、鮮度の高い空気を取り込む――言うなればオクタン価の高いガソリンを身体へ注ぎ込むための準備行動である“息吹”。
――見せてあげるわ。修羅地獄の底で研ぎ澄ました技を。煉獄の劫火で焼き固めた憎悪を。試すのはあなたじゃない。私の技と憎悪があなたを試す!
琴美は唯一自由になる左腕の肩と肘の関節を外した。
動かすだけなら、骨の支えがなくとも筋肉だけで充分だ。彼女は一本の紐と化した左腕を放り上げた。
「んん?」
放物線を描いて飛んだ腕が目ざすものは坊主の顔。
琴美の悪あがきを坊主はうるさげに見やり。額で弾こうとしたが。
唯一外されていない手首の関節がくるりと返り、指先を、坊主の左目へ突き立てた。
「ぎ!」
坊主の腕が、脚が、力を散じてゆるんだが、しかし。坊主の体はみっしりと琴美を押し潰しており、このまま這い出すことは不可能だ。
――だとすれば!
坊主の締めから引き抜いた右腕の関節を一気に外し、左腕とともに着物の内へ。
「結!」
かけ声とともに両腕の関節をはめなおして着物の内に体をくぐらせた。その際、脚関節を外して蛇のごとくくねり、琴美は前方へ身を投げ出す。
「くそっ!」
目から鮮血を噴き出しながらも、坊主が琴美をつかみなおそうとするが、琴美の着物とプリーツスカートがその手を遮り、本体へ届かせない。
かくて上着を脱ぎ捨て、体をぴたりと包む黒のインナーとスパッツ姿になった琴美が坊主の前に立った。
「――私が見える? 見えないなら聴きなさい。私は、ここよ」
琴美のかすれた声音に誘われるかのごとく、坊主が最高速ですべり寄る。脚のどこにでもしがみつき、引き倒す。それだけを考えた、それゆえになによりも鋭いタックルで。
「速い」
琴美の体が翻り。
「でも、それだけ」
坊主の左へ回り込んだ。
坊主はただひとつの思惑に捕らわれ、琴美の意図を読まなかった。それゆえにたやすく死角へ入られたのだ。
「蛇のごとく這い」
うろたえ、体を起こした坊主の首へ琴美が腕を差し込み。
「蔦のごとくめぐる」
一気に締めあげながら、下へ引き落とした。
首を固められたまま額を床に叩きつけられた坊主。琴美の腕を引き剥がそうとあがくが、首にぎちりと食い込んだ女の腕に、太い指がかからない。
さらには片腕を琴美の両脚にからめ取られ、じりじりと上へ伸ばされていった。むろん坊主は抗うが、腕一本と脚二本では、いかな剛力をもってしても耐え抜くことはかなわなかった。
バランスが崩れ、坊主はさらに深く、琴美の膂力と重さ、そして自らの重さでもって沈み込んでいく。
「眠りなさい。そうすれば苦しみを忘れられる――」
上に伸べられたまま震えていた坊主の腕から、最後の揺れが消えた。
意識を失くして倒れ伏した坊主からよろめくように離れ、琴美は自分の体を確かめる。
まだ動く。
まだ、ごまかせる。
荒い息を吐きながら、琴美は上へと続く階段に足をかけ、傷ついた体を引き上げた。
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